第十九話:俺は認めない! お前をっ!

「ヨウっ!」


 ヒマワリの悲鳴が、酷く遠くで聞こえた気がした。

 荒い呼吸を繰り返しながら、包丁をぐりぐりと更にえぐっていくリカの目は狂気にまみれていて、恐怖よりも気色悪さを強く感じる。


 岡平さんの制止する声が、鈴川の慌てふためく声が、遠い喧騒のように反響している。


 痛い。熱い。


 けど。


 ――我慢できないほどじゃない。


 突き刺した包丁をこれでもかと強く押し出すリカを睨みつけ、左手で刃の部分を握りしめる。

 手のひらが切れるのは織り込み済みだけど、左手の焼けるような感触に少しだけ顔をしかめる。


 でも。


 ――これも我慢できないほどじゃない。


「いいっ! 加減にっ!」


 叫ぶ。


 関係ない。左手が使えなくなっても良い。


 ヒマワリを傷つけた、傷つけようとしたこいつは、許さない。


「しやがれっ!」


 力任せに包丁を奪い取る。右腕の肉が削り取られるような音が身体の中に響いた。


「俺はっ!」


 包丁を奪い取られた勢いで倒れ込んだリカを、俺は見下ろす。


「好きな人の幸せを心から願ってるっ!」


 リカには響かないかもしれない。だが、言わずにはいられない。


「それがっ! 人を好きになるってことじゃねぇのかよっ!」


 そう。

 幸せにできる人間が、自分であったならば、どれだけ良かっただろう。


 でも、ユリカさんが幸せになれるなら。幸せにできる誰かがいるなら。

 その誰かが、自分じゃなくても、良い。


 鈴川でも、誰だって良い。


 少しだけ悔しいし、悲しいけど。


 好きな人には笑っていてほしいから。


 だから、俺であってほしかった、なんて、ただの俺の我侭だ。

 独りよがりな、ただのエゴだ。


 幸せに笑うユリカさんが見たいんだ俺は。

 悲嘆に暮れて涙したり、憤怒を感じて歪みきった顔が見たいんじゃない。


「アンタのやってることは、ただの癇癪なんだよ」


 リカに向かって吐き捨てる。


「借り物のおもちゃを取り上げられて、ぴいぴいないてるガキと同じだ」


 実を言うなら、こいつの気持ちは少しだけ理解できる。


 なんで、好きな人が自分のものにならないのか、憤ったし焦った。

 どんな手段を講じてでも、手に入れるべきか、迷ったし悩んだ。


 だから、本当に。


 一歩間違えれば、少しこじらせていれば、俺だってこうなっていたかもしれない。

 だからこそ、腹が立つ。


 ユリカさんの婚約を聞いた時に、胸中に渦巻く衝動に身を任せず踏みとどまったのが今の俺だ。

 一方で、その抗いがたい衝動に身を任せてしまった俺が、目の前にいる。


「鈴川は、アンタの所有物モノじゃない」


 俺は踏ん切りをつけたぞ?

 メンヘラ女。お前はどうなんだ?


「誰かを自分の所有物モノにしようなんて、傲慢以外の何物でもない」


 ユリカさんは誰のものでもない。


 ただ、隣に誰が立っているか。それだけだ。

 きっと鈴川だって、ユリカさんを「自分の所有物モノ」だなんて思っちゃいない。


 そんなこと、鈴川を見てればわかる。


 あいつは、確かに憎き恋敵で、色々と問題を運んできたけど。

 でも、鈴川が「人間として成熟している」ことなんて見ればわかる。


 そして、それを証明するのが、ユリカさんであり、ヒマワリであり、岡平さんだ。

 ついでに、おじさんおばさんも付け加えて良い。


 ユリカさんが好きになった相手だ。

 悪いやつなはずがない。


 ヒマワリが好きになった相手だ。

 悪いやつなはずがない。


 おじさんおばさんが認めた相手だ。

 悪いやつなはずがない。


 岡平さんが全力で名誉を回復させようとする相手だ。

 悪いやつなはずがない。


 ああ、思考がまとまらない。


「それは、人を好きになるってことなんかじゃない。俺はっ!」


 頭の中はぐちゃぐちゃだ。でも、口は滑らかに動いた。


「俺は認めない! お前をっ!」


 認めてやるか。

 お前を認めたら、俺は最低のクズになってしまう。


 勢いのままに吐き捨てた俺をリカが心底気に入らないといった面持ちで見ている。


 じくじくと右腕が痛む。

 生ぬるい血液が、どんどんと右腕を伝って流れ出ていくのがわかる。


 ものすごく痛いし、なんだかフラフラする。

 カッカする思考とは裏腹に、頭が冷えていく。


 白状すれば、今だってリカがどう動くのか怖くて怖くてたまらない。

 膝は笑ってるし、呼吸は荒い。


 もう満身創痍だ。


 だけど、俺はこいつなんかには負けない。


「よく言いました。ヨウ君」


 いつのまにか岡平さんが俺の隣に立っていた。


「ヒマワリちゃん。ヨウ君の止血をお願いします」


 静かにそう言って、岡平さんがハンカチをヒマワリに差し出した。

 慌てた様子のヒマワリが、それを受け取り、俺の右腕に強く押し当てる。


「さて、リカさん。これ、なんだかわかりますね?」


 冷たい目でリカを見下ろす岡平さんが、スマートフォンの画面を突きつけた。

 画面を見て、リカが瞠目する。


「雲行きが怪しくなってきたあたりから、こっそりと一一〇番しておきました。全て筒抜けです。傷害、殺人未遂。あなたがどういう想いだったのかに関わらず、重い罰がくだされるでしょう」

