第六話:ヨウ君といつ会っても恥ずかしくないように頑張ってきたんじゃない
奇跡だと思った。運命だと思った。
始まりは父から突然告げられた謝罪だった。
――カエデ、今まで僕の仕事のせいで振り回して、すまなかった。もう海外を転々とする必要はなくなった。日本でずっと過ごせる。
突然そんなことを言われても、カエデとしては困惑するだけだった。
なにしろ、自分という存在を作り上げてきたのは、父の、ひいては
なにを今更と思っても仕方がない。普通はそんな思いを抱くだろう。
しかし、困惑したものの、カエデはそうは思わなかった。
仄かな嬉しさが確かにあった。
――ヨウ君と同じ国にいられる。
中学生の一年間だけ滞在した日本。その一年間で強く印象に残っている同級生、
カエデは彼に恋をした。端的かつ陳腐に言えばそうなる。
しかし、カエデにとって、その感情は「恋」と呼ぶにはあまりに高尚だった。
それは天啓にも似ていた。
それは神託にも似ていた。
香港に引っ越してからも、二度と会えないはずの彼を毎夜思い出す程度には。
だから、カエデは彼にいつ再会しても恥ずかしくないように、それまで無頓着だったものに目を向けるようになった。
彼にいつ再会しても恥ずかしくないように、自身の内面さえも磨いた。
勉強もした。彼がそうしていたから。
運動もした。彼がそうしていたから。
他人との交流に価値を見出した。彼がそのように変わり始めていたのを理解していたから。
そして、日本に渡り、父が調べてくれた転入生を受け入れてくれる複数の高校の中でも、いっとう偏差値の高い浦園学園の転入試験を受け、なんなく合格した。
試験は簡単だった。ネットでは「最難関」なんて噂されている転入試験だったが、彼女にとっては簡単すぎた。
きっと彼だったとしてもこれくらいの問題であれば簡単に解いてしまうのだろう。
そんな確信があった。
迎えた転入当日。
事前に連絡された時間通り浦園学園の職員室にやってきたカエデに、これから世話になるらしいクラスの担任教師が改めて種々の説明をした。
説明が終わり、始業ベルが鳴る。担任教師が「じゃあ、行きましょうか」と言った。
カエデは礼儀正しく「はい」と返した。
緊張しているのか、自然と手のひらが汗で湿る。
教室に向かうまでに、担任の女性教師が「春夏冬さんの転入はサプライズにしたいから、私が合図するまで扉の前で待っていてください」と無表情に告げた。
それが、自身の緊張をほぐすためのものだったのか、無表情で物静かな担任教師なりの茶目っ気だったのかはわからない。
教室に着き、担任がカエデに目配せをしてから、一人教室に入っていく。
中から、担任が諸々の説明をする声が聞こえ始める。
しばらく、説明が続いた後、やおら女性教師が言い放った。
「それから、皆さんに今日はちょっとしたお知らせがあります」
これだ。きっとこれが合図だ。
心臓の鼓動が普段のニ倍くらいの音量で身体中に響いている。
「入ってきてください」
返事はせず、前髪を直し、扉を開ける。
極力焦らないように気をつけながら、ゆっくりと教卓の横まで歩く。
女性教師が、「それでいいですよ」と言わんばかりに、少しだけ口角を上げた。
(ヨウ君! 私に勇気をください!)
カエデは心の中の想い人にエールを求めて、深呼吸を一つしてから、あらかじめ用意していた自己紹介のセリフをなぞる。
「はじめまして、本日から浦園学園に転入することとなりました。春夏冬カエデと申します」
静かだった教室が、わっ、とにわかに騒がしくなった。
主に男子の声だ。お調子者っぽい男子生徒がなにやら叫んでいるのも聞こえる。
自分の容姿には自信があるし、自覚がある。
それだけの、努力をカエデはしてきた。そのつもりであった。
だから、自分が入ってきて、これからクラスメイトになる人間の注目を大いに集めるのは想像ができていた。
教室を見回す。
男子からは概ね好意的な視線。
女子からは好意的な視線が半分、懐疑的な視線が半分。
さて、私はこれからずっと日本に住む。
人とのつながりは大事だ。
最初は、彼がそう変わっていったから、自分もそうしてみようと思っただけであった。
しかし、実践してみて他者と交流を持つことの重要性の高さを否応なしに理解した。
人間とは、社会的な生き物なのである。
一人では生きられない。
誰かと群れなければ生きられない。
だからこそ、カエデはクラスメイトと良い関係を築きたいと、そう思っていた。
もう一度教室を見回す。
その中で一つだけ自分に向けられる、不思議な視線があることに気づいた。
好意的でもない、懐疑的でもない。もっと違うなにか。
視線の主を探り、顔を検める。
一度見た。
信じられなくてもう一度見た。
それでも信じがたくて、もう一度よくよく見た。
ずっと恋い焦がれていた彼が、そこにいた。
(春原……ヨウ、君)
驚愕に全身を支配される。
衝撃に身体中の力が抜けそうになるのをなんとか押さえつけた。
そして、春夏冬カエデは、自身も気づかないままに、柔らかく、嬉しそうに微笑んだ。
§
それから昼休みまでの間、カエデは不躾だと思いつつも、ヨウへ視線を向けるのを止められなかった。
どうしても見てしまう。
どうしても眺めてしまう。
夢にまで見た、憧れのヨウがそこにいるのだ。
自身を見ていた彼の表情から想像するに、ヨウはきっとカエデのことはほとんど覚えていないだろう。
中学一年生の時、ヨウと接点があったかと問われれば、「ほとんどない」と答えざるをえない。
おまけに付け加えると、その頃のカエデは他者と交流をせず、休み時間になればひたすらに文庫本を読み耽るような少女だった。
