第三話:人生、どう生きたって、未来の自分は絶対に後悔する。じゃあ、今の自分にできるのは何か
次の月曜日。六限目。
秋の日差しに、思わず欠伸が出そうになりそうな暖かい午後。
いつも通りの授業に、いつも通り俺は真面目に向き合っていた。
夏休み明けくらいに席替えをしたので、俺の席からはカエデの背中が見える。ついでに浜口もだ。
カエデの後ろ姿もいつも通り真面目だ。流石のカエデさんだ。感心する。
そして、浜口は、いつも通り寝ている。流石の浜口さんだ。やれやれ、と思う。
姿勢良く黒板と教科書を交互に目を走らせる様を見れば、カエデが春、浦園の難関転入試験をあっさり合格したのも納得する。
それに引き換え、浜口ときたら。そろそろ真面目に進路について考えないといけない時分だというのに。
まぁ、ヤツの人生に責任を持っているわけではない。好きにしてくれれば良いとは思う。
思うのだが、浜口はああ見えて、地頭が悪くない。
いや、正直、悪くないというレベルではない。相当に良い。
普段の行いもあって、成績は悪いのだが、飲み込みがめっぽう早いのだ。
そのことを、同じクラスになったこの半年程度で、俺は痛感していた。
何度か勉強を教えたことがあるのだが、一度教わって理解したことは忘れない。
また、理詰めでの習得が必要な事柄に対しても、なんとなく感覚で理解してしまう。それで、大きく間違っていないのだ。
天才肌というのはああいう人間のことを言うのだろう。
悔しいがヤツには敵わない。浜口が本気を出せば、俺なんてすぐさま抜かれてしまうだろう。
それがいつくるのか、はたまたいつまでたってもこないのか。
だが、進路という目標を据えた時、浜口は変わる気がする。なんとなくそう思う。
敵わないといえば、カエデもそうだ。
カエデは浜口とは違い、天才肌というかセンスの塊というか、そういったタイプではない。
一つ一つ物事を咀嚼し、真面目に知識を深め、そのすべてを深く考える。そんなタイプだ。
要領も良く、頭の回転も早い。
おまけにカエデは「英語」という絶対の武器を持っている。
事実、俺はカエデが転入してきてからの試験で、彼女に勝てた試しがない。
最初の頃は、付き合いの浅さもあってか、「見せるものじゃありませんから」となかなか結果を見せてくれなかった。
だが、最近では「ヨウ君、今回も私の勝ちですね」と、誇らしげな顔を俺に向けてくる。もはや悔しさも湧き上がらない。
勿論、俺も成績は悪くはない。むしろ良い方だ。
ただ、良い方とは言っても、「ユリカさんに似合う男になる」という目標を失った俺の成績は、少しずつ下がってきている。
勉強すること自体が習慣になっているので、欠かしたことはないのだが、それでも身の入り方が違うのだ。
カエデに勝てた試しがないのも、そのせいなのかもしれない。
とは言え、試験では学年全体でもトップの方だし、二学期から始まった模擬試験でも偏差値は六十の中程をキープしている。
このまま頑張れば、そこそこの大学には入れるし、もっと上を目指すこともできるだろう、というのが担任の評価である。上の大学を目指すことになんの意味があるのか、今の俺にはさっぱりわからないけれど。
終業ベルがなり、六限目の世界史担当の教師が「今日はここまで」と出ていく。
後はホームルームをこなせば終わりだ。
数分も経たずに、担任教師が教室へ入ってきた。
プリントの束を携えて。
女性教師は教室の最前列の生徒に、「後ろへ回してください」と、人数分のプリントを渡した。
ややあって、前の席の男子が俺にもプリントを回す。一枚取って後ろへ回した。
プリントを見る。
――進路希望調査
プリントのタイトルには大きくそのように書かれていた。
そういえば一年生の時の今頃も書かされたっけか。
あの頃は具体的にどんな大学に行きたいのか、全然想像できなかったから、適当に書いたのだが……。
「皆さん。昨年も提出してもらったと思いますが、今年も改めて進路について書いてもらいます」
プリントが全員に回ったことを確認してから、担任が淡々と喋りだす。
「一年生のときは、まだまだご自身の将来について漠然としか考えてなかった方もいると思いますが、今年は違います。より具体的な目標を設定し、皆さん自身が将来どうなりたいかを良く考えてください」
担任が教室中をぐるりと見回す。
「また、三年生から皆さんは文系、理系のどちらかを選ぶこととなります。進路と併せて、よく考えてください。ご両親とも良く相談してください。最終的に提出してもらった進路希望調査を使って、三者面談することとなります」
そして、担任は少しだけ口角をあげてから、締めくくった。
「来月下旬には、修学旅行もあります。すっきりした気持ちで楽しめるよう、真剣に考えてください」
「
ホームルームが終わり放課後になると、浜口が真っ先に俺の元へやってきた。
「進路どうするか決めてるか?」
