第七話:俺達はこの件については一旦知らなかった、いいな?
温かい飲み物をめいめいにすする音が虚しく反響する中、言葉を発する人間は誰もいなかった。
俺はひたすらに、「まさか、あの鈴川が?」という気持ちで一杯だ。
それでも、部屋にいる二人を観察する余裕はあるのだから、自分でも薄情者だと少しだけ思う。
ヒマワリは一切の表情を失って、脱力している。
時たま思い出したように、紅茶の入ったマグカップを口に運び、ため息を吐く。
鈴川とほとんど接点のないカエデは当然俺達ほどショックではないのだろう。
俺とヒマワリの顔をうかがい、何かを喋ろうと口を開いてはやめるのを繰り返している。
今までヒマワリが遊んでいるゲーム機の音が途切れても、部屋に流れる沈黙を苦に思ったことはない。
しかし、今日は別だ。
ずうん、と質量を持ったような空気が身体に重くのしかかる。
普段は気にならない壁掛け時計の秒針が動く音。
時たま吹きすさぶ秋の風が窓を揺らす音。
誰に指示されたわけでもなく、自ら押し殺した三人の息遣い。
それらの音と、しい……ん、という耳鳴りにも近い
今日に限って気温が低く、少しだけ肌寒く感じる秋口の乾燥した空気が、皮膚に刺さるようだ。
心を落ち着けようと淹れた紅茶とコーヒーは効果てきめんだった。
落ち着きすぎて、途方にくれるほどに。
面白いほどに時間がゆっくりと流れる。
分針がひとつ動くのにここまで時間がかかるものかと感じたことはめったになかった。皆無と言ってよいのでは?
飲み物を持ってきて、まだ五分と経っていないというのに、一日分の時間が流れたような気さえする。
さぁ、どうするか……。
いや、どうもできないのだけれど。
何もできないということをはっきりと理解しているにも関わらず、何かをしなければならないという焦燥感だけが募る。
鈴川らしくないじゃないか。
あの人好きのする笑顔で、何でも朗らかに笑い飛ばしてしまいそうな男らしくない。
いつからだ?
いつから俺達は間違っていた?
鈴川の様子にどうしてもっと早く気付けなかった?
あの日の違和感をどうして俺は放置していた?
詮無きことだ。益体もないことだ。そんなことはわかっている。
わかっているけれども、後悔が止まらない。
増水した川のように、とめどなく胸中を流れる様々な感情。それを俯瞰しているもう一人の自分が冷静に自分を分析している。
――ああ、そっか。
最初は憎き恋敵だった。
それからは悔しくも尊敬できる大人の男だった。
そんなヤツを、いつのまにか俺も心の何処かで認め、大事に思っていたのだ。
(ああ、くそっ)
心のなかで悪態をつく。
思わず舌打ちをしそうになってやめる。
とにかく今は、何もないことを祈るしかない。
電話越しに聞いた岡平さんの声色は、「心配ではあるけれど……」、「焦ってはいるけれど……」といった感じだった。どうしようもないほどに切迫していたかと言われると、NOである。
だから、状況はそこまで重くないはずなんだ。
大事になっている可能性のほうが小さい。
だから、今感じているこの感情は心配しすぎに違いない。
そう思いながらも、頭の中では最悪の想像が浮かび上がる。
同時に、ユリカさんの泣き顔も。
沈黙と、重苦しい空気、そして嫌な想像に耐えきれなくなり、俺の脚が貧乏ゆすりを始めた頃。
ヒマワリのスマートフォンがぶるぶると震えだした。
「お、岡平さんだっ!」
スマートフォンの画面を確認して叫び、ばばっと立ち上がったヒマワリが、すぐに電話を取る。
「もしもし、ヒマワリです!」
『岡平です。皆さん、まだおそろいですか?』
「は、はい! それでっ!?」
『大丈夫です。鈴川さん、見つかりました』
「みつか……」
誰のものかわからない、安堵のため息が耳朶を打った。
「どこで見つかったんですか?」
『自宅から少し歩いたところにある公園だそうです。ユリカさんがお勤め先から帰宅する時、見つけた、と』
「……よ、よかったぁ……」
ヒマワリがへなへなと座り込む。
俺もヒマワリほどではないが、強張っていた身体が脱力していくのを感じた。
