閑話その二:鈴川トウジ to 秋野ユリカ
秋野ユリカという女性は「どこにでもいる容姿の整った女性」であって、それ以上でも以下でもなかった。
問い合わせがあって、新たに営業に向かった取引先で再び相まみえた時も、特別な感情などを抱くことはなかった。
奇妙な縁だと思いはした。
しかし、俺にとって彼女の存在は、新たな提案案件の確度を高める材料の一つでしかなかったのだ。
競合他社と比較して、当社の製品は価格が高い。
勿論無意味に高いわけではない。品質も高いし、サポートも手厚い。故有っての、高価格だ。
しかし、俺が担当している商材――中小企業向けの業務アプリケーションについて考えたとき、徐々に新進気鋭のスタートアップベンチャーにシェアを奪われつつあったのは事実だった。
だから、取引先の会議室で彼女の姿を確認した時、俺は多少いやらしい計算をした。
いつも初回に提示する金額よりも、わずかに高い金額を提示することに決めたのだ。
この商材の価格は非公開だ。というのも、基本パッケージ料金は「企業規模によりご相談」とされている上に、ユーザーカスタマイズ料金が上乗せされるためだ。
得意先ごとに金額は異なるので、どこかで情報共有されて「不当にぼったくられた」となる心配もない。
普通の営業マンなら、誰でもやっていることだ。いやらしいとは言っても、そこに忌避感は存在しない。
普段は値下げなんてしないのだ。正確にはできないと言ったほうが良いかもしれない。
開発部門や、運用部門の担当者からは、いろいろなパターンの原価と提示価格、そして利益率を提供してもらっている。
営業である俺一人の判断で、提供された金額未満には落とせない。
秋野ユリカという知人にほだされて、値下げをしてくれたちょろい営業マンと思ってもらえれば、それだけ受注確度が上がる。
本当にそれだけだった。
俺は毎日を生きるのに必死だった。
別に仕事が嫌いなわけではない。
業務時間は、唯一心が休まる時間だと言っても良いかもしれない。
少しの時間とは言え、恋人である、
秋野ユリカと二度目の再会を果たし、提案を終え帰社する途中、打ち合わせ中にスマートフォンがぶるりと震えていたことを思い出して、ため息を吐く。
「先輩、彼女ですか?」
俺の直属の部下である鈴木が、スマートフォンを取り出した俺を見てにやにやした。
良く二人で行動することが多いので、社内ではダブルベルコンビと言われている。
「まあな」
「愛されてますねえ」
愛されているのだけは確かだろうな。
証拠に、スマートフォンを開き、メッセージを見ると「トウジ、大好き」という文章が表示されていた。
半ば事務的に「俺も大好きだよ、愛してる」と入力して、送信ボタンをタップした。
「美人な彼女で羨ましいっすね」
「そうかな」
確かに、リカは見た目が良い。彼女の見た目を悪しように言われたことは一度もない。
誰に会わせても、「美人な彼女さんで素敵だ」と言われる。
顔は美しく、スタイルも良い。大学生の頃、読者モデルをやっていたほどなので、相当だ。
しかし、そうやってリカを褒められるたびに、俺は暗雲が立ち込めたように心が重くなる。
言語化はできない。だが、気持ちの良いものでもない。
一番近いセリフは、「人の気も知らないで」だろうか。
またスマートフォンが震える。
『返事遅かったね。何してたの?』
ただの質問だ。しかし、俺はリカからこうして質問されるたびに、ぞわりとする。
リカは俺を愛してくれている。
しかし、その愛が俺にとって心地が良いものかと問われるとまた別だ。
『客先で、提案活動だよ』
すぐに返事を返す。リカからのメッセージは
俺が送ったメッセージにはすぐに既読が着いた。
リカがすぐに送ってくるであろうメッセージを未読のままにするべく、俺は急いでメッセージングアプリを落とした。
それが数日前。そして今、俺は奇妙な状況に置かれている。
取引先の秋野さんに、何故か連れ出され、ベンチに座らせられているのだ。
――鈴川さん? 何かお疲れですか? いえ、お仕事で、とかではないように思って。いつも、何か……ひどく疲れているような、言葉を選ばずに言えば、うんざりしているような、そんなお顔をされてますので。
言われた時、心の底から驚いた。
同時に、「ああ、俺はうんざりしていたのか」と、目から鱗が落ちるような思いでもあった。
何度目かの、秋野さんのいる会社への訪問の後、突然彼女が俺に声を掛けたきたのだ。
「鈴川さん、少しお時間よろしいですか?」と。
値下げ交渉だろうか、と少し訝しんだ。であれば、もうすでにギリギリの価格を提示している。
しかし、彼女がそんな話をするような立場にないことは、何度か訪問して理解していた。
