第二十話:そう思える人に出会えた時が、本当の恋なんだろうな、って

 一週間もせずに、俺は退院することとなった。しばらく通院は必要とのことだが、ヒマワリが見舞いに来る程度で他にやることもなく、退屈な入院生活ともおさらばだ。


 俺の怪我については、春原すのはら家の両親と、秋野家の両親でなにやら色々と話し合いが行われたらしい。

 しかしながら、細かい大人同士の話だ。内容については俺もヒマワリも知らない。


 また、入院三日目くらいだっただろうか。

 ユリカさんがやってきたことも付け加えておこう。当然ながら鈴川を引き連れて。


 鈴川が、改めて俺に謝罪を述べ、ユリカさんが「鈴川さん、もっとちゃんと謝って」と言った。

 現時点で既に、尻に敷かれる未来が見えそうな鈴川に対して大いに溜飲を下げたものだ。


 ユリカさんが「ちょっとヨウくんと二人で話したいから、鈴川さんは三十分くらい外してくれる?」と言って、鈴川が出ていった後。

 ユリカさんは改めて俺に向かい合った。


「私達、改めて婚約することになったの」


 ユリカさんが柔らかく微笑みながら言った。


「うん。おめでとう」


 そう言えば、ユリカさんに直接「おめでとう」と言うのはこれが初めてな気がする。


「ありがとう。ヨウくん」


 俺の婚約を祝う言葉に、小さく返事をするユリカさん。


 それまでは素直に喜べるはずがなかったのに、不思議とすっきりとした心持ちだった。


 清々しさすら感じさせる自身の「おめでとう」に、俺は満足気に微笑んでいた。


 のだが、数秒ほど経ってユリカさんが、俺との決定的な行き違いに気づいて慌てて手を振った。


「そうじゃなくて、それだけじゃなくて」


 つまるところ、ユリカさんの「ありがとう」は、俺の「おめでとう」だけに対するものではなかった。

 もっとこう、色々と含めた、大きな意味でのありがとうだったのだ。


「色々、頑張ってくれたって聞いたわ」

「いや、俺はなにも」

「ううん。ヒマワリと鈴川さんからちゃんと聞いてるから。結果的にすごく心配をかけてたのは私だったのね」


 包帯だらけの俺の右腕をユリカさんが優しく撫ぜた。


「ヨウくんだけには言うね」

「なにを?」

「私ね、自分が鈴川さんに釣り合う人間なのかずっと不安だったの」


 それは逆だろう、と思う。むしろ鈴川が考えるべきことだ、と。


「私は明るい人間じゃないし、男の人が喜ぶようなことも知らない。そういうのとは無縁だったから」


 ただ、ユリカさんがそういった想いを抱いていたのだろうことは、間接的に知っていた。


「鈴川さんと初めてお会いしたときから素敵だなって思ってたの。でも、普通の女の人はきっと皆、鈴川さんを魅力的に思う。恋愛なんて経験してこなかった私じゃ、鈴川さんは楽しく過ごせないんじゃないかって」

