第十七話:……どうもしないよ

 ――ヒマワリさん、あなたはどうしますか?


 ヒマワリの頭の中で、カエデからかけられた言葉がこだまのようにリフレインする。

 わんわんと繰り返し鳴り響く銀鈴のような声に、カラオケボックスから出て家に帰るまでの記憶がすっぽり抜け落ちてしまったほどだ。


 ほとんど無意識で自宅まで戻り、玄関の扉を開けて家の中に入った。


「あら? ヒマワリ、アンタ、今日お友達と遊ぶから遅くなるって――」


 ただいまも言わずに、自分の部屋へ向かうヒマワリの背中に、母親の声がかかる。


 足を止めたヒマワリは振り向かずに「具合悪くなって、帰ってきた」と返した。


 妙な雰囲気を発する娘に、母は小さく首を傾げる。

 どうしたの、と声を掛ける間もなく、ヒマワリは自室へ入っていった。


 バタン、と扉が閉じる。

 ヒマワリは、部屋へ一歩だけ入ったその場所で立ちすくんだ。


「あー。……気、遣わせちゃったな」


 ぽろりとこぼしたのは、そんな言葉。


 ヨウは変に思っただろう。

 カエデも、自分が突然帰ってしまったことをごまかすために、苦労しているかもしれない。


 ――ヒマワリさん、あなたはどうしますか?