では一体何用だろうか、と疑問に思っていると、近くの広場の隅にあったベンチまで連れて行かれて「座ってください」と言われた。
有無を言わせぬ迫力に、俺は小さく頷いて従う。
秋野さんは俺がベンチに座ったのを見て、少し満足げな顔をしたあとで、小走りでどこかへ行った。
俺が止める間もなく。
一分も経たずに戻ってきた彼女の手には、冷たいお茶のペットボトルが握られていた。
秋野さんがペットボトルを俺に差し出す。
とっさに口から出たのは、金の話だった。
「あの、お金は」
「いえ、私が引き止めて無理やりお話させていただくのですから、要りません」
「ですが」
「そんなことより」
彼女が深呼吸してから、俺を真剣に見つめて言う。
疲れてるんじゃないか? と。
うんざりしてはいないか? と。
「そう……見えますか?」
呆然としながらも、そう返した俺に向かって、彼女は大きく頷く。
「はい」
もう一度言う。心の底から驚いた。
そして、俺がリカに感じていた感情の正体が初めてわかった。
(俺は、うんざりしていたのか)
目元を右手で覆い隠す。不意に目頭が熱くなったからだ。
「……少し時間をください」
「どれくらいですか?」
「五分くらい。整理させていただくので、話を聞いてくださいますか?」
俺の声は震えていたと思う。
震える俺の言葉に、慈しむような声で、秋野さんが答えた。
「もちろんです。どこまでお力になれるかはわかりませんが、少なくとも話を聞くだけなら私にだってできます」
§
大学時代、俺は野球部ではなく、野球サークルに所属していた。
高校で肩を壊した上に、軽く燃え尽き症候群のようになっていた俺は、大学に入ってまで本気で野球をしたいと思えなかった。
しかし、野球をすることそのものは好きだった。だから、部活ではなく軽いノリでできるサークルを選んだ。
リカは俺が大学三年生になったとき、マネージャーとして入ってきた。
前にもマネージャーはいた。のだが、サークル内の男どもを取っ替え引っ替えし、五股をかけ、挙げ句にはそれが全てバレて、逃げるように辞めていくような女性だった。
小学、中学、高校と野球に青春を捧げ、いざ自由なキャンパスライフ、と思ってみたところにそれだ。
俺は女性という存在を、得体のしれない、自分とは違うおぞましい生き物だと思うようになっていた。
しかし、リカは違った。男どもに媚びることもなく、かといって邪険に扱うわけでもなく、自然にサークルに打ち解けていった。
頭の良い女性なのだろう、と思った。
男どもの下卑たジョークも、困ったように笑いながら冗談めかして返していたし、マネージャーとしての仕事もちゃんとやってくれていた。
だから、卒業前の追い出しコンパの後、リカに告白されたときはものすごく驚いた記憶がある。
自分の顔が他人よりも優れていることは、なんとなく自覚していたが、モテるタイプではなかった。
経験のなさから、女性と気軽に接することができなかった。
きっと大学にいる俺の周囲の女性は、俺のことをとっつきにくい人間だと思っていただろう。
好意を寄せてもらえるようなことはしていなかった。
少し頬を染めて、顔を俯かせて、上目遣いで俺を見ながら、「先輩、好きです」というリカは愛らしかった。
答えは勿論イエスだ。リカは美人だし、性格にも愛嬌がある。断る男がどこにいようか。
俺とリカは付き合うことになった。
その後、社会人になり、忙しさの合間を縫ってデートをし、ふれあい、身体を重ね、女性という存在に対する、得体のしれなさは払拭された。
リカが本性を表すまでは。
「彼女には、俺がいないとダメなんです……」
俺は秋野さんに何を言っているのだろうか。
少し知り合っただけの女性にこんなことを言ってもどうにもならない。
リカとの馴れ初めは置いておいて、今の自分の状況を、感情を、秋野さんに吐き出す。
「でも、窮屈で、食事も喉を通らなくてっ……。いつも監視されているようで……っ!」
そうか。俺はリカと付き合うということが苦痛だったのか。
心の中の冷静な自分が、「やっと気づいたのか」と馬鹿にしたように笑った。
「彼女から連絡が来るたびに身体がこわばるんです」
言葉にしてしまえば、酷くシンプルだ。
「彼女の機嫌を損ねるのが、怖いんです」
大喧嘩をするたびに、リカは自傷する。
「だから、俺が我慢しなくちゃと思って……。でもっ!」
目頭を熱くさせて、恥ずかしげもなく思いの丈を吐露した俺の手を、秋野さんの両手が優しく包む。
「鈴川さん」
「は……い」
秋野さんが困ったように微笑んだ。
「鈴川さんは、ものすごくお優しいのだと思います」
「は……い?」
