第十七話:メンヘラクソ女を、一発イワシてやりましょう
「ユリカちゃんの婚約。なんかダメになっちゃったんだって」
あれから二日過ぎた夕飯時。残念そうな顔をした母さんが父さんにそう言った。
お隣さんママ友ネットワークで入手した情報なのだろう。
「そりゃまたどうして?」
箸でつまんだ豆腐を取りこぼして、父さんが呆然とした様子で母さんを見た。
「なんでも、お相手の男性のね、女性関係が、って。詳しいことは秋野さんも話してくれなかったんだけど」
驚きすぎたのか呆けた表情で固まっていた父さんがようやく口に出せたのは、ただ一言、「そうか……」だけだった。
それだけユリカさんの婚約に対しては、我が家の両親も喜んでいた。週に二度三度は会話に出る程度に。
俺は知らないふりをする。知っているから。
正直、あの後誰と何を喋って、どうやって鈴川の家から帰ったかほとんど覚えていない。
思い出せるのは、鮮烈な「やってしまった」という罪悪感。
鈴川とユリカさんの婚約がどうなるのかについて、言うまでもなく俺にはほとんど関係がない。
俺とヒマワリがあんなことになるように仕向けたわけではないし、俺達二人のどこにも原因はない、と思う。
しかし、何故か喉元に刺さった魚のトゲのような感情が、ずっとくすぶって離れない。
ヒマワリ、岡平さんとのグループチャットを思い出す。
解散して、夜、岡平さんから送られてきたヒマワリを心配する内容のメッセージに対する返事はない。
俺は勿論送っていないし、ヒマワリからももちろんだ。
「ごちそうさま」
部外者ながらユリカさんの婚約の行く末についてあれこれと詮索するように話している両親を意識的に無視して、自分の食器を片付け、部屋へ戻った。
部屋に入り照明をつけてから、ベッドに腰掛けて数秒、そのままバタリと背中を倒す。
寝転びながら、スマートフォンを取り出し、件のグループチャットを眺める。
状況は変わらない。二日前の夜岡平さんから届いたメッセージが一番下に表示されていて、それきりだ。
ため息を吐く。
どうしてこうなったのか、なんて二日間考え尽くした。考えて考えて考えて、結局無限に湧き上がる「どうして?」、「なぜ?」に対する答えは出てきちゃくれなかった。
ヒマワリはどうしているだろうか。
なぜだか、考えて出てくるのはそればかりだ。勿論ユリカさんの心配も大いにしている。あの時見せた想い人の傷ついた表情は、俺が最も見たくない顔だった、と思う。
しかし、裏腹に、考えれば考えるほど炭酸水の内から浮いてくる気泡のごとく、ヒマワリの顔ばかりが脳裏をよぎる。
あの時、ヒマワリはどんな顔をしていただろうか。
スマートフォンをぼうっと眺めながら思い出そうとするが、全然思い出せない。
泣いていただろうか。笑っていただろうか。
そんな折、手に持ったスマートフォンがぶるりと震え、通知音を鳴らした。
グループチャットではなく、岡平さんから直接届いたメッセージだった。
『ヒマワリちゃん、大丈夫そうでしょうか?』
返事がなく気になったのだろう。内容はヒマワリを気遣うものだった。
『俺もあれから会ってないので』
『そうですか。鈴川さんとユリカさんは?』
『直接は聞いていませんが、母がだめになったと言っていました』
『そうですか』
ふと、岡平さんであれば、この状況をなんとかする方法を知っているのではないかと思いつく。
聞くだけタダだ。尋ねてみる。
『どうしたら良いですかね?』
我ながら稚拙な問いかけだ。何に対してなのか、何をなのか、文面からではさっぱりわからない。
そもそも俺自身がどうしたいのかさえ、今はわかっていない。
岡平さんからの返事は遅かった。体感で言えば三十分ほど。その実、五分程度。
『すみません。こうなってしまっては、秋野家と鈴川家、両家での話し合いとなってしまうので、正直私がしゃしゃり出ると事態が悪化するような気がするのです』
ごもっともだ。岡平さんは平たく言わずとも部外者だ。そんな彼女が今調停に入らんと奮起しても、どうにもならない。
『ただ』
次のメッセージはそれだけだった。数秒後、すぐにそれは消える。
打っている最中に誤って送信してしまい、慌てて消したのだろうか。俺は岡平さんのメッセージを待つ。
『すみません、今のはなんでもないです』
なんでもない、というのは嘘だ。
きっと何か思いついたに違いない。とっさにそう思った。
『今、何か思いついたのではないですか? 言うだけ言ってみてくれませんか?』
しばらく待つ。何に、何を祈っているのかわからないままに祈りながら、俺はスマートフォンを握りしめる。
『ただ、今の状況をなんとかできるとしたら、ヨウ君だけなのかも、と思っただけです』
しゅぽ、という音とともに現れたのはそんなメッセージ。
『でも、具体的にどうすれば良いのかまでは、皆目検討がつきません』
唯一……俺だけ……?
