閑話その一:秋野ユリカ to 鈴川トウジ
「秋野さんっ」
秋らしい香りが風に乗って、鼻腔をくすぐるようになったある日のことだった。
普段通り、事務作業に追われていた私の名前を、菩薩の代名詞で知られる総務課長が呼んだ。
「はい、なんでしょうか、課長」
キーボードを叩いていた手を止めて、いつの間にやらデスクの脇にしゃがみこんでいる課長の方を振り向く。
「ごめんねっ。伝えるの忘れてたんだけど、お客さんが来るんだっ。急いで来客対応の準備、お願いできる?」
申し訳無さで一杯といった面持ちの課長が、汗だらけの額をハンカチで拭いた。
「え……っと。承知しました。いついらっしゃるんですか?」
「十五時……」
「えっ!?」
嘘でしょ、と思いながらも、パソコンの右下に小さく表示されている時刻を見る。
午後二時三十五分。お客様がいらっしゃるまで、十五分もない。
「わっ、わかりましたっ! すぐにっ! 何名でいらっしゃるんですか!?」
「先方は、二人だって――」
「こちらは何人参加しますか!?」
「僕と佐藤くんの二人で――」
「部屋は!?」
「ミーティングA」
「わかりましたっ!」
ごめんねぇ、と謝ってからバタバタと自分の準備に奔走し始めた課長に「なんで早く言ってくれないのよ、もう」と心中で毒づきながら、オフィスの中を足早に歩く。
給湯室から出てきた先輩にぶつかりそうになって、「ご、ごめんなさい」と謝ったのは、御愛嬌と言ってほしい。
うちは小さな会社だ。だからというわけでもないのだろうけど、オフィスの設備は非常に心もとない。
代表格が今いる給湯室だ。
いつもは気にならない心もとなさが、少しだけ私をイライラとさせる。
来客用のインスタントコーヒーを棚から取り出して、朝誰かが沸かしたっきり放置されていたであろう電気ポットの「沸かす」ボタンを人差し指で押す。
使い捨てカップとホルダーを人数分取り出して、組み立て、その中にティースプーン一杯分の粉末を入れた。
お湯が沸騰するまでもう少し時間がかかる。
その間に、台拭きを片手に課長がおさえてあるのであろうミーティングAに向かう。
部屋に入って、机を急いで拭いて、中を隅から隅まで一周。
掃除機をかける余裕なんてないので、見える範囲でのゴミや埃を手で拾い集め、もう一周。
一つだけ深呼吸をして、目を閉じ、開き、お客様を招くのに最低限の清潔感が保たれているかチェック。
よし、綺麗さは問題ない。あとは。
机や椅子の位置を整えて完成だ。
――よし!
部屋の準備は最低限整えた。
腕時計を見る。なんやかんやで、午後二時五十二分。
もうお客様がいらしてもおかしくはない。急いで給湯室に戻る。
小さな入口をくぐった時、丁度沸騰が完了した電子音が、ポットから鳴り響いた。
ほーっ、と胸をなでおろす。なんとか間に合った。
「秋野さん……。先方がいらっしゃったんだけど……」
課長の声に振り返る。
課長が給湯室の入口から顔だけだして、申し訳無さそうに私を見ていた。
「大丈夫です、課長、準備は終わりました」
「ありがとう! ミーティングAに通してあるから、お飲み物をお願いっ!」
言ってから、パタパタと課長が駆けていく。
総務課の菩薩はおっちょこちょいだ。時たま大事なことを忘れたり見落としたりして、部下をこれでもかと振り回す。
でも私は、心のなかで毒づきはするものの、彼のことを嫌いにはなれない。きっと、総務課の他の方々も一緒だ。
インスタントコーヒーを淹れ終えた私は、カップをトレーに乗せてミーティングAへ向かう。
閉まっている扉に、右手でノックを四回。課長の「入ってえ」という言葉を待ってから、ゆっくりと扉を開ける。
「失礼いたします。お飲みも……の……を……」
いつも通り発しようとした私のセリフは尻切れトンボみたいになった。
会議室の上座に、数日前会ったばかりの人物が座っていたからだ。
「……お、持ちしました」
気を取り直して、セリフの続きを口に出す。
確か鈴川トウジ、さん、だったわよね。
彼が私の顔を見て、にこりと微笑んだ。
「鈴川さん、うちの秋野がなにか?」
私を見て特殊な反応をした鈴川さんに、課長が不思議に思ったのか声を掛けた。
「いえ、実は先日そちらの秋野さんとご縁がございまして。驚いていたのです。秋野さん、先日はお世話になりました」