「……え?」


 サイレンの音が聞こえてくる。


「来たようですね。弁明のお言葉は私達ではなく、お巡りさんへおっしゃってくださいな」

「そん……な……」

「『そんな』じゃないです。こんな手段を取った以上、私達を全員殺すか、あなたが捕まるかのどちらかでしょうが」


 呆れた声で、岡平さんがため息を吐いた。


 数分もしないうちに、警察が部屋になだれ込み、リカは逮捕されることとなった。





 目にすると痛みが増しそうだから、敢えて視界に入れないようにしていた右腕は結構な傷だったらしく、俺は遅れてやってきた救急車で緊急搬送されることとなった。

 ヒマワリが必死に止血してくれていたにもかかわらず、まだ血は止まっていない。


 出血量に対して、身体の状態がどう変化していくかの感覚がわからないからどうにも言えないが、死ぬほどではない、と思う。


 救急隊員が傷口を見て、「うわー、ひどいな~、こりゃ」と、無遠慮な言葉をこぼしていたから、ひどい傷ではあるが、命に別状はないのだろう。そう思いたい。

 なんか、身体が冷たくて、フラフラするのも、ちょっとした人間の生理現象だと思いたい。


 とは言え、歩けないほどではないので、ふらつく身体をヒマワリに支えてもらいながら俺は自分の足で救急車に乗り込んだ。


「ヨウ君!」


 救急車で応急処置を受ける俺に向かって、岡平さんが何かを放り投げた。

 くるくると宙を舞い孤を描いたそれを、なんとか俺が左手でキャッチする。ナイスキャッチだ、俺。


「ヨウ君とヒマワリちゃんが一番必要としていたものです」


 見ると、それは、小さなボイスレコーダーだった。


「じゃあ、私と鈴川さんは、先んじてお巡りさんに事情聴取を受ける必要があるみたいなので、ここまでです」


 岡平さんがにこりと微笑んでそう言った。


「岡平さん、何から何までありがとうございます」


 ヒマワリが岡平さんに向かって深く頭を下げる。


「お礼を言うのは、私達四人がおまわりさんに、きつーく絞られてからですよ」


 その言葉と苦笑いを最後に、救急車のバックドアがバタンとしまった。


 確かに、深く考えれば、俺達がやっていたことは不法侵入で……。

 やばいな、前科ついちゃったりするのだろうか。


 救急隊員の一人が止血手当てをしながら、俺に声をかけてくれている。

 しかし、自分たちがしでかしたことも十二分に犯罪行為といえることに思い至った俺の頭には、救急隊員の声がけは全く入ってはこなかった。


 救急車がゆっくりと走り出す。


「アタシのせいだっ!」


 走り出した救急車の中、俺の隣で、ヒマワリが突然大声を出した。救急隊員の皆様方が目を白黒させている。


「アタシが『なんとかして』なんて言ったから」


 ボロボロとヒマワリが涙を流している。


 何いってんだこいつ。


「ごめん……。ごめんね、ヨウ。こんな怪我させて」

「バーカ」

「なっ、なんだよっ!」


 涙を拭いながらヒマワリがしゃくりあげる。


「怪我なんてすぐ治る。俺達は、怪我みたいにさくっと治せないものを、治せる可能性を掴んだじゃねえか」

「でもっ……」

「名誉の負傷だ。喜べよ。男の勲章だぞ?」


 男の勲章、なんて、古い価値観だろうか。

 けれども、まだじくじくと痛む右腕が、俺はなんとも誇らしく思えるのだ。


「お前を守れた」


 怪我をしたのが俺で良かった。

 あの包丁がヒマワリの身体に突き刺さっていた、なんて想像しただけで背筋が凍る。


「ちゃあんと、万事解決しそうときたもんだ」


 俺の左手には、ユリカさんを説得するには十分に足りる材料が握られている。


「思い出せ。ヒマワリ」


 ヒマワリが「なんとかして」と言って、俺がぼろぼろになりながらもどうにかこうにか解決して。

 そんで、またヒマワリが泣いて。


 その後、絶対にお前が俺に言うセリフがあるだろうが。


「俺達は俺達のやり方で、だろ? いつも通り、昔みたいにやろう」


 にやりとヒマワリに笑いかける。

 ヒマワリが、涙でぐしゃぐしゃの顔を歪めて、それでも笑った。


「そう……だね」


 そうだよ。それでいい。


「ありがとっ! ヨウ!」



 §



 その後、病院で治療を受けた。


 命に別状はないものの、やはりというか傷は結構ひどかったらしく、緊急手術となった。

 ぐちゃぐちゃになった裂傷は、縫い合わせるのも一苦労だったのか、結構な時間を要したものだ。


 手術も終わり病室へ。出迎えてくれたのは、父さん母さんと、おじさんおばさん。

 そして、ユリカさんだった。


 相当心配をかけたのか、泣きじゃくる母さんとおばさん、それにユリカさん。

 難しい顔で傷の具合を聞いてくる父さんとおじさん。


 しばらく、病室は混沌としていたものだ。


 そこそこに説明をし、落ち着いた後、俺とヒマワリは岡平さんからもらったボイスレコーダーを取り出し、ユリカさんに聞かせた。

 そのうえで、「元カノがストーカー化して、鈴川は脅されていた」という旨の説明をした。大きく間違ってはいないだろう。


 ボイスレコーダーに、妊娠が嘘八百だという状況証拠も録音されているし。


 全ての説明を聞き終えたユリカさんは、それはもうご立腹だった。

 誰にって? 俺とヒマワリに、だ。


 そもそも、部屋にずっとこもっていたユリカさんは、熟考に熟考を重ね、鈴川の話をもう一度ちゃんと聞くことに決めていたらしい。

 頭を冷やして、鈴川と話し合って、判断するのはそれからだ、と。


 つまりあれか? 俺、怪我するだけ損だったんじゃないか? と少し思ったが、早々に考えることをやめた。

 これは名誉の負傷だ。だから良いのだ。


「私を心配してくれたのは嬉しいけど、それとこれとは話が別ですっ! こんな怪我してっ! 心配させるようなことするんじゃありません!」とは、ユリカさんの言を切り抜いたものだ。


 それはもう大量のお小言を頂戴した。当然、父さん母さんやおじさんおばさんからも、だ。


 ユリカさんの激怒っぷりを見るに、後から鈴川も相当絞られるだろう。ざまあみろだ。


 ただ、散々小言を浴びせられた後、ユリカさんが俺とヒマワリの頭を優しくなでて言った。「ありがとう、二人共」と。

 こういうところが、ユリカさんらしい。


 そして、家族から絞られた後は、警察官から絞られる番だった。


 事情聴取と称して行われたそれは、身内以上に長い長いお説教だった。


 まずは、不法侵入について。

 理由がどうあれ、マンションに鈴川以外の三人が入り込んだことは、違法行為である。


 事情も事情だから、ということで厳重注意となった。

 鈴川も岡平さんも同じく厳重注意で済んだらしい。


 それからは、「高校生が危ないことをするな」やら、「まだまだ君たちは子供なのだから、身近な大人を頼りなさい」だとか。


 そんなお説教の言葉が出る度に、俺とヒマワリの家族一同が「そうだそうだ」と言わんばかりに頷くものだから、やりにくいことこの上ない。

 反論する材料も何一つ持っていない。


 俺とヒマワリは、ただただ「ごめんなさい」としゅんとしたポーズを取るしかなかった。

 全面降伏だ。


 警察官が事情聴取という名のお説教を終わらせて帰る頃には、もう日もくれていて、俺以外の皆は帰っていった。


 夜の病室で、包帯でぐるぐる巻きになった右腕を見る。


 本当に。傷を負ったのがヒマワリじゃなくて俺で良かった。

 心の底からそう思う。


 昔からそうだったっけか。

 別に俺自身がぼろぼろになる分には、ちょっと痛いのを我慢すればよいだけだから、大して気にはならない。


 しかし、ヒマワリが傷つくと、もっと痛いのだ。

 自分が怪我をするより何倍も。


「よくやった、俺」


 あの時の自分自身を褒め称える。

 病院に来てからずっと、お説教されっぱなしだったからな。せめて俺は俺を褒めてやらねば。


 ヒマワリは「明日、お見舞いにくるから」と言っていた。

 あいつは約束を破らない。いや、多分破ったことも何度かあるが、記憶にはない。


 だから、きっと明日ちゃんと来るのだろう。


 俺達が望み得た、朗報を携えて。


「いてててて」


 麻酔が切れてきたようだ。

 右腕の痛みが徐々に強くなってきた。


 痛みがひどくなったら、ナースを呼べ、と言い含められていたことを思い出す。


 ちょっと情けない気もするが、背に腹は変えられないだろう。

 痛みはどんどんとひどくなっていく。このままでは寝られそうにない。


 俺は枕元にある、ナースコールを手繰り寄せて、左手の親指で思い切り押した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る