第十六話:私、やっぱり、あなたにはふさわしくなかったみたいです。全部なかったことにさせてください
閑静な住宅街の一画。景観を壊さない程度の、大きさに嫌味のない建物。
特段、セキュリティの高いエントランスがあるわけでもない、平凡なマンションの三階、その角部屋。
俺とヒマワリの目の前で、岡平さんの細い指がインターホンのボタンを押した。
ぴんぽーん、と珍しくもないチャイムの音が小さく鳴り響く。
ごくりと生唾を飲み込む音は、誰が発したものだろうか。俺のような気もするし、ヒマワリの方から聞こえた気もする。
ややあって、奥から「はいはい」という鈴川の声が聞こえ、遅れてドアがきしんだ音を上げて開いた。
白いTシャツに、ハーフパンツという、だらしなささえ感じる格好をした鈴川が、俺達三人の姿を確認して瞠目した。
「お、岡平……? ヒマワリちゃんとヨウ君まで……」
驚きに言葉を失う鈴川に向かって、岡平さんがにこやかに言い放つ。
「おはようございます。鈴川さん。少しお話したいことがあります。入りますがいいですね?」
岡平さんの有無を言わせない声色に、鈴川が少したじろいだような顔をする。
「い、いや、構わないけど……」
「はい。ではお邪魔します」
鈴川の隣を通り抜けて、岡平さんが部屋の奥へと消える。何が起こっているのかわからないといった鈴川の様子に、俺とヒマワリが顔を見合わせた。
「えっと……。よくわからないけど、二人も上がってくれ」
中に入ると、非常に小綺麗で、鈴川の人柄を感じさせる部屋だった。間取りは1LDKになるのだろうか。
ゴミが散乱しているだとか、埃まみれだとかそういうこともない。むしろ整理整頓されており、マメな印象を受ける。
男にしては珍しくこまめに掃除をしているのだろう。物も少なく、こざっぱりとしており、鈴川の趣味娯楽らしきものはリビングの隅に据え置かれた本棚に陳列された多少の漫画本くらいだ。
内装もセンスの高さを感じさせるモノトーンで統一されており、家具や調度品なども部屋全体の印象を崩さないよう、慎重に厳選されている。
無機質さを感じさせるコンクリートがむき出しの壁が、絶妙な雰囲気を醸し出している。
人によっては「殺風景」という感想を抱くかもしれない。しかし、女性からの好感度が高い部屋というのはこういうものなのかな、とも思った。
廊下を抜けたリビングの中央、テレビと向かい合うように配置されたソファに岡平さんが、どっかと座った。
座る様子さえ、憤怒を感じさせるようだ。鈴川も仕事場で岡平さんのこんな態度は見たことがないのだろう。珍獣を見るような目をしている。
ソファが二人用だったので、俺とヒマワリは少し目配せをしてから、ソファの前に置かれたセンターテーブル近くの床に座った。
「何か飲むか?」
ニコニコと笑いながら怒気を振りまいている岡平さんにフリーズしていた鈴川が、数秒くらい立ちすくんだ後でようやっと発した言葉がそれだった。
「ありがとうございます、鈴川さん。結構です」
岡平さんが吐き捨てるように言ってから、俺とヒマワリの顔を見て、「二人共それでいいですよね?」と言った。俺とヒマワリはただただ頷くことしかできない。
鈴川が「そうか……」と呟いてから、所存なさげにその身を揺らした。そんな鈴川の様子を見て、岡平さんが「鈴川さんも座ってはいかがですか?」と俺とヒマワリの反対側を顎でしゃくる。
少し迷ったのか、目を泳がせてから、小さくため息を吐いた鈴川が、俺達と向かい合うようにして床に座る。
ひたすらにニコニコとしている岡平さん。事態を飲み込めておらず、びくびくしている鈴川。そして俺達。無言の時間が少し続いた。
沈黙を切り裂いたのは岡平さんだった。
「さて、鈴川さん。今日私達がここに来たのは、鈴川さんにしっかりとお話をお伺いしたかったからです」
びくびくしている鈴川の顔を見ながら、岡平さんが本題に入ろうとする。
「話?」
「はい」
鈴川は何を問われるのかと不安そうではあるが、全く心当たりはない、といった面持ちだ。
昨日俺達三人に、痴情のもつれを目撃されていたことなど、さっぱり気づいていないのだろう。
「『リカさん』とは、どういったご関係でしょうか?」
そして、岡平さんが放ったセリフは、超絶ド直球のストレートであった。駆け引きなど存在しない、ただただ真正面からぶん殴るスタイル。
メンヘラクソ女の名前が出た瞬間、間違いなく鈴川の表情がぴきりと引きつった。面白いほどに。
「ど、どこでそれを?」
「昨日、とあるショッピングモールで、面白いくらい典型的な痴情のもつれを拝見しましてね」
言い逃れはできないぞ、という最終宣告である。「どこでそれを?」なんて馬鹿みたいな返事をした鈴川も迂闊過ぎるが、岡平さんの追い詰め方が尋常じゃない。
「全部話していただけますか? リカさんとどのようなご関係だったのか」
鈴川が、岡平さんを見やった。こめかみからつうっと汗が一滴流れる。
そして、続けて、鈴川が俺とヒマワリを見た。
「ヒマワリちゃんとヨウ君も?」
具体的に俺とヒマワリが何をしたのかまで、鈴川は言及していない。しかし、言わんとしていることはよく理解できる。できないほうが馬鹿だ。
俺は頷く。ヒマワリも同様に。
鈴川が大きく深いため息を吐いて、数回口を開け閉めした後、ぽつりぽつりと語り始めた。
リカは、鈴川が大学生の頃から付き合っていた女だそうだ。
年齢は、二つ下。大学のサークルで知り合い、鈴川が大学を卒業する直前にリカから告白され付き合い始めたらしい。
「付き合った当初は、良かったんだけどな……」
そう話す鈴川の顔は苦々しさで溢れていた。
付き合って一年くらい経った頃から、リカは本性を表し始めたのだという。
最初は小さな変化だった。
たまたま、上司との飲み会が長引き、終電を逃した。そのことをリカにメッセージで愚痴混じりに伝えると、数秒も経たずに電話がかかってきた。
怒りに塗れた声が電話口から響いた。
――飲み会とか嘘でしょ? 浮気してる?