「いや。まだ具体的には」
「だよなぁ。将来のことなんてわかんねぇよなぁ」
浜口が俺の机に腰掛けながら、ぼやく。
確かに、将来何をしているかなんて、全然わからない。
少なくとも、俺にとっての「将来」の軸は、『どの大学でどの学科で』とか、そういうものじゃなかった。
「真面目に考えないとな」
「お? 春原。お前、真面目に考える気になってんのか?」
「そりゃな」
「裏切り者~」
「誰が誰を裏切ったんだよ」
「お前が、俺を」
「なんでそうなるんだよ」
浜口と軽口を交わし合っていると、カエデがとことことこちらへ向かってきた。
「お、
「ヨウ君。と、浜口さん。進路はどうされますか?」
「俺達は全然決まってない、春夏冬ちゃんは?」
浜口の問いに、カエデが少し申し訳無さそうな顔をする。
「すみません。私はもう、ずっと前から決まっていて」
「え? 春夏冬ちゃん、どこ行くの?」
「私は外国語が学べる大学に行こうと思っています」
「おー、すげー。あれ? でも、春夏冬ちゃん英語できるじゃん」
「日常会話程度ですし、英語以外はからきしなんですよ。ええと、少し恥ずかしいですが――」
カエデがこほんと咳払いをする。
「――将来は、今までの経験を活かして、外交官になりたいなと思っていまして」
「お、おおう。スケールが違いすぎて、全然わからねぇ」
浜口が口をあんぐりと開けて驚く。
俺も正直、浜口の言う通り、スケールがでかすぎてよくわからない。
「そんな感じです」
てへへ、と恥ずかしそうにカエデが笑った。
「すごいな、カエデは」
思わず思ったことがそのまま声に出た。
「ありがとうございます。ヨウ君は、何になりたいんですか?」
「俺は……」
俺は何になりたいのだろうか。
ちょっと前まではもっとシンプルだった。
かっこよい大人になりたい。
スマートな男になりたい。
ただ、それだけだった。
でも、今思えば、なんと具体性のない将来像だろうか。
「春夏冬ちゃーん! ちなみに俺は、将来社長になる!」
俺が悩んでいる横から、浜口が割って入る。
「はぁ、社長ですか?」
「うん! 社長!」
「そうなんですか、すごいですね」
「でしょでしょ?」
浜口は気づいていない。カエデの言葉が、棒読みも棒読みであったことに。
俺以上に将来のビジョンがなさすぎる。こいつはだめかも知れない。
いやいや。なんだかんだ、浜口みたいな男が将来「若社長」なんて呼ばれることになったりするものだ。決めつけは良くない。
「社長になって、ウハウハな生活送りてぇなぁ!」
ねぇか。ねぇな。
絶対ない。そう信じよう。信じたい。
こいつが、スマートな若社長とか、マジでなさすぎる。
「……さて、どうするかねぇ」
進路、か。
本当によくわからない。
誰に相談すればよいものか。
§
そんなこんなで、家に帰ると、何故か鈴川がいた。
リビングのソファに座って、母さんと茶を飲んでいる。
帰ってきた俺を見るなり、鈴川が弾けるような笑顔になる。
「お、ヨウ君、おかえり」
「え? なんでいるんです?」
「『なんでいるんです』、とはお言葉だなぁ」
鈴川が、たはは、と苦笑いしながら、後頭部を掻いた。
「ヨウ、今相談に乗ってもらってるんだからそんなこと言わないの」
「相談?」
「えぇ。お父さん、来月から異動になっちゃって」
「え?」
初耳だ。
「今日内示が出たって、メッセージが来てね」
「っても、社内での異動だろ? 別にそんな大事じゃ――」
「それがね。私もよくわからないんだけど……」
母さんの話を目で遮って、鈴川が喋り始める。
「なんでも、春原さんの会社の経営方針で、新進気鋭のIT企業から、CTOを招いたらしいんだ」
「しーてぃー……」
「あー、ごめんごめん。技術的なことを一手に担って、責任と権限を持ち、大方針を定める副社長、みたいな感じかなあ」
「はあ」
よくわからない顔をしている俺に、鈴川が少しだけ困った顔をした。
「あ、すみません。大丈夫です」
「そう? で、春原さんがね、そのCTOが新しく立ち上げたITシステム内製部門の部長になったんだよ」
「部長……。って、昇進じゃんっ!」
俺は思わず母さんの顔を見る。
父さんの役職は確か課長だったはずだ。それが部長になる。
嬉しいことのはずだ。
しかし、母さんの顔は浮かない。
「いや、そうなんだけどね? ほら、お父さん、全然ITとかわからないじゃない」
「……あー、確かにそうかも」
父さんは息子の俺から見てもIT音痴だ。
勿論、パソコンはある程度操作できる。
しかし、文書作成ソフトはともかくとして、表計算ソフトに至っては、「ヨウ、これ、どうやるかわかるか?」と俺に聞いてくる始末なのだ。
「ITシステム内製ともなれば、IT技術の知識が必要不可欠になるんだ」
「そうなのよ。それで、鈴川さんに急遽来てもらってね」
鈴川と母さんが、俺に苦笑いを向けた。
でも、あれ?
