第十六話:私は、今日から全力でヨウ君にアタックします

 噂、というものは往々にして本人の耳には直接は入らないものである。


 しかしながら、その日いつも通り登校して教室に入ったカエデは、昨日までとは異なる視線が自身に向けられていることを感じ取った。


(なんだろう)


 教室のそこかしこで、自分を見ながらヒソヒソと話をされているような気がする。

 妙な居心地の悪さを感じながら、席につく。


 違和感の正体について気になりはしたものの、他の生徒に訊くのもはばかられ、カエデはそのまま席へ着く。

 そして、始業ベルがなり、一日が始まり、終わった。


 自身に向けられる異様な雰囲気は、授業中も休み時間も変わらなかった。

 解放されるのは自宅へ返った時くらいだった。


 次の日も、次の日も、その次の日も。

 それが止むことはなかった。


 むしろ、どんどんと悪化していた。

 日に日に、自身に向けられる好奇の視線が強くなっていくのを感じた。


 また、数日ほど経つとカエデにも理解できた。探るような、面白がるような視線を受けているのが自分だけではないことに。

 同時に、教室の雰囲気の変化、その原因に、遅まきながら気づく。


(あの日、更衣室でした会話だ)


 クラスメイトの注目はカエデだけではなく、ヨウにも集まっていた。


 原因に思い当たったカエデは、恥ずかしさで今すぐにでも死んでしまいたい気持ちになった。


 自分の仄かな想いが、こんな形で詳らかにされることなんて望んでいなかった。


 唯一の救いは、注目を集めているもう一人がどこ吹く風といった面持ちであり、全く意に介していなかったことだろうか。


 人の噂も七十五日。それが本当なら、二ヶ月とちょっと経てば噂も収まる。信じよう。


 カエデが選んだのは徹底的な無視だった。

 噂は噂。恥ずかしいだけで、実害があるわけではない。


 それにヨウだってさっぱり気にしていない。

 であれば、自分も気にしないことにしよう。


 そう決めた。


 決めてから二週間ほど経ったある日、席までやってきたヒマワリに声をかけられた。


「カエデちゃん、ちょっと良い?」


 申し訳無さそうな顔で、こそっと耳打ちをしたヒマワリに、カエデは小さく頷いた。


 ヒマワリに連れられて、普段から人通りの少ない特別教室が立ち並ぶ廊下に向かう。


「ごめんね。カエデちゃん」

「えっと?」

「噂になってるの、気づいてるよね?」


 カエデは肯定するべきか否定するべきか迷う。

 しかし、普段の彼女の人柄を鑑みて、信頼できると判断した。


「あの、はい」

「アタシのせいだ~」


 うがー、と頭を抱えるヒマワリに、カエデは少し驚く。


「え? 別にヒマワリさんのせいじゃ――」

「アタシのせいだよっ!」


 ばっ、とカエデに詰め寄って、ヒマワリが叫ぶ。

 自分でも思った以上に大きい声が出て驚いたのか、「あっ」と言ってから、すぐに口に手を当てた。


「あの日の着替え中の話だよね……」


 ヒマワリが口に手を当てて、こそこそとカエデに喋りかけた。


「アタシ、軽い冗談みたいな話だと思って、適当に答えちゃったんだよね……。だからさ……」


 強い後悔をにじませたヒマワリの顔を見て、カエデが微笑む。


「ヒマワリさんのせいじゃないです」

「でも……」

「所詮噂です。私は放っておくことにしました。ヒマワリさんも、気に病まず、放置していただければ」

「カエデちゃんがそう言うなら……」


「大丈夫ですよ」と言って、カエデがヒマワリの肩を叩く。


 意気消沈ぶりはそのままで、「何かあったら、アタシがちゃんとオトシマエつけるから、言ってね」とヒマワリが返した。


 どうせ、しばらくすれば収まる。それまでの辛抱だ。

 カエデは、カエデ自身でも驚くほどに楽観的だった。


 数日経つまでは。





 ヒマワリから謝られてから数日。


 カエデがいつものように引き戸を開けて、教室に足を踏み入れる。

 そのまま自分の席につこうと、何気なく黒板を見た時。


(え?)


 凍りついた。


 中学生らしい嫌がらせと言ってしまえばそれまでだ。

 しかし、対象となった当人からしたら、たまったものではない。


 多感な思春期の男女であればなおさらだ。


 黒板に大きく書かれていたのは相合い傘。

 左に「春原すのはら」、右に「春夏冬あきなし」と書かれていた。


 ふわりと、地面から浮き上がったような、そんな感覚を抱いた。

 同時に、身体中から汗が吹き出る。


 誰がこんなことを、と教室を見回す。


 後ろの方で、ヒソヒソ話している女子グループか?