鈴川さんが立ち上がって、小さく礼をした。
「こ、こちらこそ、先日は妹が大変なご迷惑をおかけしまして」
「とんでもないことです。妹さんのお怪我は?」
「おかげさまで、大事無く、次の日からも休まず元気に学校に行っております」
「それはよかった」
課長と佐藤さん、それに鈴川さんの部下らしき男性そっちのけで、鈴川さんと会話を弾ませてしまったことに気づき、一つ咳払いをする。
「先日は本当にありがとうございました。私はここで失礼いたします」
会話を切り上げて、退室しようと後ずさった時、課長が名案だとでも言いたげな声を出した。
「秋野さん、せっかくだから、同席させていただいては?」
「え? ですが……」
「鈴川さん、よろしいでしょうか?」
私の意見そっちのけで、課長が話を進め始める。
仕事が残っているのだけれど、と少し思ったが、鈴川さんがにこやかに私を見ていることに気づいてしまった。
顔が熱くなる。
「構いませんよ。本日お持ちしたご提案は、秋野さんが実際に触れることになる製品ですから」
鈴川さんの会社は、大手のソフトウェア会社で、私たちのような事務員が使う新しい業務ソフトのご提案にいらしたとのことだった。
スマートにプレゼンを進める鈴川さんは、たまにウィットに富んだジョークも交えて、私達をくすりとさせた。
全ての提案を終え、課長と佐藤さんの質疑に答えた鈴川さんは、「費用については勉強させていただきます」と言ってから帰っていった。
「ありがとう、秋野さん。今日は助かったよ」
「いえ、ですが、課長? 来客の際はあらかじめ教えて下さいね?」
「うん、本当にごめんね。でも、助かったのはそれだけじゃなくてさ」
それだけじゃない?
「うん。あの会社なんだけどね、値段が高いことで有名なんだ。複数社から見積もりを取って、比較して社長に稟議回そうと思ってて、きっと別の会社が採用されるんだろうな、と思ってたんだけど」
「はぁ」
「鈴川さんから『費用について勉強します』という一言を取り付けたのは、きっと秋野さんがいたからだよ」
課長曰く、製品の質はあの会社が一番良く、一方で価格がネックだったらしい。
打ち合わせの場での会話は、単なる口約束ではない。会社としての方針である、とのことだ。
「秋野さんが、鈴川さんと知り合いだなんて、本当に驚いたよ」
「それは、私もですけど……」
「これからも、よろしくねっ」
これからも、とはどういうことだろうか。
「え……っと?」
「鈴川さんがいらっしゃったときは、秋野さんも呼ぶから」
それは、私の業務範囲外なんだけどな、という言葉を、少しだけ浮ついた心が喉の奥に押し戻した。
§
それから二週間ほど経った。
鈴川さんとは、あれから何度も会社で顔を合わせている。
今日もそうだ。
会うたびに、にこやかに「秋野さん」と微笑む鈴川さんは素敵だった。
この感情はなんなのだろうか。「恋」と呼ぶには余りにも控えめな気がする。
私が愛読してきた少女漫画では、もっと激しく燃えるような感情を好きな人に向けていたはずだ。
そのような激情は感じていない。
ただ、鈴川さんにヒマワリが助けられた日、初めてお会いしたその日、彼の立ち居振る舞いに酷く惹きつけられた。
素敵な人だと思った。
彼の見た目が全く関係ないかと訊かれたら、自信を持って「そうです」とは言えない。
でも、彼の妹を気遣う優しさに、飾らない表情に、誠実そうな人柄に、私は好感を持った。
そして今はどういうことだろう。何故か彼とこうして何度も顔を合わせて会話することになっている。
こんなちっぽけな偶然にちっぽけな運命を感じてしまうほど、私は夢見がちな女だったろうか、と自問する。
その一方で、あんなに素敵な男性を、他の素敵な女性たちは放っておかないだろう、とも思う。
だから、この仄かな感情は心のなかにしまっておいて、しばらくしたら忘れるのだろう、と思っていた。
思おうとした。
しかしながら、身体は私の感情に酷く敏感に反応しているようで。
彼の一挙手一投足を知らず知らずのうちに目で追っている。
彼が話す仕草を。提案書をめくる指先を。真剣に課長を見つめる眼差しを。
時折私の視線に気づいて、微笑むさまを。