「肝心の父さんは?」
当人がいない。
「ああ、それは俺がちょっと早くお邪魔しすぎたんだよ。申し訳ございません、本当に」
「いえ、わざわざ来ていただいて、本当に助かります」
早くお邪魔しすぎた?
違和感がある。
一昨日聞いたユリカさんの話によれば、鈴川は今「大型案件」とやらで忙しいはずだ。
家事も一生懸命こなして、持ち帰って仕事をして。
「母さん、鈴川さんに無茶言ってない?」
まず俺は母さんをじとりと見た。
無茶言って早く来てもらったとか、大げさに言って慌てさせたとか、母さんならあり得る。
しかし、俺の言葉に慌てたのは、鈴川だった。
「違う違う。本当に、たまたま、今日は早めに仕事が終わったから」
「あ、そうなんですか?」
「そうそう。だから、お母さんをそんなに睨まないであげてくれ」
母さんが無理を言ったんじゃないとすると。
どういうことだろう。
まぁ、鈴川は頭も良いし、スマートな男だ。
その言葉に嘘はないのだろう。
俺は、少しだけ感じた小さな違和感を呑み込んだ。
しばらくして、父さんも帰ってきて。
母さんのすすめで、鈴川は夕飯を食べていくことに。
ユリカさんが夕飯を作って待ってるんじゃないか? とは思ったが、ちゃんと連絡はしている、とのことだった。
父さんに懇切丁寧にITというものについて、基礎の基礎から教える鈴川。
ぺこぺこしながら、それを聞く父さん。
ゲラ笑いをしながら、父さんをバシバシと叩く母さん。
騒がしい夕飯だった。
夕飯も食べ終わりそうな頃、ふと思いだす。鞄の中に入っている、進路希望調査のプリントを。
そして、鈴川を見て、少しだけ考えた。
そうだな。俺の理想を体現したかのようなこの男に聞いてみるのも良いのかもしれない。
憎らしくはあるが、その点については非の打ち所がない。
「あの、鈴川さん」
「ん? なんだい、ヨウ君」
「えっと、今学校で進路希望調査してて」
「進路希望か、懐かしいなあ」
鈴川が遠い目をしながら微笑む。
「で、進路について、俺に相談、ってところかな?」
「はい。鈴川さんは、大学ってどう決めました?」
「うーん、俺かあ」
鈴川が顎に手を当てて少し上を向く。
「都内のギリギリ受からなそうな大学を狙った、かな?」
「えっと……」
「はは、結構適当だろ?」
「いや、はい」
ははは、と鈴川が笑う。
「高校生の時点で、将来なりたいものが決まってる、なんて人間中々いないさ」
「そうなんですかね」
「ああ。俺の友人も、大学卒業まで『自分が何をしたいのか』なんてよくわかってないヤツが多かったよ」
「……本当ですか? それ」
「本当だよ」
鈴川が、俺の胸に右拳を軽く当てた。
「結局人間は変わっていくから。今なりたいものが、五年後もそうだとは限らない」
「はあ」
「あと、社会人から一言言わせてもらうとだね」
「はい」
「入学した大学程度で人の人生は決まらない、ってのが俺の実感だ。勿論就職活動のときは、ある程度勘案される。でも、就職した後、出た大学によって何かが決まることってのはないかな」
大学程度で人の人生は決まらない、か。
「じゃあ――」
「でもね」
鈴川が少しだけ苦い表情をした。
「他人の成功体験は再現性がないんだ。だから俺の意見も話半分に聞いておいた方が良い」
「え?」
口に出した言葉に、彼がどれだけの想いを込めたかはわからない。
ただ、どことなく声に重みを感じた。
「後悔はしてるよ。俺はずっと野球をやってたから、どっちかと言うと勉強は苦手だった」
「そうなんですか?」
確か、鈴川の出ている大学はそこそこのところだったはずだが。
「野球で培った体力が役に立ってね。踏ん張りは効いたんだ」
「はあ」
「でも、自分がもっと要領がよかったら、頭がよかったら。もっと良い大学に行けたかもしれない」
「それって」
さっきと言っていることが矛盾してないか?
「矛盾してるだろ? でも、物事ってのは単純じゃない。俺だって経験したことのないことはわからない」
鈴川がそう言って俺の肩を叩く。
「人生、どう生きたって、未来の自分は絶対に後悔する。じゃあ、今の自分にできるのは何か、だな」
なんとなく言いたことは理解できる。
「つまるところ、どうせ後悔するんだから、今できる最善を尽くすしかない、ってことだ」
「わかる気がします」
「なら良かった」
「ありがとうございます」
「ん、参考になったなら光栄だ」
鈴川が男臭く笑った。
俺もつられて笑った。
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