 それとも、窓際でにやにやしている男子グループか?


 教室の中の誰もが面白そうに見ているだけで、下手人はわからない。


 身体がわななく。

 足にも腕にも力が入らない。


 どうすれば良い? どうすれば良い?


 自分が今感じているのが羞恥なのか、焦燥なのか、憤怒なのか。

 はたまた、それら全てなのか、もっと多くの感情がごちゃまぜになっているのか。


 わからない。


 何も考えつかずに、立ち往生していたところ、カエデの後ろから小さな舌打ちが聞こえた。


「……くっだらねぇ」


 振り返ると、酷く不機嫌そうなヨウがいた。

 いつの間にかヨウも学校へやってきていたらしい。


「悪い、カエデ。迷惑かけた」

「……え……?」

「多分、俺のせいだわ。巻き込んだ」


 違うと、私のせいだと言おうとしたが、言葉は喉につかえて出てきてくれない。


 ヨウがつかつかと歩いて、黒板消しを手に取り、相合い傘を消す。

 乱暴に黒板消しでこすったためか、黒板に白いカーテンがかかったように消し跡が残った。


 黒板の落書き・・・を消してしまった後で、ヨウがぎろりと教室を見回す。

 そして、教室の中の一点を注視した。


 窓際にいる男子グループだった。カエデに良くちょっかいを掛けてきていた者を中心とした、お調子者グループだ。


 ヨウが机にぶつかるのも気にせずに、どすどすとグループの中心人物に向かって歩いていき。


 ――ぐんっ!


 その者の襟元をむんずと掴み、力任せに投げ倒した。

 投げ倒された男子の身体が、周囲の机や椅子を巻き込んで、がしゃあん、と大きな音を立てた。


「……ってえ! なにすんだ!」


 投げ倒された男子が、態勢はそのままに下からヨウを睨みつける。


「っるせぇ! そんなに喧嘩買ってほしいなら、買ってやるよ!」


 口角泡を飛ばす勢いで、タンカを切るヨウに、投げ倒された者の周囲にいた男子達もいきりたつ。


「ああっ!? やんのか!?」

「俺一人に突っかかってくんなら別に良い! でも、カエデまで巻き込むのは違うだろうがっ!」


 そこからは、騒ぎを聞きつけて慌てた担任教師が教室へやってくるまで、一対複数の壮絶な乱闘となった。


 騒ぎの中心人物らの負傷は相当なものであったが、幸い周囲の人間への被害はなかった。

 流石にまずいと感じた一人の女子が、迅速に教師を呼びにいったことも大きく寄与しているのだろう。


 暴力は良くない。喧嘩も見てられない。

 カエデもわかっている。


 わかっていながらも。


(ヨウ君が、私を助けてくれた)