 カエデのことを思い出したら、また、あの声が脳内再生された。


「アタシは……」


 アタシはどうしたいのだろうか。ヒマワリは焦点のあっていない目でぼんやりと部屋の片隅にある大きな本棚を見た。


 小学校に上がる時、両親に買ってもらったものだ。


 ヒマワリは読書家というわけではない。漫画はともかく、どちらかと言えば活字は苦手だ。

 そんなヒマワリの部屋に何故、彼女の気質にそぐわない大きな本棚があるのか。


 それは、ひとえにアルバムを整理するためであった。


 父は、写真を撮るのが好きだった。

 母は、父が撮った写真を印刷して、アルバムにまとめるのが好きだった。


 思春期に差し掛かり、ヒマワリが両親に写真を撮られることに難色を示し始めた中学生くらいから数は減ったものの、それでも毎年のようにアルバムは増えていく。


 本棚の半分以上を占めるアルバムに、ヒマワリはふらふらと吸い寄せられていった。


 茹だった脳が癒やしを求めたのか。はたまた、たまたま目に入ったそれに引き寄せられただけなのか。

 ヒマワリにもわからなかった。


 背表紙に『ヒマワリ:六歳その一』と書かれたアルバムを手に取り、緩慢とした動きで開く。


 たまたま開いたページに、ヨウとユリカとヒマワリの三人で映った写真が貼られていた。

 ヨウもヒマワリも、まだまだ小さかった頃の写真。


「ふふっ」


 思わず小さな笑い声がこぼれる。


 秋野家の庭に子供用プールを広げて遊んだ夏の日の思い出だ。


 一番前でヒマワリがレンズに向かってウインクをしながらピースをしている。


 一番後ろでは濡れたTシャツを肌に張り付かせたユリカが満面の笑みでヨウの肩に手をかけている。


 そして、前後から挟まれる形となったヨウは、頬を赤らめて無愛想に視線を逸らしていた。


「懐かしいな……」


 この頃からヨウはユリカのことが好きだった。

 ユリカ姉、ユリカ姉、とユリカを呼んでくっついて回っていた。


 そして、ヨウがユリカしか見ていないことが、なんとなく気に食わなくて、ヒマワリがヨウにちょっかいをかける。

 あまりにヒマワリがしつこくちょっかいをかけるものだから、ヨウが泣きながら怒り出して、喧嘩になり、ユリカがそれを仲裁する。


 そんな毎日だった。


 アルバムをめくる。六歳のヒマワリの写真は、その半分以上がヨウと一緒だ。


「どんだけ、ヨウと一緒にいたんだろ。アタシ」


 毎日毎日、日が暮れるまで、二人で遊んだ。

 嫌です、というポーズを取るヨウを引き連れて。


 遅くまで遊びすぎて、門限を過ぎてしまい、二人で目一杯怒られたことも覚えている。


 アルバムを閉じ、次のアルバムへ。

 七歳の頃。八歳の頃。九歳の頃。


 どんどんとアルバムを開いては閉じ、開いては閉じするが、貼られている写真のほとんどがヨウと一緒に映っているものだ。


 十歳の頃。十一歳の頃。十二歳の頃。


 思い出をたぐりながら、時には写真を指でなぞって、アルバムを眺める。


 アルバムが十三歳の頃のものに差し掛かると、途端に貼られている写真からヨウの現れる回数が減っていった。


「この頃、だったよね」


 思えば、何故ヨウと疎遠になったのだろうか。

 きっかけはなんだっただろうか。


 中学に上がったばかりの頃。二人が入学した中学校は、帰宅部を許さなかった。


 入る部活が異なったため、自然と一緒に行動することも減っていった。

 ヒマワリは陸上部、ヨウはサッカー部だった。


 しかし、お互い部活が休みの時は一緒に帰っていた記憶がある。少なくとも、中学一年生の最初の頃は。


 思い出す。

 部活休みで、一緒に帰った夕暮れの初夏のある日を。


 中学に入る直前くらいから急成長したヨウはいつの間にかヒマワリの身長を抜いていた。


 幼馴染の身体が急激に変化していくさまに、なんとも言えない違和感を抱いていたことをヒマワリは思い出す。


 思い返せば、それはヨウも同じだったのかもしれない。

 ヒマワリの身体も、ヨウと同様に変化していた。


 痩せっぽちだった身体が、少しだけ丸みをおびはじめた。

 ぺったんこだった胸が少しだけ膨らみ始めた。今も大きいとは言えないのが、少し悲しくはあるが。


 髪を伸ばし始めたのもこの頃だったか。


 最初は姉であるユリカの長い黒髪に憧れた。中学の頃よりも肉体的にも精神的にもぐんと成長した今以て、どうして憧れたのか訊かれても上手く説明はできない自信がある。


 ただ、「女らしさ」みたいなものを意識するようになったことだけは確かだ。


 ――ね~、ヨウ~。


 いつだっただろうか。めっきり会話をしなくなった幼馴染に、帰り路を歩きながら声を掛けたのは。


 ――なんだよ。

 ――ヨウ、ってまだお姉ちゃんのこと好きなの?

 ――はぁ? なんだよ、いきなり。


 幼馴染の口調が少しばかり乱暴になったのもこの頃だったように思う。


 ――いいじゃん。どうなの~?