『鈴川さんはとりあえず、ユリカさんと二人で自宅にいらっしゃるようです』
「そう……ですか」
『はい。それでですね。ヒマワリちゃん、ヨウ君にお願いがあります』
「なんですか?」
『くれぐれも、今日は鈴川さんのお家に押しかけないように、お願いします』
岡平さんは「押しかけるな」と念を押す。
「どうしてですか?」
今すぐにでも鈴川の無事を確認したいのだろう。
ヒマワリが納得のいっていなさそうな声を出した。
『貴方達のような子供に過大な心配をかけたことを、鈴川さんが気に病むかもしれません』
「でもっ!」
『いいですか?』
岡平さんが電話の向こうで、こほんと咳払いをした。
『おそらく鈴川さんは、気分障害のなり始めです。端的に言えば、うつ病に近い状態なんですよ』
「うつ……病?」
『医者でもない私では断言できませんけどね。ですが、大きく外れてはいないでしょう』
「えっと、はい」
『そういう方と、どのように接するべきか、皆さんはわかりますか?』
岡平さんの声は淡々としていたが、有無を言わさない迫力がある。
『本当であれば、ユリカさんにも鈴川さんにあまり世話を焼いたりかとしていただきたくないんです』
「それは、どうしてですか?」
『うつ、それに類する症状のかたにとって、他人からの心配だったり、気遣いは、場合によって非常に辛かったりもするんです』
「そうなん……ですか?」
『下手に刺激すれば、症状を悪化させかねません』
聞いたことがある。うつ病の患者に「頑張れ」は禁句なのだと。
そういう人間はすでに頑張って頑張って頑張ったあとだから、「頑張れ」と言われると辛いのだそうだ。
『なので、本来は専門家……つまりお医者様ですが、そういったかたに診てもらうのが一番です』
「アタシにできることはないんですか?」
『残念ながら、今は……』
「……そう……です……か」
ヒマワリが声を詰まらせる。
すると、交代するように今までずっと黙って話を聞いていたカエデが口を開いた。
「ヒマワリさん。岡平さんが仰ってるのは、『鈴川さんにできること』はない、ということですよ」
「え? カエデちゃん、どういう――」
「ユリカさんを支える、というのも間接的にではありますが、鈴川さんを支えることになります」
カエデが優しげに微笑みながらヒマワリを見やる。
『
「あ、アタシ、頑張りますっ!」
『はい。ですが、少しだけ落ち着いてくださいね。急いては事を仕損じる、と言いますし』
「はいっ」
やれることがある、そんな事実を理解しただけで、ヒマワリが一転して元気になった。
ただ、うん。気持ちはわかる。
俺だって「お前らにできることはなにもないから、黙ってろ」なんて言われたら、頭がどうにかなりそうになる。
自分にもできることがある。やれることがある。
それが今の状況において、俺達にとっては唯一の救い、なのかもしれない。
「岡平さん」
奮起したような顔で、握りこぶしを作っているヒマワリを尻目に電話に向かって喋る。
『なんですか? ヨウ君』
「ユリカさんとは、直接お話ししたんですよね?」
『はい』
「大丈夫そうでしたか?」
『流石のユリカさんでした。最初は慌てていましたが、鈴川さんを見つけてからは落ち着いたご様子でしたよ』
「ありがとうございます」
『いえ』
ユリカさんがそこまで動揺していないのであれば、だ。
岡平さんが言うように、今すぐに俺達がどうこうするのはかえって逆効果なのだろう。
『では、私も仕事がありますので。また後ほど連絡を取り合いましょう』
岡平さんの言葉に、俺達は三者三様に返事をする。
『あ、そうそう。最後に。念の為ですが、私から貴方達に連絡があったことはしばらく伏せておいてくださいますか?』
電話を切ろうとした時、最後に岡平さんが付け足した。
「それは、いいですけど……。なんでですか?」
岡平さんの言葉に、ヒマワリが疑問を投げかける。
『これは私も悪かったんですが……。ヒマワリちゃんにご連絡したのは悪手だと思っていましてね。どこでどんな悪い影響があるかわかりません。とりあえず知らなかったふりをしておいてください』
