第五話:鈴川さん……。なんか、会社に来なくなった……って

 自室に戻ったヒマワリは、未だに激しく鼓動する心臓をなんとか抑えようと、ぎゅうっと胸に右手を押し当てる。


 ヨウに対する好意を自覚してからは、彼の部屋に押しかけて自分らしくアプローチをしてきた。


 ただ、その「自分らしさ」が足かせになったのか、ヨウはヒマワリのアプローチに中々気づかなかった。

 また、ヒマワリ自身、ヨウとの関係を急激に変化させることに少しだけ恐怖を感じていた。


 そんなひどく控えめなヒマワリの好意の示し方を見たカエデも苦言を呈したものだ。


 ――ヒマワリさんの「アタシらしさ」って、こういうことなんですか?


 カエデが苦笑いしながらヒマワリに言った言葉をよく覚えている。


 だってしょうがないじゃん。ヒマワリは思う。

 確かに、『ヨウに魅力的な自分を見せてやる』、と意気込んではいた。


 しかし、考えれば考えるほど、ヒマワリにとっての魅力的な自分というのは、いつもヨウに見せている自分であって、それ以上でも以下でもなかったのだ。

 必然的に、ヨウに対する態度は、ヒマワリの内心がどうであれ、いつもどおりのものとなる。


 でもこれでいいんだ。アタシはアタシなりのやり方でヨウともっと仲良くなる。


 意気込みとは裏腹に、ヒマワリが起こした行動は頻繁にヨウの部屋に入り浸る、というものだけだった。


 だが、今日は違った。


 最初は、いつものようにうじうじ悩んでいるヨウに発破をかけてやるつもりだった。

 なんでもしてあげる、なんて軽い気持ちで言ってみたに過ぎない。


 ヨウなら東京大学くらい頑張れば入学できるだろう。一番近くでヨウの頑張りを見てきたわけじゃないけれど、ヨウが自身の姉のために努力し続けていたことは知っている。

 目的のために頑張れることは才能だ。目的がなくなっても頑張ってるヨウはもっとすごい。ヒマワリはそう思っていた。


 だから、目的をプレゼントしてあげようと、そんな軽い気持ちだった。

 少しでもヨウがやる気になるなら、と。自分が着火剤になれば、と。そう思ったのだ。


 ――ベッドの下に隠してる、エッチな本みたいなことも、してあげるかもよ?


 冗談半分だった。

 ヨウが見破った通り、ヒマワリにとってちょっとした軽口であって、からかいであって、それ以上の意味はなかったのだ。


 もちろん、ヒマワリとしては、言葉自体に嘘はない。ヨウが望むなら最終的にはなんだってしてあげても良い。


 ただ、それは今じゃない。今じゃなかった。


 今じゃないはずだったのだ。


 しかし、ヒマワリにもプライドはある。からかい半分で、そういった・・・・・ことをしたいかどうか聞いて、「お前とだけはない」と言われれば、多少なりともむっとする。

 だからだろうか。少しだけヒートアップした。してしまった。


 更に言うなら、からかうように、にやけながらヨウの顔をジロジロと見てしまった。

 ヒマワリには預かり知らぬことだが、結果的にヨウの対抗心に火を付けることとなった。


 油断していた。

 ヒマワリ自身も気づいていなかった。


 ああいった・・・・・類の冗談を投げかける分には平気なのだが、言われる側に回ると途端にヒマワリは弱くなる。特に異性であれば。


 結果的に、ヨウの意趣返しに、思わぬ反撃に、ヒマワリは思わず自分の心を丸裸にしてしまった。

 されてしまった。


 彼の言葉をそのままの意味でとらえてしまった。


 ――ま、まあ、ヨウが本当にしてほしいなら……いい、よ?


 それは、単なる気の迷いで片付けるには、余りにもヒマワリの本心に近すぎる言葉だった。


 ヨウがからかい返していたことに気づいた時にはもう後の祭りだ。


 すう、はあ、とヒマワリは深呼吸をする。


「ヨウのバカ……」


 何に対しての文句なのか、何についての文句なのか、もはやヒマワリにもわからない。ただ、「バカ」という言葉だけが、するりと口をついて出た。


 よろよろと歩き、ベッドに、ぽすん、と正面から身を預ける。


「ああああああああ!」


 そのまま、ヒマワリは足をバタバタとさせた。

 恥ずかしすぎて顔から火が出そうだ。


 ぼすぼす、とベッドが立てる音が煩わしい。

 しかし、ヒマワリは足をバタバタさせずにはいられなかった。


 ――お、おい、ヒマワリ。


 唖然とした表情で自分を見るヨウの顔が脳裏をよぎった。


 ヨウはどう思っただろうか。突然変なことを言い出した自分に。

 何を思っただろう。何を感じただろう。


「……っ!!!」


 顔が熱い。身体中からじわじわと、嫌な汗が吹き出してくる。


 次会った時、どんな顔をして会えば良い?