「そんなこと」

「わかってたのよ? 私の考えすぎだって」


 ユリカさんが苦笑いを俺に向ける。


「でも、今回のことがきっかけでね。鈴川さんと話して……。彼も言うほど女性経験が無いんだなってわかったの」

「え?」

「うん。リカ……さん、だったかしら? あの方が初めての彼女だったんですって」

「それは」


 初耳だ。あの憎きスマートな男なら、女性の十人や二十人くらいはこましてそうなものだ。


「鈴川さん、ずっと野球少年だったそうなの。甲子園にまで行ったんだって。野球部にいたってことは知ってたんだけどね」

「ほー」

「で、改めて話したら、ずっと野球野球で、恋人とか作る暇なんてなかったんだって」


 なるほどねぇ。そんな状態でメンヘラ女と付き合ってしまえば、異常な状況を普通だなんてて思ってしまうのも納得できる、気がする。


「ほら、過去の女性関係なんて、わざわざ尋ねるものじゃないじゃない?」

「うーん、それは俺に聞かれてもなぁ」

「少なくとも、私はそう思ってたの。だから、勝手に鈴川さんが経験豊富なものだと勘違いしててね」


 恥ずかしそうに言いながら、ユリカさんが頬に手を当てた。


「何度もお話はして、自分でも不思議なくらい、鈴川さんのことを信頼してたの」

「うん」

「鈴川さん自身は、信頼してた通りの方よ。今でもそれは変わらない。でも、それでもお互い話さないとわからないことだらけだね、って」

「鈴川……さんと、そんな話をしたの?」

「ええ。人間同士、お互い全部をわかり合うのが難しいことなんてわかってたのにね」


 そう言って笑ったユリカさんは、今まで俺が見てきたどのユリカさんよりも綺麗だった。

 悔しいけれど、この顔を引き出したのはきっと鈴川なのだろう。


 それから、鈴川も戻ってきて、三人で色々と話して。

 二人がそろそろ帰ろうか、となった時、俺は鈴川だけを呼び止めた。


「鈴川……さん」

「ん? なんだい?」

「ちょっと、二人で話したいことがありまして、お時間大丈夫ですか?」

「ん? 男同士の話ってやつだね。君にそう言われたら俺に拒否権は無いよ。ユリカ、ごめん。先に行ってて?」


 ユリカさんが「はい」と頷いて、病室を出ていく。

 それを見送ってから、鈴川が真剣な表情で俺を見た。


「鈴川……さん」

「ああ」

「俺はずっとユリカさんのことが好きでした」

「ああ。なんとなく、そうだろうなと思ってた」


 どうやら鈴川にはバレバレだったらしい。知らぬ存ぜぬはユリカさん本人だけ、ってところだろうか。

 いや、ユリカさんのことだ。十二分に俺の気持ちも把握してた可能性だってある。


 いや、いくらなんでもそれは考えすぎか。


「俺は……」


 俺は、「いつかユリカさんを自分のものにする」と意気込んでいた。

 そのためにひたすらに自分を高めていた。


 けれども、思い返せば、だ。

 奇しくも、それはあのリカとかいうメンヘラ女と、本質的には一緒なのだ。


 だから、きっと。

 俺じゃユリカさんを幸せにはできない。


 鈴川が俺に向かって唇を歪めてにやりと男臭い笑顔を向けた。「ん?」と言いながら。


「いや。ユリカさんを幸せにしてください。不幸にしたら許しません」


 数秒ほど、何やら咀嚼するような、嬉しそうな、そんな顔で何度も頷いた鈴川は――


「肝に銘じるよ。君から見ても、ユリカの隣に立っていてふさわしい男になる」


 そう言って、帰っていった。

 二人が帰ってから、少しだけ泣いたのは内緒だ。






 退院したとは言っても、基本的には安静だ。右腕を、もっと言えば右手を動かすだけでも鈍痛が腕全体を走るので、勉強も満足にできない。

 とは言え、左手は自由だから、最低限、食事をしたりだとか、そういったことはできるのだが……。


「はい、ヨウ、あーん」

「……いや、良いって」

「だって、右手使えないでしょ?」


 何故かわからないが、ヒマワリが俺の介護をするという、不思議な状況になっている。

 ちなみに、今は昼食時。母さんが部屋まで二人分の昼飯を持ってきてくれた。


 そんでもって「じゃ、ヒマワリちゃん、後はよろしく」だそうだ。ふざけんな。


 ヒマワリときたら、昨日俺が退院してからずっとウチに入り浸りだ。

 寝る時は流石に自分の家に帰るが、それ以外は俺の部屋にいやがる。


「いいから。左手でスプーンとフォーク使えば食えるって」


 昨日の昼から何度も繰り返したセリフをヒマワリに向かって吐く。


「でも、食べにくいことは事実でしょ?」

「なんとかなるから、大丈夫だから」


 これも、もう何度目になるかわからないやりとりだ。


「でも……。ヨウはアタシのために怪我したんだし……」

「お前のせいじゃねぇだろ」

「そんなことないよ」


 そう言ってヒマワリが瞳を潤ませると、残念なことに俺はもう何も言えなくなってしまう。「あー、わかったわかった」と言って、されるがままになる以外どうしようもなくなる。


 困ったものだ。


 最初はただ遊びに来ただけなのかと思ったのだが、俺が何かしようとするとすぐに察して、「いいから。ヨウは、安静でしょ? どうしたいの?」とか言ってきやがる。

 やりにくいことこの上ない。四六時中部屋に入り浸られているのも、結構しんどい。なんでって? 男ならわかるだろ。わかれ。わかってくれ。


 なんやかんや、すったもんだありつつも、俺もヒマワリも昼食を終え、食後のくつろぎタイムに入った。


 腹が膨れれば眠くなる。このまま寝てしまうのも良いか、と思い始めた頃。


 ヒマワリがぼそりと声を出した。


「寝るの? ヨウ」

「んー、あー。そうだなぁ」

「じゃあ、ヨウが寝るまで、アタシの独り言、聞いてよ」

「んあー」


 我ながらぞんざいな返事だと思わなくもないが、ヒマワリが気にした様子もなく語りだす。


「アタシね、あの人のこと、本当の意味で好きじゃなかったのかもって」


 あの人、とは鈴川のことだろう。


「ただ単純に、なんって言うんだろうな。ああいう大人の男の人と、恋したら楽しいんだろうなって」

「そうかあ」


 非常に眠い。なので、返事も適当になる。いや、ちゃんと話は聞いてるよ?


「うん。だから、憧れとギャップのある姿を見て、怒ったし、悲しかったし、そんなんじゃないって、よくわからない気持ちになったんだ」


 瞼が重い。ヒマワリの独白は気になりはするが、抗えずに俺は目を閉じた。


「お姉ちゃんはね。ずっと、鈴川さんが中心だった。『自分はあの人の隣にふさわしいのか』、『自分はあの人を楽しませられるのか』、『自分はあの人を幸せにしてあげられるのか』って」


 それは、ユリカさんからも直接聞いた話だ。


「アタシとは全然違うよね。アタシはずっと自分が中心だった。『あの人ならアタシを楽しませてくれる』、『あの人ならアタシは刺激的に過ごせる』、『あの人はきっとアタシをずっとドキドキワクワクさせてくれる』って」


 根本的なところは違うが、大体俺も似たようなものだ。


 あー、しかし眠い。

 ヒマワリの話がどんどんと頭に入らなくなってくる。


「でも、アタシね……。気づいたんだ。そうじゃなくて――」


 いや、すまん。ヒマワリ。限界だ。

 もう、眠すぎて眠すぎて、お前が喋ってる内容が右から左だ。


「――ちゃんと自分よりもその人を中心に考えられるような人」


 そうかあ。そりゃよかったなあ。

 あ、だめ。限界。


「何かをもらったときに、それにちゃんと応えたい、返したい、その人の幸せを願いたいって、ちゃんと思えるような人」


 ぐう。


「そう思える人に出会えた時が、本当の恋なんだろうな、って。……って、寝ちゃったか。お休み、ヨウ」


 夢の中で、満面の笑みを浮かべたヒマワリが、俺の手を握って「ありがとう」と微笑んだ。

 そんな気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る