別に読書が飛び抜けて好きな訳では無い。嫌いなわけでもないが。
ただ、本さえ読んでおけば、クラスメイトは気を使って話しかけてはこない。そう踏んだのだ。
ヨウと話したことも数回程度だ。
尤も、その数回がカエデにとっては酷く人生を動かされた大きな出来事ではあったのだが。
(ヨウ君、ヨウ君、ヨウ君)
心のなかで彼の名前を呼ぶ。
(ヨウ君がいる)
夢ではないかと、こっそりと手の甲をつねってみたが、立派に痛かった。
どうやらこれは夢ではないらしい。
表面上は平静を装ってはいたが、カエデの心中では冷や汗なのかなんなのかわからない何かが滝のように流れていた。
今すぐでもヨウに話しかけたい。
そう思ったが、しかし今はホームルーム中である。
ともすれば、思わず立ち上がってヨウの元へ駆け寄りたくなる衝動を懸命に抑えながら、カエデは昼休みを今か今かと待ち続けた。
体感時間で言えば、もう二十四時間は待ったのではないかと思えるほどに時間はゆっくりと過ぎていった。
長い時間自分を抑え続け、ようやく待ちに待った終業チャイムが鳴る。
ヨウに話しかけんと、カエデは立ち上がろうとした。
しかし、先ほど教室にはいる時よりも大きく拍動する心臓と、今まで思わず立ち上がりそうになるのを必死で我慢してきた反動か、上手く脚に力が入らない。
(……あ)
そうこうしているうちに、少しおちゃらけた雰囲気の男子生徒が、ヨウの元へ行ってしまった。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう)
ヨウに声をかけるだけでも、ここまで必死になってしまうのに、そこに他の男子がいたらどうだろう。
カエデは自分の根本が中学のあの頃から変わっていないということに気付いた。気付いてしまった。
それは絶望にもよく似ていた。
自分は他者との交流を拒絶しているのだ、とそう思っていた。
それを改善したつもりだった。香港でも友達はできた。
でも考え返せば、自分から声をかけて「友だちになってください」と頼んだことはあっただろうか。
少なくともカエデの記憶には存在しない。
(ああ、そうか)
成長していたつもりだったが、これではちっとも成長していないではないか。
――今頑張らなくて、いつ頑張るの?
心の中のもう一人の自分が、カエデを鼓舞する。
立て。立て。
足に力を入れて、立ち上がれ。
ヨウが男子生徒と話している。その横顔が視界に入った。
そうだ。自分は――
(ヨウ君といつ会っても恥ずかしくないように頑張ってきたんじゃない)
今までこわばっていたことが嘘のように、ふっと身体が軽くなった。
立ち上がる。
そして、ヨウの元へ歩み寄る。
「そういや、春原。午後の学力テスト……は――」
ヨウと話していた男子生徒がカエデを見て固まる。
驚きもするだろう。少しばかり申し訳なく思った。
「違ってたらごめんなさい。ヨウ君、春原ヨウ君、ですよね?」
違ってたらごめんなさい、なんて全然思ってはいなかった。
なにしろ、カエデがヨウの顔を見間違えるはずがないのだから。
「うん。久しぶり、春夏冬さん」
数年ぶりに耳にするヨウの声は、毎夜夢見た彼が発する声よりも数倍魅力的な響きだった。
§
自室でカエデは振り返る。
自分で自分を褒めてやりたい気持ちでいっぱいだ。
久しぶりに相まみえたヨウは、なんと魅力的であっただろうか。
カエデは反芻する。
彼はこの三年間ほど、どれだけの努力を積み上げてきたのだろうか。
カエデは反芻する。
夢見ていた彼は、夢見ていた以上に素敵な男の子としてカエデの前に現れた。
これを運命と言わずして、なんと言おうか。
これを奇跡と言わずして、なんと言おうか。
(ああ、神様)
信じてもいない神に感謝を捧げ、スマートフォンを取り出す。
日本で普及しているメッセージアプリ。最近登録したばかりのもの。
その友達リストには一人だけ、ヨウのアカウントだけが表示されている。
「明日のために」と、ちゃっかりとヨウと連絡先を交換した。
部屋に帰ってからスマートフォンを取り出し、眺めて、頬を緩ませる。
ヨウからの「よろしく」という最初のメッセージと、カエデの「よろしくお願いします」というメッセージ。それだけのやりとり。
それが、カエデにとってどれだけ幸せだっただろうか。
ヨウにメッセージを送ろうとしては、何度も消す。
何か他愛もない話をしたいとは思うが、どんな話題を出せばよいのかわからないのだ。
ふと、思い返す。こんなことをしている場合ではない、ということに。
「ああ、どうしよう」
そうなのだ。明日は、ヨウとデートだ。
もしかしたら、ヨウは「デート」だなんて認識していないかもしれない。
それでも、カエデにとって明日はデートだ。
「どんな服装で行こう……。あ、学校帰りだから制服か」
そんな自明のことに気づかない程度には、カエデは舞い上がっていた。
「靴下はおろしたてのものを出して……」
どういうプランならば、ヨウは喜んでくれるだろうか。
どういうデートならば、ヨウは喜んでくれるだろうか。
「髪型は……」
あれこれ考えるが、あまり気合を入れすぎてもヨウを萎縮させるだけだと、カエデは理解していた。
しかし、考えずにはいられない。
「アクセサリーは、どんなのを……」
明日はヨウに、とびっきりの自分を見せたい。
そして、ヨウを心から楽しませたい。
その夜、カエデが興奮でなかなか寝付けなかったのは言うまでもないことであった。
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