 次会った時、どんな言葉を投げかければ良い?


「アタシのバカ! ヨウのバカ! バカバカバカっ!」


 罵る言葉を抑えられれいままに、枕に顔をうずめる。


「バカァ……」



 §



 気づいたら眠ってしまっていたようで、ヒマワリはスマートフォンが通知音を鳴らす音で目を覚ました。

 部屋は暗く、すっかり日も暮れてしまっている。


 両親は……。まだ帰ってきてはいない。


 寝起きながらも未だに茹だっている頭を揺すって、手探りでスマートフォンを手繰り寄せる。

 両親から、晩ごはんは適当に済ませて置いてくれ、とでも連絡が入ったのだろうか、と画面を見る。


 メッセージは岡平キョウコからだった。


『ヒマワリちゃん。お久しぶりです』


(なんだろう)


 岡平は頻繁に連絡を送ってくるタイプの女性ではない。他の人とはどうなのかは知らない。ただ、少なくともヒマワリとは積極的に連絡を取り合うような間柄ではない。

 最後のメッセージも数ヶ月前だ。


 そもそもが仕事で忙しい社会人であるし、岡平はヒマワリと自身の関係性をちゃんと理解している。

 距離感の測り間違いをしない、大人だ。


 ぽぽぽぽ、と音を立てて、スマートフォンをスワイプして返信する。


『岡平さん、お久しぶりです。どうしましたか?』


 既読はすぐについた。返事も同様に。


『すみません。つかぬことをお伺いしますが、鈴川さんについてなにか聞いていたりしませんか?』


(鈴川さん?)


 数ヶ月前に姉と結婚した男性の顔を思い出す。

 最後に見たのは、ニ週間前くらいに、姉と一緒にこの家にやってきたときだ。


 両親とお酒を飲みながら、夕飯を食べて帰っていった。


(鈴川さんがどうしたんだろう?)


 特段、おかしな素振りはなかった、と思う。

 だが、そうであれば岡平がこうして連絡をよこすこともない。


『いえ、特に何も。どうかしましたか?』

『そうですか。いえ、私の杞憂だったみたいです。なんでもありません』


 ヒマワリは岡平の煮えきらない返事に首を傾げた。


 彼女が聡明な女性であるということをヒマワリはよく知っている。

 岡平が杞憂・・を抱くなんて、あるだろうか。


『あの、すみません。岡平さん。どういうことか、教えてくださいませんか?』

『いえ。本当にすみません。本当に私の杞憂なので』


 ヒマワリが再度首を傾げた。今度は先程よりも更に鋭角に。


 岡平がこういった物言いをするのは珍しい。

 ただ、どうにもヒマワリに連絡をよこした理由は伝えたくないらしい。


(まぁ、岡平さんだし、考えがあってのことかなぁ)