燃え上がるような想いなんて無いのに、無いはずなのに、彼から目が離せなかった。
だからだろうか。
今日の鈴川さんの様子が、いつもとどこか違うことに気づいたのは。
目の下に薄っすらとクマができている。それだけなら、まぁ忙しいのかな? くらいで済んだ。
しかし、いつもと違って、語調に覇気がない。
どこか、話し方も投げやりなように聞こえる。
いつもであれば、少しずつ口をつけ、打ち合わせが終わる頃には飲み干しているコーヒーにも、今日に限っては全く口をつけていない。
得意先であるうちでの打ち合わせだからか、丁寧に包み隠してはいるのだが、隠しきれていない。
課長は……気づいていないようだ。同席している佐藤さんも、提案の内容と価格交渉に夢中で気づいていない。
仕事が大変、ということではなさそうだ。話している姿勢だけなら、「なんとしてもこの案件を受注したい」という意思が伝わってくる。
打ち合わせが終わり、「では、また参ります」と帰ろうとした鈴川さんに私は意を決して声を掛けた。
「鈴川さん、少しお時間よろしいですか?」
「秋野さん? 何か?」
「いえ、お仕事の話ではなく……」
隣にいる課長の手前、仕事と関係のない会話で引き止めるのはどうかと思った。
しかし、ちらりと課長を見ると実に良い笑顔で「行ってこい」と意思表示してくれていた。
これはあれだ。私が価格交渉の決め手になるような一手を打とうとしていると勘違いしているのだ。
少しだけ騙しているように感じ、申し訳なくなりながらも、鈴川さんを見る。
「え……っと、少しだけなら」
「はい、では、ちょっと外に出たところで、十分ほどお話ししませんか?」
鈴川さんを、会社の近くにあるちょっとした広場のベンチに座らせて、自動販売機から冷たいお茶を買ってきて渡す。
彼は何事かと、目を白黒させていた。
「あの、お金は」
「いえ、私が引き止めて無理やりお話させていただくのですから、要りません」
「ですが」
「そんなことより」
少しだけ深呼吸。
鈴川さんは、きっと――
「鈴川さん? 何かお疲れですか? いえ、お仕事で、とかではないように思って。いつも、何か……ひどく疲れているような、言葉を選ばずに言えば、うんざりしているような、そんなお顔をされてますので」
しまった。勢いで「いつも」と言ってしまった。
だけれど、あながち口からでまかせでもないように思う。
思い返せば、彼はいつもどこか疲れているように見えた。
私の思い違いなら、それで良い。私が「変な女」と思われるだけだ。
だけれども、ここまで疲弊している男性を放っておくという選択肢は私にはない。
小さい頃から知っているお隣の男の子を思い出す。
彼も、自分の限界を超えて頑張ってしまう、そんな子だった。
周囲に迷惑をかけまいと、心配をかけまいと。
積もって積もって積もった、不満や不安が、風船みたいに破裂してしまうのだ。
我慢して、我慢して、我慢して。
そして爆発してしまう。
爆発したあとは、自分も周囲も巻き込んで、大怪我をする。
今の鈴川さんからは、いつか見たヨウ君のような危うさを感じた。
「そう……見えますか?」
「はい」
鈴川さんは驚いたように目を見開いていた。
そりゃそうだろう。ただの取引先に勤める事務員が、いきなりプライベートに突っ込んだような質問をしたのだから。
「あの、鈴川さん」
「はい」
「お力になれる、なんて傲慢なことは思ってはいないつもりです」
「いえ、そんな」
「ですが、誰かに話すだけでも、楽になったりはしないでしょうか?」
こういうときは、誰に心配をかけても良い。
こういうときは、誰に迷惑をかけても良い。
ただ、一人で抱え込むというのが、一番危うい。
「……驚きました」
ふっ、と苦笑いを浮かべた鈴川さんが、目元に手を当てて上を向く。
「……少し時間をください」
「どれくらいですか?」
「五分くらい。整理させていただくので、話を聞いてくださいますか?」
目を覆い隠したまま、震える声で鈴川さんが言う。
「もちろんです。どこまでお力になれるかはわかりませんが、少なくとも話を聞くだけなら私にだってできます」
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