 飽くまで軽い気持ちで訊ねた。


 訊かれた幼馴染は、とてもじゃないが夕焼けに照らされただけとは言えないほど真っ赤な頬を隠すように。

 ヒマワリから顔を背けた。


 ――そうだよ。

 ――ふうん。


 あの時、自分はどんな気持ちになったのだったか。


 確か。


「あ……」


 少しじゃなく、ものすごく残念に思った。当時の感情が、生々しく蘇る。


 その気持ちは、ヨウから「カエデに告白された」と伝えられた時と同じ気持ちだった。

 同じだった。


「あー……今更かよう」


 アルバムを閉じて、本棚にしまう。

 そのままヒマワリはフラフラとベッドに歩いていき、背中から仰向けに倒れ込んだ。


 右腕で目を覆う。


 そうでもしなければ、涙がこぼれてしまいそうだった。


 鈴川トウジへの憧れを、ヒマワリは初恋だと思っていた。

 それほどに、彼へ向ける感情は激しいものだった。


 自身の身が、心が、焼き焦がれているかのように錯覚するほどに。


「今更かよう」


 もう一度ヒマワリが繰り返す。


 ――違ったんだ。アタシの初恋は……。


 他の誰でもない。幼馴染だった。


 実の姉に全ての想いを向ける幼馴染から、ヒマワリは身を引いたのだ。

 ヒマワリ自身も意識できないほどに、自然に。


 だから、ヒマワリはヨウと距離を取った。


 勿論、それだけが理由ではない、と思う。


 幼馴染が、ヒマワリを眼中に入れず、自分磨きに精を出し始めたことだったりとか。


 ぶっきらぼうに磨きがかかった彼の言葉に、含まれているはずのない棘を感じてしまったりだとか。

 その棘に、傷ついてしまった自分を認めたくなくて、目をそらして、だとか。

 そんな色々が積み重なった結果ではあった。


 ヒマワリは自分が一番大事なものを容易に手放す悪癖を持っている。


 それは幼少の頃の経験に起因するものだ。


 まだ小学校にも上がってなかったころ、姉のユリカとおもちゃの取り合いになった。

 ヒマワリが四歳、ユリカが十二歳の頃だった。


 歳の離れた兄、姉を持つ小さな子供は、とかく兄姉けいしの持ち物を羨ましがるものだ。


 その日、ヒマワリが欲しがったのは、ユリカが長らく大切にしていた熊のぬいぐるみだった。


「アタシ、お姉ちゃんの熊がほしい、頂戴、頂戴」と繰り返すヒマワリに、流石のユリカも難色を示した。


 ダダをこねて、地団駄を踏んで、泣きわめいて。

 母親が仲裁に入って、姉が「仕方ないわね」と言い、めでたく熊のぬいぐるみはヒマワリのものになった。


 ヒマワリは喜んだ。飛び上がって、踊りだすほどに。


 貰った熊のぬいぐるみをぎゅうっと抱きしめて笑い、一緒にままごとに興じようとした。


 のだが、姉の部屋から聞こえてくる奇妙な音を耳にして、手を止めた。

 気になってそろそろと部屋を覗くと、いつも優しげに微笑んで激情に駆られることのない姉が、すすり泣いていた。


 子供心に、強く後悔した。

 ヒマワリは迷った末、姉に謝罪し、ぬいぐるみを返した。


 しかし、姉は真っ赤にした目で「それはもう、ヒマワリのものだから」、と笑ったのだ。


 ショックだった。優しい姉を自身が酷く傷つけてしまったことを理解した。

 姉のことが大好きだった。だから、姉の大切にしていたものが光り輝いて見えた。


 でも、大好きな人が持っている羨ましいなにかを欲しがると、大好きな人を傷つけてしまう。


 それからだ。

 ヒマワリは、自分が本当に欲しいものを、最後の最後には諦めるようになった。


 ヨウのことに話を戻そう。


 ヒマワリは、中学生らしい短絡的な思考で、「ここまでヨウが好きで、隣に立つために努力しているのだから、ヨウもお姉ちゃんのものになるのだろう」と考えた。


 ヨウとユリカは、ヒマワリにとってセットだった。


 だから……。


 だから、いつものように、ヨウを諦めた。

 それまでしていたように、自然に。


 自分でも気づかないほどに。残酷なまでに、自然に。


「なあんで、今更わかっちゃうかなあ」


 アタシは、ヨウが好きだったんだ。

 ずっと、今でも。


 気づいてしまった。


 ――ヒマワリさん、あなたはどうしますか?


 今日何度頭の中で繰り返されたかわからないカエデの言葉がまた幻聴のように、頭の中の鼓膜を震わせる。


「……どうもしないよ」


 訊いた当人がいないことを承知で、ヒマワリは小さく答えた。


「……どうもしない」


 もう一度繰り返す。


 今更だ。


 ヨウはきっとカエデを選ぶ。

 カエデはユリカになんとなく似ている。


 物腰も、笑顔も、芯の強さも、優しさも。


 それに。


 ヒマワリは考える。


 今、自分がヨウに「ずっと好きだった」なんて伝えたらどうなるだろうか。

 ヨウはどんな反応を示すだろうか。


 想像する。


 きっと、まず意外そうな顔をするだろう。

 そして、「冗談言うな」だとか、言ってくるだろう。


 そこまではすんなりと浮かんできた。


 では、冗談じゃないことを、懇切丁寧に説明した後、彼はどうするだろうか。


 その先がわからない。


 わからないことは、怖い。

 怖くてたまらない。


 せっかく最近になって、ずっと疎遠だった幼馴染とまた気軽に言葉を交わす仲に戻ることができたのだ。

 安易にそれを手放すような選択をすることができるだろうか。


 少なくともヒマワリにはできない。


 ずっと気がかりだったのだ。

 めっきり話すことのなくなってしまった、隣に住む幼馴染に男の子のことが。


「カエデちゃんとヨウが付き合ったら……」


 アタシはまたヨウとは疎遠になるだろうな。そう思った。


 自身の想いを告げても、告げなくても、結末は変わらない。きっとそうなのだろう。


 だったら、幼馴染との関係が可能な限り変化しない選択をしよう。


 だから、ヒマワリは。


 ――ヒマワリさん、あなたはどうしますか?


「どうもしない」


 何もしないことを、選んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る