「お優しいから、傷つけたくなくて、悲しい顔をしてほしくなくて、頑張ってしまうんですよね」
そうなのだろうか。
「でも、自分をすり減らしてまで、優しさを与える鈴川さんのやっていることは、彼女さんのやっていることと変わりませんよ?」
「え?」
「彼女さんは、身体を傷つけていますが、鈴川さんは心を傷つけています。どちらも、私から言わせれば同じです」
秋野さんが俺の顔を見る。
「鈴川さん。私には、鈴川さんと彼女さんが、お互い執着して、依存しきっているように思えるんです」
「はい」
「勿論人間は、一人では生きてはいけません。いろんな方と関わり、依存し、依存され、助け合っていく。それが自然な形です」
何歳も下の女性が話すような内容ではない、そう思う。
人によっては、「社会に出たての小娘が」と鼻息を荒くするかもしれない。
しかし、秋野さんの言葉は、一言一言が自然に俺の身体中に染み渡った。
「ですが、依存もいきすぎると毒です。『あの人は自分がいないと生きていけない』だとか、『自分はこの人がいないと生きていけない』という関係性は健全とは言えません。人間結局は一人なんですから」
「わかる……かもしれません」
「だから、鈴川さんと彼女さんのご関係は私には酷くいびつに感じます。お互いがお互いを求めすぎるのは良くありません。隣に立って、少し寄り掛かるくらいが丁度よいです」
そう言って、秋野さんが俺の両手を離す。
「なーんて。私、男性とお付き合いしたことが無いんです。偉そうなこと言ってすみません」
「そんなことは」
秋野さんがウインクしながら笑う。
「一度、彼女さんと本音で話し合ってみてください。鈴川さんが感じている気持ちをそのまま。相手を傷つけるのではなく、責めるのではなく、ただ事実を事実としてありのままの鈴川さんを、彼女さんに伝えてみてください。全てはそれからではないでしょうか?」
何もかもが、仰るとおりだ。ぐうの音も出ない。
「波風を立てたくない鈴川さんのお気持ちもよくわかります。辛いですよね。でも、彼女さんも鈴川さんのことを愛していらっしゃるのは確かだと思います。お互い良いところだけをみせるのでもなく、相手を支配しようとするのでもなく、ありのままをありのままに受け入れられるようになれば、少しだけ変わってくるのではないでしょうか」
「で、でも、そうならなかったときは……」
俺の言葉に、秋野さんが子供を諭すような顔をした。
「そうならなかったときは、またお声がけください。一緒に考えましょう」
そう言ったユリカさんの笑顔は、生涯俺にとって忘れられないものになる。確かな予感がした。
そして、その予感は今も外れてはいない。
結果、俺は、提案の打ち合わせの後、何度か秋野さんにこうして相談に乗ってもらった。
もらったアドバイスどおり、本音でリカと何度もぶつかりあった。
ぶつかって、ぶつかって、ぶつかった結果、リカの考え方と俺の価値観にあった大きな齟齬が浮き彫りになり、目が覚めた。
リカは俺が思っているような女性ではなかった。
数週間後、リカと別れることになった。
勿論、相手はあのリカだ。一筋縄ではいかなかったが。
なんとか説得し、リカと正式に別れた俺は、秋野さんにそれを報告した。
――鈴川さん、憑き物が取れたみたいなお顔されてますよ。
秋野ユリカという女性が、とっくに俺の中で大きな存在になっていたのは言うまでもない。
ついでに、俺がリカと別れてしばらくしてから、秋野さんに「結婚を前提としたお付き合い」を申し込んだのも言うまでもない。
友人に「結構お前は思い込みが激しいタイプだよな」と言われたことがある。
自分でも理解している。
けれど、どうしても
彼女のような、秋野さんのような女性とは、これから先二度と出会えない。
そんな根拠のない確信があった。
俺の告白に対する秋野さんの答えも、一生忘れることはないだろう。
――嬉しいです。喜んで、と言いたいところですが、「結婚を前提とした」というのはやめませんか?
――それは、何故ですか?
――私、鈴川さんが思っているような女じゃないかもしれません。しばらくお付き合いして、がっかりさせるかも。
そんなことはない、とは口に出さなかった。
俺ががっかりすると秋野さんが思っているなら、態度で示せば良いだけだ。
そう意気込んでいると、彼女はゆるりと目を細めて言った。
――その顔、また頑張ろうとしてますね? 鈴川さん、頑張らないでください。私はありのままの鈴川さんが好きです。
秋野さんの言葉に頷きながら、俺は全身全霊を以て、この人を幸せにしよう。そう思った。
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