 頭が良く、気が利く彼女が、考えなしにヒマワリに連絡をしてくるわけがない。

 なにかゆえあってのことなのだろう。


 ヒマワリはそう思うことにした。


『そうですか。わかりました』

『はい。本当にすみません。突然ご連絡してしまって』

『いえ。岡平さんからのご連絡なら、いつでも大歓迎です』


 ヒマワリのメッセージに既読がついて数秒後、「ありがとう」の意を示すスタンプが送られてきた。


「なんだろう……」


 少しばかりの違和感を感じはしたが、ヒマワリは疑問を考慮の外に投げ捨てた。


 下の階から母親の「ただいま」が聞こえたからだ。


 電気を点けず、ぱたぱたと外に出て、階段をおりる。


「お母さん、おかえり」

「ただいまー。ごめんね、ヒマワリ。ちょっと急な残業で、遅くなっちゃって」

「ううん。大丈夫」

「お父さんも遅くなるみたいだから、二人で外食しちゃおうか?」

「いいね」


 ヒマワリと母が顔を見合わせて笑う。


「じゃ、アタシ着替えてくるね」





 二人は歩いて十分くらいの場所にあるファミリーレストランに行くことにした。


「すっかり涼しくなったわねえ」

「そうだねぇ」


 母親が歩きながらつぶやいた何気ない言葉に、ヒマワリが返事をする。


「そういえば、今日はヨウ君のところ行ったの?」

「わーっ!」


 せっかく岡平からのメッセージで忘れかけていた、恥ずかしい気持ちを思い出してしまった。


「どうしたの?」

「う、ううん。なんでもない」


 ともあれ、母親に今日の出来事を正直に伝えるのは絶対にない。


「そ、そういえばさ。お姉ちゃんのとこって大丈夫そ?」


 とっさに話を逸らす。

 逸らし先は、岡平も心配していた鈴川夫妻のことだ。


「ユリカ?」

「うん」

「特に、経過も順調。お腹の子もすくすく育ってるって」

「あ、そうなんだ」


 聞きたかったのはそういうことではなかったが、まぁ話は逸らすことができた。ヒマワリがそっと胸をなでおろした。


 ファミリーレストランに入る頃には、ヒマワリの記憶から岡平からのメッセージはすっかり消え去っていた。



 §



「ヨウ~。お菓子~」


 それから、一週間と少しが経った火曜日。


 二、三日は恥ずかしさのあまり、ヒマワリはヨウの部屋を訪れなかったが、元来の気質もあってか開き直ることに決めた。

 つまるところ、何もなかったことにした。ヨウとは普通どおりに接することにしたのだ。


 しばらく間を空けてから、顔を出したときの素っ頓狂な彼の顔は、今思い出しても笑いがこみ上げてくる。


 幸いにも、それからヨウとヒマワリの間でおかしな空気になることはなく、あの日起こった一連の出来事は無かったこととなった。

 ヒマワリの尽力のおかげなのか、ヨウが気にしないようにしたのかはわからない。


「……ったく」


 ヨウが、やれやれ、と机から立ち上がり、部屋から出ていった。


「ヒマワリさん?」


 たまたま予定が合ったので一緒にやってきたカエデがヒマワリをじろりと見た。


「だってぇ」

「最近『ヒマワリさんだからしょうがないか』と思ってしまいそうになる私の気持ちも考えてください?」

「はぁい」


 カエデが小さくため息を吐いたあとで、ふふ、と笑う。

 ヒマワリも釣られて笑った。


「ほれよ。菓子だ」


 気づけば部屋に戻ってきていたヨウが、菓子と飲み物等々を携えて戻ってきていた。


「あんがと」

「ありがとうございます。ヨウ君」


 ヒマワリとカエデがめいめいに礼を述べる。


 それからしばらく、無言の時間が続いた。


 ヨウは机に向かって勉強をしている。

 カエデもテーブルに向かって勉強をしている。

 ヒマワリはいつもどおり、ゲームをやっている。


 三者三様に放課後を過ごす三人だ。


 そんないつもどおりが、テーブルに置いたヒマワリのスマートフォンの通知音によって破られた。


「ん?」


 ヒマワリがゲームを中断して、スマートフォンを手に取る。


 岡平からのメッセージだった。


『ヒマワリちゃん。何度もすみません。鈴川さんについて、なにか聞いていませんか?』


 まただ。ヒマワリは首をかしげる。

 その様子を敏感に察知し不思議に思ったヨウが椅子をくるりと回して、ヒマワリを見た。


「どうした?」

「いや、岡平さんから」

「岡平さんから?」

「うん。鈴川さんについて、なんか聞いてないかって」

「鈴川?」


 ヨウもまた疑問に思ったのか、不思議そうな顔をする。


 ヒマワリはヨウと顔を見合わせたあとで、ぽぽぽぽ、とスマートフォンを操作して返事を打った。


『いえ、何も聞いてないです。こないだご連絡いただいたのと同じ話ですか?』


 岡平からの返信は早かった。


『はい。私の杞憂で済めばよかったんですが……。端的に言いますと、鈴川さんが、会社に来なくなりました』


「……え?」


 そんな話は全く聞いていない。

 母からも、姉からも、本人からも。


 何が起こっている?

 ヒマワリは頭が真っ白になった。

 同時に、ぞわり、と肌が粟立った。


「おい。ヒマワリ、どうした」


 ヨウが固まってしまったヒマワリを見て、声をかける。


「鈴川さん……。なんか、会社に来なくなった……って」


 ヨウが絶句する。

 カエデが何やら深刻そうな雰囲気を醸し出し始めた二人に顔を上げた。


「どういうことだよ」

「わ、わかんない」

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