『俺ならなんとかできるってことでしょうか?』
『すみません。ちょっと語弊が生じる文でしたね。万が一なんとかできる人をあげるとしたら、それはヨウ君なのだろうな、と私が勝手に思っているだけです』
少しだけ考える。
俺はなんとかしたいのだろうか。この状況を。
誰も幸せになれない。こんな帰結を俺はどうしたい?
何度も自問した。何度も何度も。
――良かったじゃないか。これで、ユリカさんと鈴川の婚約はパァだ。望んだ通りになったな。
わざと心のなかで、声に出さずに唱える。
言葉は泡沫に消え、違和感だけが残った。
俺は、ユリカさんのあんな顔を見たかったのか? 違うだろ。
ユリカさんの笑顔が好きだったんだろ。幸せになってほしかったんだろ? 違うか?
どうだ? 今の状況は。ユリカさんは幸せか? きっとそうじゃないだろ。
ヒマワリが言っていた。「ユリカさんは不安そうだった」と。
俺達がいたずらにその不安を煽ったのではないか?
だったら、俺はどうするべきなんだ?
――やるしかねぇだろ。
深呼吸をし、頬をぱちんと叩く。
決まった。決めた。
『ありがとうございます。後から何か相談するかも知れませんが、そのときはお願いします』
手速く岡平さんにそうメッセージを送ってから、ヒマワリに電話をかける。
スマートフォンを耳に当て、コール音が数回。その後、ヒマワリが出た。
『なに?』
ずいぶん久しぶりに感じるヒマワリの声は、ひどく沈んだものだった。
「今から出てこれるか?」
俺の問いに、しばらくの沈黙。その後で小さく「うん」と返事があった。
「じゃあ、家の前で待ってる」
それだけ伝えて電話を切る。
風のように部屋を飛び出して階段を駆け下り、リビングのドアを開けて「ちょっと出てくるっ!」と一言。
どこへ行くのか問いかける母さんの声に、靴を履きながら「ちょっとそこまで」とぞんざいに返事をして、玄関を飛び出した。
突然激しく動いたものだから、心臓がびっくりしたのか、息が上がっている。
一分ほど待つとヒマワリが出てきた。
「ヒマワリ」
名前を呼ぶだけ呼んで、俺は言葉を詰まらせた。街灯だけが照らす薄暗い家の前で、ヒマワリの真っ赤になった目だけが鮮明に浮かび上がっていた。
「ヨウ」
数秒かけて、ヒマワリが俺の名前を呼ぶ。そして次の瞬間、ひっ、としゃくりあげた。
「どうしよう」
出てくるのはきっと後悔の言葉。
「どうしよう」
出てくるのはきっと懺悔の言葉。
「どうしようどうしようどうしよう」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、ヒマワリがそれだけをつぶやく。
「どうしようっ!」
そして、最後に俺に向かって突進してきた。腹と胸あたりに、ヒマワリの顔がどしんと当たった。力ないタックルだったが、ひどく痛みを感じた。
「こうなるなんてっ! 思ってなかったっ!」
俺もそうだ。
「お姉ちゃんっ! ずっと部屋からでてこないのっ!」
そうだったのか。
「こんなこと、望んでないっ!」
そんなこと、俺だってわかってる。
「……どうしようっ……どうしよう、どうしよう、どうしよう」
きっと本当のところで言えば、誰も悪くはない。そのはずだ。
俺も、ヒマワリも、岡平さんも、鈴川でさえ。
誰も悪くない。何かボタンをかけちがえただけなのだ。
そのはずなのだ。
「ヒマワリ」
「どうしようどうしようどうしよう」
「ヒマワリっ!」
俺の胸に顔を押し付けて、「どうしよう」ばかりを繰り返すヒマワリを、俺は引き剥がした。
目が尋常じゃなく腫れぼったい。恐らくずっと泣いていたのだろう。昼夜問わず。
「どうしよう……」
ヒマワリの真っ赤な目が俺を見る。
「……ヨウ、なんとかして……」
何度も聞いたはずの、懐かしいセリフが鼓膜を震わせる。
小さい頃、いつだって俺の手をぐいぐいと引いてヒマワリは歩いていた。
口では嫌がる振りをしながら、色んなところに連れて行ってくれるヒマワリが大好きだった。
何よりも頼りにしていた。
こいつは俺にとってヒーローで、相棒で、逆らえない親分だった。
だけど、ヒーローだって、相棒だって、親分だって、完璧じゃない。
時折、向こう見ずの度が過ぎて、ヒマワリの手に負えなくなる。
そんな時、泣きじゃくりながらヒマワリはいつも言ったのだ。このセリフを。