 そんなことを思ってしまった。

 例え、ヨウ自身にその気が無くても、そうだろうなとカエデが認識していようとも。


 客観的事実として、カエデの窮地を救ったのはヨウだった。


 ヒーローのように鮮やかなものではない。

 どちらかと言えば唾棄すべき、乱暴な手段ではあった。


 だが、それでも。


 カエデの「かもしれない感情」が、「恋」という名前のものにはっきりと変わった。



 §



「――だから、ヨウ君は、私のヒーローなんです」


 しみじみと、カエデが呟く。


「確かに、ぶっきらぼうだし、スマートなやり方とは程遠かったとは思います」


 語るカエデの頬は、ほんのりと桜色に染まっている。


「でも、あの時、混乱してどうすればよいかわからなかった状況を、私を救い出してくれたのは、ヨウ君でした」


 頬に熱を感じて、カエデが手を当てた。


「……あの日、かあ」

「ヒマワリさんも覚えているんですか?」

「うん。アタシはその場にいなかったけどね」


 ヒマワリが遠い目をした。


「なんかわかるかも。確かに、ヨウってさ」

「はい」

「本当にどうしようもなくなったときに助けてくれるんだよね」

「そうなんです」


 カエデがにこりと笑う。そして、唐突に話を変えた。


「ヒマワリさん」

「え?」

「私は、あなたが羨ましいです」

「ええ? なんで?」


 ヒマワリは、理解できない、と言いたげに顔をしかめた。


「ヨウ君が一番助けてあげたいと思ってるのは、きっとヒマワリさんです」

「そんなこと、ないよ」

「ありますよ」


 ヒマワリの否定の言葉に、カエデがぴしゃりと言い放つ。


「私は、ヨウ君に想いを伝えました。今まで、ヨウ君に私を知ってもらう期間だと思っていました。ですが、そろそろ、本気を出します」


 カエデの真剣な瞳が、ヒマワリを貫いた。


「いいですね?」


 いいですね、なんて言われても……。ヒマワリはカエデが自分に何を求めているのかわからず、困惑する。


「別にアタシに許可を求めるようなことじゃ――」

「許可を求めているわけじゃないです。ただ宣言しているだけです」

「いや、それでも、アタシに宣言しても――」

「本当にそうでしょうか?」


 ヒマワリをともすれば射殺しそうな眼差しはそのままで、カエデが口元だけ歪ませて微笑む。


 ――本当にそうでしょうか?


 ヒマワリはますますわからなくなる。

 そうでしょうか? 別にアタシはヨウとそういう関係じゃ。


 そう言おうとした。しかし、それはカエデがすぐに続けて放った言葉に遮られた。


「ヒマワリさんの顔は、そうは言ってませんよ?」

「……え?」

「自分が今どんな顔してらっしゃるか、わからないですか?」


 言われて、ヒマワリは自分の顔をぺたぺたと触る。

 別に、いつもどおりの自分の顔だ。


「私の行動をなんとしてでも阻止したい。そう顔に出ています」

「……そんなこと、ない」

「あります。……私、ヒマワリさんとは正々堂々と勝負したいんです」


 正々堂々とはなんなのだろうか。

 混乱の極地にいるヒマワリは何も答えられない。


「ライバルが、自分の気持ちにも気づいていないこの状況は、不本意です」


 今まで睨むようにヒマワリを見つめていた眦を、カエデが少しだけ和らげた。


「不本意です。ですが……手段を選ぶ気も毛頭有りません」


 ヒマワリは黙り込んだままだ。


「ですから、宣言です。私は、今日から全力でヨウ君にアタックします」


 カエデが、挑戦的に笑って、「勿論、今までが全力でなかったわけじゃありませんけど」、と続けた。


「ヒマワリさん、あなたはどうしますか?」


 にこやかに、カエデがヒマワリに答えを促す。


「あ……」


 ずっと、麻痺して動かなかった口元がようやく少し動き出した。


「アタシは」


 どうなんだろう、と自問する。

 確かに、ヨウは自分の幼馴染で、気のおけない男の子で。


 協力して、助けてくれて。


 今は、二人でいるのが、楽しくて。


 ――私は、ヨウのことをどう思っているんだろう。


 ほとんど答えは出ているはずだったのかもしれない。


 しかし、ヒマワリの脳は、その命題に答えを与えることを良しとはしなかった。


「っか、カエデちゃんとヨウが付き合ったら、素敵なカップルになると思う! あ、アタシ、応援するからっ!」


 とっさに出てきたのはそんな言葉だった。

 カエデが小さくため息を吐く。


「……そうですか。では、遠慮はしません」

「べっ! 別に遠慮なん――」


 反論しようとした矢先、カラオケルームのドアが開いた。


「菓子、買ってきたぞ」


 ヨウが戻ってきたのだ。


 ヒマワリは、カエデを見て、ヨウを見て。

 そして、ぐるぐると堂々巡りを繰り返す思考を放棄して。


「ごっ、ごめん! アタシ、用事忘れててっ! 今思い出した!」


 ソファの隅に置かれた荷物をまとめて。


「カエデちゃん。ごめんね、アタシが誘ったのに、また遊ぼうね」


 カエデの顔を見て。


「ヨウ。アタシは帰るけど、カエデちゃんをちゃんと楽しませるんだっ!」


 ヨウの顔を見て。


「ほんとごめんっ! じゃあ、帰るねっ!」


 脱兎のごとく帰っていった。


 後には、事情を飲み込めていないヨウと、やれやれといった面持ちのカエデが残された。


「あいつ、どうした?」

「お言葉通りなのではないでしょうか?」


 カエデがとぼけた答えを返す。

 その返事に、ヨウが少しだけ眉間にシワを寄せた。


 すぐに色々と訊ねたい気持ちを抑えて、ヨウはカエデに言う。


「とりあえず……どうする?」

「どうしましょうか?」


 どうする、と訊いたヨウにカエデが苦笑いを返した。


 二人だけでカラオケというのも辛い。

 ヨウとカエデは、とりあえずこれからの予定を組み直すべく、相談を始めた。

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