「えっと」
『とりあえず、今は私の顔を立てると思って、言う通りにしてもらえますか?』
「わかりました」
ヒマワリがよくわかっていない様子で「わかった」と返事をする。
『では、失礼します』
挨拶と共に、ぷつりと電話が切れた。
「……さて」
つぶやいてヒマワリを見る。
岡平さんには釘をさされたが、改めてこいつには念押しが必要だ。
「ヒマワリ。お前、岡平さんに言われた通り、今は何もするなよ」
「わ、わかってるよ」
「おじさん、おばさんにも今は言うな。というよりも、俺達はこの件については一旦知らなかった、いいな?」
「わかってるって!」
「ステイだ! ヒマワリ!」
「アタシ犬じゃないんだから!」
ヒマワリは鼻息を荒くして反論する。
でもお前。いつもの暴走列車っぷりは、盛りのついた犬みたいなもんだろうが。
「でも、岡平さんの言うように、知らないふりをしておくのが一番かもですね」
カエデが俺の意見に乗っかる。
「メンタルどうのこうのは置いておいて、鈴川さんにもプライドがあるかもしれません。まだ子供の私達に心配をかけたとあっては、プライドに傷もつきましょう」
「確かに、俺だったら嫌だもんな」
「ヨウ君は嫌がりそうですよね」
俺を見てカエデが少し笑った。
「そりゃ嫌がるさ」
「ちなみに、理由を聞いても?」
「男らしくないだろ?」
俺の答えを聞いたカエデが苦笑いを返す。
「そう言うと思いました」
とにかく、今は岡平さんに言われた通り、何もしない。
俺達は何も聞いてないし、知らない。
それを貫くしかない。
「ま、とりあえず、今日は解散にするか……」
少しばかり衝撃的なことが多すぎた。
頭が疲れている。
俺の提案に、ヒマワリもカエデもゆっくりと頷いた。
§
知らないフリをすると言ったのもつかの間。
次の日の放課後、ヒマワリからメッセージがやってきた。
『お母さんから聞いた。鈴川さん、しばらく仕事休むんだって』
仕事を休む、か。
『それって、休職するってことか?』
『わかんない。お母さんは、体調不良、って』
『他には?』
『お母さんからは、それだけ。鈴川さんがちょっと軽い病気にかかったからお仕事お休みする、って。それ以上詳しいことは話してくれなかった』
体調不良、軽い病気、か。
まぁ、「メンタルをやっちまったので、しばらく仕事を休むことになりました」なんて、センシティブな話題すぎる。
おばさんはきっと、ユリカさんから仔細を聞いているのだろう。
だが、ヒマワリにははっきりと伝えなかった、とかそういうとこか。
『ヨウ』
『なんだ』
『アタシたちにできることってあるかな?』
『岡平さんの言ったことを忘れたか?』
『忘れてないけど』
数秒ほど、メッセージのやりとりが途切れたあとで、ヒマワリからの追撃メッセージがやってきた。
『アタシが子供なのはわかってる。でも、何もできないで見てるだけなのは辛いよ……』
ふむ、と考える。
確かに、身内が辛い状況になっているにも関わらず放置するしかできない、というのは辛い。
気持ちはわかる。
でもな……。岡平さんに釘を刺されているし……。
あ、でも、そうか。
おばさんから、ヒマワリに話があったってことは……。
『今すぐにじゃないことを念頭に置いたうえで、提案だ』
『なに?』
『おばさんに、お見舞いに行きたい、って言え』
俺の提案に、ヒマワリから驚きの感情を示すスタンプが返ってきた。
『そうだよね! その手があったかっ!』
『今じゃないからな?』
『わかってる!』
しばらくして、落ち着いたら、だ。
どうせ、おばさんあたりが様子を見に行くはずだ。
ヒマワリはそれについていけば良い。
『ありがとう、ヨウ』
ヒマワリのメッセージを眺めながら思う。
俺は……どうするか……。
まぁ、一旦、なるようになると思おう。
とりあえず今は様子見だ。
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