そして、俺が返す答えもいつも同じだった。
「わかった。なんとかする」
すすり泣くヒマワリの手を取って、近くの公園まで行く。
岡平さんは「なんとかできるとしたら、ヨウ君なのだろうな」とメッセージをくれた。「具体的にどうすれば良いのかまでは、皆目検討がつきません」とも。
でも聡明な岡平さんのことだ。どうすればよいのかなんてわかっているはずだ。
ただ、それが酷く難しい。俺一人じゃどうにもならない。そう考えて敢えて方法については言及しなかったのだろう。そう思う。
なぜなら、「どうすればよい」かなんて、俺でもすぐにわかるからだ。
公園のブランコにヒマワリを座らせて、岡平さんに電話をかける。
『はい、ヨウ君ですか?』
岡平さんはすぐに出てくれた。
「岡平さん。お願いがあります」
『お願いですか?』
「はい」
すう、と息を吸う。
どうすればよいか? 簡単だ。
鈴川の身の潔白を証明すれば良い。
きっと鈴川はちゃんと説明しただろう。したに違いない。
しかし、やらかした本人の釈明など、言い訳にすら聞こえないのが世の常なのだ。
勿論、鈴川の身の潔白の証明は岡平さんでもできない。
じゃあ、誰がすれば良い?
それは、俺とヒマワリだ。俺とヒマワリが揃って、確たる証拠をユリカさんとおじさんおばさんに突きつけて初めて、鈴川にこびりついた疑念は払拭される。
「鈴川の身の潔白を証明します。俺が」
『……それしかないですよねぇ。ヨウ君なら遅かれ早かれその答えにたどり着くと思っていました。敢えて伝えなかったんですけどね』
「なんでですか?」
『リカさん……。私の推測ですが、彼女結構手強いですよ?』
岡平さんがそう言った。手強い。確かに手強いだろう。
『理性的なだけの相手ならまだ良かったのですよ。逆に感情的なだけの相手であってもまだ良かったのですよ。しかし、理性的かつ感情的な人間というのは厄介です』
「そうなんですか?」
『そうなんですよねぇ。……で、何かプランは立ててあるのですか?』
立てているかといわれれば、立てていない。
俺は勉強はできる方だと思っちゃいるし、身体も鍛えちゃいるが、まだまだ人生経験が不足しているガキだ。
だから、借りられるものは、借りられるところからしっかり借りる。
「ありません。俺はガキなんで。だから、今岡平さんに電話しています。最初に言った『お願い』がこれです」
『なるほど……』
電話のスピーカーから愉快そうな岡平さんの声が聞こえた。
『ヨウ君の、その割り切った考え方、やり方、嫌いじゃないですよ』
「ありがとうございます」
『お礼を言うのはまだ早いです。協力しましょう。あのぶりぶりメンヘラクズ女に、鈴川さんがやられっぱなしってのも業腹ですし』
どうしよう。岡平さんが思った以上にノリノリだ。
『あとは、そうですね。ここまで周囲が張り切っているのに、当の本人が何もしない、じゃ格好つきませんよね?』
「え? それはどういう……」
『ほら、鈴川さん? ヨウ君ですよ。代わってください』
は? 鈴川? どういうことだ?
『ヨウ……君?』
電話口から聞こえた鈴川の声は、酒精の匂いが電話の向こうから臭ってくるようなものだった。
「鈴川……さん? なんで?」
『いや、岡平に無理やり連れてこられて、だな』
「酔ってます?」
俺の問いに対する返答は、電話口の奥から小さく聞こえる、岡平さんの「そこまで飲ませてないですよ~」という声だった。
『なんだ……その、岡平と話しているのを聞いた』
「はい」
『もう、俺が何を言ってもユリカは聞いてくれない……』
でしょうね、とは口に出さなかった。電話の向こうの鈴川が男泣きしている様子がありありと伝わったからだ。追い打ちをかけるほど俺も人でなしではない。
「俺とヒマワリが、アンタの身の潔白を証明します。してみせます」
『できる……かなあ』
「『できるかなあ』じゃないんです。やるんですよ」
役者は揃った、のかな? そう思いたい。
いや、揃ってなくても良い。こういうのはシンプルに意気込みだけでよいのだ。
後は、そう。すべきことは、言うべきことはただ一つ。
「メンヘラクソ女を、一発イワシてやりましょう」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます