第十八話:じゃあ、もう。めちゃくちゃにしてやる

 明くる日、午前十時過ぎ。

 都内の閑静な住宅街にぽつんと佇んでいる、老舗感あふれる喫茶店に俺とヒマワリが入り込む。

 入ってみれば、もう既に岡平さんが席を取ってくれていた。


「おはようございます。ヨウ君、ヒマワリちゃん」


 朗らかな岡平さんの挨拶に、俺とヒマワリが異口同音に「おはようございます」を返す。


「すみません。お願いしておいてなんですが、なんとお礼を言ったら良いか」

「報酬はヨウ君の出世払いで良いですよ」

「出世払い、ですか」


 冗談めかして笑う岡平さんに、苦笑いを返す。

 岡平さんへの出世払い……。俺は相当な人物に借りを作ってしまったのかもしれない。


「あの……岡平さん?」

「なんですか? ヒマワリちゃん」

「本当に今日はありがとうございます。けど……」


 ヒマワリが不安そうな顔をする。言いたいことはわかる。わかる、というか知っている。

 ここに来るまでずっとヒマワリは、普段とは打って変わって不安そうに、何度も「なんとかなるかな?」と俺に確認してきたものだ。


「ヒマワリちゃん」

「はい」

「無責任に言いますが、大丈夫です。なるようになります。お姉さんにまかせてください」


 岡平さんが言うと、なんという説得力だろうか。


 昨日のことを思い返す。

 岡平さんは、流石も流石だった。


 説得力にも根拠にもかける俺のタンカが炸裂した後、鈴川から自分のスマートフォンをひったくり、俺の「お願い」に対するこまごまとした計画を立ててくれた。


 曰く、「ヨウ君とヒマワリちゃんの二人が揃えば、作戦はいかようにでも立てられます」とのことらしい。


 もう、初めて会った時の岡平さんから感じた小動物的なイメージは存在しない。

 俺が抱く岡平さんへのイメージは、狡猾なヘビ、もしくは獲物を狩る猛禽類だ。


 今だって、岡平さんの笑顔が怖い。

 この人に生涯逆らってはならない。そんな固い誓いが俺の中に立つ程度には。


「座ってくださいな」


 そう言う、岡平さんに俺とヒマワリは小さく会釈をしてから、向かい合うように座った。


「ヨウ君はコーヒー、ヒマワリちゃんはオレンジジュースとかで良いですか?」


 問われて、俺達が頷き返すと、岡平さんが喫茶店のマスターらしき初老の男性を呼び注文を伝えた。

 マスターが「かしこまりました」と言って、カウンターの奥へ消える。


 しばらく、岡平さんがにこにこと俺とヒマワリの顔を見比べる。その後でゆっくりと口を開いた。


「さぁて、あと一人で役者が揃いますが……っと、噂をすれば影、ですね」


 話しながら岡平さんの視線が俺達の後ろに向かった。


 ばつの悪そうな表情の鈴川が、俺達の飲み物と一緒にやってきた。


「あ、鈴川さん」


 ヒマワリが小さくヤツの名前を呼ぶ。

 ただ、それ以上に大きな声で岡平さんの小言が炸裂した。


「鈴川さん、遅いです」

「すまない。ちょっと準備に手間取って」

「言い訳できる身分だと思ってるんですか? とりあえず座ってください?」


 鈴川がとぼとぼと、岡平さんの隣に座る。そんな鈴川に岡平さんがニヤニヤしながら声をかけた。


「仕事さえしてれば鈴川さんは素敵なんですけどねぇ」

「『仕事さえしてれば』って……」

「そのままの意味ですよ、いやですねぇ」

「……いや、俺は何も言い返せないな……」

「言い返しでもしたら、百倍にして返しますよ?」


 岡平さんの鋭いツッコミに、鈴川ががっくりと肩を落とす。

 こうも軽口を叩き合っている二人を見ていると、よもやこれからメンヘラ女に喧嘩を売りに行くとは想像もつかないだろう。


 軽口をおさめ、一呼吸ついた岡平さんが、皆の顔を見回した。


「さて、まずは鈴川さん? リカさんには、ちゃんと私の言った通りの連絡をしてくれましたよね?」

「ああ」


 岡平さんの確認に、鈴川が小さく頷き、全員に見えるようにスマートフォンをテーブルの中央に置いた。

 俺とヒマワリがそれを覗き込む。


 スマートフォンの画面には、鈴川が送ったのであろうメッセージが表示されていた。


『リカ、俺が悪かった。お腹の子供もまとめて幸せにさせてくれ。明日、会いに行く。仕事休めるか? 俺も休むから』


 その後には、リカの狂ったように喜ぶメッセージと、そつなく返答する鈴川のメッセージが続いている。


「反応は上々ですね」


 にこぉーっと、岡平さんが満足げに笑う。


「さて、メンヘラリカちゃんに鉄槌を下しに行きましょう」



 §



 鈴川の案内で俺達は大きなマンションにたどり着いた。

 喫茶店から歩いて十分程度の場所だ。


 なんともでかいマンションだ。タワーマンションとまではいかないまでも、この辺では相当な規模なのではないだろうか。


 当然セキュリティもしっかりしている。エントランスからインターホンで各部屋に連絡を取るタイプのマンションだ。


 岡平さんが俺とヒマワリに目配せをする。インターホンにカメラがついているため、一度俺達は隠れる手はずになっている。


 三人で自動ドアの前から離れて影に隠れ、鈴川を眺める。

 マンションに向かって小さく頷いた鈴川が一人で自動ドアをくぐり、インターホンの前に立つ。それを後ろ覗き込む俺達。


 鈴川が一つ深呼吸をして、ボタンを押した。

 数秒の後、インターホンごしに、鈴川が何やら話した後、奥の方の自動ドアが開く。


 岡平さんが俺達に手で合図を出した。

 事前に打ち合わせた通り、俺達は全速力で駆け抜け、鈴川の背中に追いつく。


「第一関門突破ですね」


 岡平さんがそう言って笑った。


 エレベーターに乗り、最上階へ。どうやらリカは結構な金持ちのようだ。

 都内の大きなマンション、家賃はいくらするのだろうか。人生経験が不足しすぎていてわからない。わからないが、相当な金額になるのだろうことは予想がつく。


 しばらくして最上階に到着したエレベーターの扉が開くと、鈴川が躍り出て迷いなく左へ曲がる。


「こっちの一番奥だ」


 勝手知ったるなんとやら、らしい。何度も鈴川はこの場所へ足を運んだのだろう。


 マンションの廊下を三分の二程歩いたところで岡平さんがストップをかけた。


「はい、ヨウ君、ヒマワリちゃん。私達はここまでです。鈴川さん、手はず通りに」

「わかった」


 鈴川が一人で歩いていき、そして一番奥の部屋の前で立ち止まる。

 俺達はいつなにが起こっても良いように、固唾をのんでそれを見つめる。


 そして、インターホンを鈴川が押そうとした直前、ドアが勢いよく開いた。

 中から、満面の笑みを浮かべたメンヘラ女がぬっと出てくる。


「今です!」


 岡平さんが小さく叫んだ。

 ここから、俺の最初の出番だ。


 走る。走る。リカと鈴川めがけて。

 途中、揺れる視界の中、リカがこちらに気づいたらしい様子をとらえた。


 俺と鈴川を交互に見て、何事かという表情をしている。

 良いぞ。そう、それで良い。混乱しろ。混乱すればするだけ、俺達の持ち時間が増える。


 リカがとっさにドアを閉めようとする。だが、そうはさせない。織り込み済みだ。打ち合わせ通り、鈴川がドアに足を捻り込み止める。

 何やらリカが意味不明な叫び声をあげる。だが、もう遅い。後一秒も要らない。


 もみ合う鈴川とリカのもとに――正確にはリカの部屋のドアに、手が届く。もう少し。


 ――届いたっ!


「っ! 岡平さんっ! ヒマワリっ!」


 かすれた声で叫ぶ。緊張やらなにやらで息も絶え絶えだ。


「良くやりました、ヨウ君!」

「ヨウっ!」


 岡平さんとヒマワリが遅れてやってくる。


「えっ!? なに!? なに!? なんなのっ!?」


 状況が飲み込めていないメンヘラ女を、俺はギラリと睨みつける。


「リカ……さん、でしたよね?」

「なんなのっ!? トウジっ! どういう――」


 鈴川に説明を求めるリカの声を遮って叫ぶ。


「金切り声がうるせえっ!」

「ひっ!」


 俺の突然の剣幕に、リカが息を呑んだ。


「とりあえず、中、入れてもらえますか? 聞きたいこと山程あるんで」


 これはお願いじゃない。命令だ。


 鈴川とアイコンタクトをして、ドアをこじ開け、俺達はリカの部屋へ立ち入った。





 俺達四人が部屋になだれ込み、ようやく状況を飲み込めたらしいリカは、きゃいきゃいとやかましく騒いだ。


「トウジっ! どういうことっ!?」


 鈴川は、じっとリカを見つめるだけで答えない。


「トウジっ! なんとか言ってっ! 結婚しようって言ってくれたよねっ! あれ、嘘だったの!?」


 結婚のけの字も、鈴川はリカとのやりとりで出していない。「幸せにさせてくれ」というのは、イコール結婚ではない。


「騙したのっ!?」


 ヒステリックに騙したのかと何度も繰り返すその姿を見て、思考がぐちゃぐちゃになった。両の手のひらが痛い。気づけば俺は爪が食い込むほど強く拳を握りしめていた。


 自分勝手に何もかもをかき乱し、台無しにしてくれた当本人がやいのやいの騒いでいる現状に、頭が真っ赤になる。

 口を開く。暴れまわる感情に身を任せて。きっと出てくるのは罵倒の言葉だ。


 しかし、俺が声を発するよりも前に、ヒマワリがリカの前に躍り出て、叫んだ。


「鈴川さんの……お姉ちゃんのっ! 全部全部ぶち壊しておいてっ! なんであなたが怒ってるんですか!? 騙したのはあなたじゃないですかっ!」


 ヒマワリの咆哮を受け、リカが口を噤み、鋭い目つきでヒマワリを睨めつける。


「お腹に鈴川さんの赤ちゃんがいるとかっ! そんな嘘まで吐いてっ! アタシ達を混乱させて楽しいですかっ!?」


 叫び終わったヒマワリが、はぁ、はぁ、と荒い呼吸を繰り返している。

 そんなヒマワリを見て、リカが酷薄な笑みを浮かべた。


「はーん。オマエ、トウジの婚約者の妹でしょ? 秋野ヒマワリ、だっけ?」


 知っているはずのない情報をリカが口にしたことで、その場の誰もが耳を疑った。


「り……リカっ! お前なんで知ってっ!」

「リカはトウジのことならなんでも知ってるんだから」


 ふふんと、リカが胸を張る。


「リカがあ? 騙したあ? 誰を?」

「そ……それはっ! お腹に鈴川さんの赤ちゃんがいるとかっ!」

「オマエには関係ないだろっ! しゃしゃってくんな、ブスッ!」


 リカが右手を振りかぶって、ヒマワリを打った。ヒマワリが痛みに悲鳴をあげる様が、真っ赤に染まった視界の中でスローモーションに映る。


「ってめっ!」


 思わず前に出る。無意識のうちに握った右の拳を弓引くように引き絞って。


「ヨウ君っ! ダメですっ!」


 拳をリカに叩きつけんとしたその時、岡平さんの声が俺を激情から引き上げた。


 振り上げた拳の降ろす先を見失った俺の後ろから、岡平さんが冷静な声でリカに語りかける。


「リカさん? あなたのお腹の中に鈴川さんのお子さんがいる、というのはまことですか?」

「はぁ!? オマエに関係ないだろっ!」

「ありますよ。部下として、上司の名誉はある程度の水準に保つ義務がありますから」

「だからなんだっ!」


 岡平さんが「話にならない」とばかりに、ため息を吐く。


「あなたが嘘を吐いていないのなら、私達は謝罪して帰りましょう」

「なら、さっさと帰れよっ!」

「駄目です。あなたが嘘を吐いていない証拠がありません」

「そんなのっ――」

「本当に妊娠しているならありますよね?」


 岡平さんの声がにわかに鋭くなる。


「エコー写真」


 今まで当たり散らすように叫んでいたリカが黙った。


「母子手帳は? 流石にもう安定期ですしあるはずでしょう?」

「っ! んなもんなんでオマエらに見せる必要がっ!」

「ないんですか? ですよねぇ。あなたのその身体、羨ましいスタイルですね。……妊娠しているようには見えません」


 リカは肌にぴったりとフィットするようなタイトな服装をしていた。


「ちなみに、妊娠何ヶ月でしょうか?」

「だからっ!」

「女性の生理現象に疎い男性は騙せても、私は騙せません。嘘を吐いていないのなら、さっさと出してくださいな」

「ぐっ!」


 リカの顔色がどんどんと悪くなっていく。

 やはり、岡平さんの読み通り、妊娠は嘘のようだ。


「トウジっ! トウジは信じてくれるよねっ!? リカのことっ!」


 リカの矛先が鈴川へ向かう。


「今までの流れから察するに、『お腹の赤ちゃん』なんて存在しないんだろう?」


 鈴川が怒りを押し殺したように、声を絞り出した。


「お前のせいで、どれだけの人間が巻き込まれたと思う? 悪いがお断りだ」

「――っ……!?」


 信じていたはずの鈴川にさえ、突き放されたリカが瞠目し、俯いた。

 そして、ゆらりと幽鬼のように立ち尽くし、小さくつぶやく。


「そっか……。トウジはリカのものになってくれないんだ。オマエらのせいだ……」


 リカの声は、かすかな囁くような音量であったが、しっかりと俺の鼓膜を震わせた。


「じゃあ、もう。めちゃくちゃにしてやる……」


 リカは手強い。


 岡平さんは確かにそう言った。理性的であり感情的であるから、と。

 ただ、岡平さんも想像してなかったのかもしれない。リカが理性すら捨て去った時、もっとも事態がややこしくなることに。


「めちゃくちゃにしてやるっ!」


 踵を返したリカがカウンターキッチンの水切りラックに干してあった包丁を手に取り、ヒマワリに向かって突進した。


 ――まずいっ!


 そう思ったときには、身体が動いていた。


 ――ざくり。


 右腕が、熱い。


 リカとヒマワリの間に割り込んんだ俺の右腕に、包丁がずぷりと突き刺さる。


「ははっ!」


 リカが嗤う。狂ったように。


 刺された部分から、ぬるりと生暖かい感触が右腕を伝った。

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