鈴川はリカの豹変ぶりに驚いたらしい。自身の恋人が少しばかりキツい性格をしていることは理解していた。
しかし、突然電話で浮気を疑われるとは鈴川も思っていなかった。
その場はなんとか鈴川もリカをなだめすかし、事なきを得た。
ただ、その日を境に徐々にそういった言動が多くなっていったそうだ。
――今何してるの? リカに言えないことしてるんでしょ?
――なんですぐに返事くれないの? 仕事? 言い訳しないで。
――どうして、リカが不安になるようなことするの? ねぇ。
そんなやり取りが何度も繰り返された。一年くらいは鈴川も我慢していたらしい。だが、人間には限界というものがある。
ある日、ジェットコースターのように上がり下がりするリカの情緒に耐えきれなくなり、鈴川とリカは言い争いをすることになる。さすがの鈴川もかなり激怒したそうだ。
――トウジはリカのことどうでもいいんだっ!
結果、そんな捨て台詞と共に、リカは逃げるように帰っていった。しばらく時間が経ち、流石に言い過ぎたか、と鈴川が思い始めた頃。
写真が送られてきたのだという。
真っ赤に染まった手首の写真が。
急いで電話をかけ、狂ったように泣き叫びながら謝るリカを鈴川はなだめすかした。
――ごめんね。リカ、こんなのでごめんね。でも、トウジのことが大好きだからっ!
そこから先は、底なし沼にはまるようにどんどんと鈴川は逃げ道を塞がれていった。
気づけば鈴川も「リカには自分がいなければダメだ」などと思い込むようになったのだという。
鈴川もどんどんと自分の中の常識が狂っていった。
「今思えば、なんであんなに俺は頑張っていたんだろう、なんて思うよ」
そんな折、鈴川はユリカさんと出会った。
ヒマワリの件があったとは言え、最初は仕事上の関係だ。ユリカさんの勤める会社は鈴川の会社の得意先だ。その程度だった。
しかし、ある日、ユリカさんが鈴川に声をかけたらしい。
――鈴川さん? 何かお疲れですか? いえ、お仕事で、とかではないように思って。いつも、何か……ひどく疲れているような、言葉を選ばずに言えば、うんざりしているような、そんなお顔をされてますので。
驚いたという。
確かに疲労は感じていた。長らくリカという女に支配されており、鈴川も限界だった。
しかし、おくびにも出さないよう努力していた。
それを得意先の、短時間顔を合わせるだけの女性に看破されたのだから。
驚くのも当然だ。
後は自然な流れだ。相談に乗ってくれたユリカさんの包容力や優しさによって、鈴川は目を覚まし、リカと別れる決心をした。
別れ話は相当難航に難航を重ねたとのことだが、なんとか成立した。
そして、鈴川は恩人でもあるユリカさんに正式に交際を申し込んだ、のだという。
結婚を前提とした。
「ユリカには、本当に救われたんだ」
そう話す鈴川の顔に、言葉に嘘は感じ取れなかった。少なくとも俺は。
ひとしきり語り終えたらしく、鈴川が口を閉ざした。
「……そうですか。わかりました」
俯く鈴川を見て、岡平さんがまだ納得してなさそうに険のある声を上げた。
「では、ヒマワリちゃんのお姉様……ユリカさんと、リカさんとの交際期間は被ってはいないのですね?」
「勿論だ。流石にそんなマネはしない。言っても信じて貰えないとは思うが……」
「いえ、そこを疑ってもしょうがないので良いです」
岡平さんが微笑みながらも、投げやりな様子で鈴川に返した。
「リカさんと別れたのはいつですか?」
「去年の十月だ」
今が三月だから、おおよそ五ヶ月前。
「ユリカさんとお付き合いを始めたのは?」
「十二月だ」
ということは、リカと別れて二ヶ月後。
「そうですかそうですか……」
岡平さんが腕を組みうんうんと頷いてから、「うーん」とでも言いたげに、難しそうな顔をし数秒。
「つかぬことを聞きますが、リカさんと最後にいたしたのは?」
「いたっ!」
岡平さんの包み隠さない質問に、鈴川が言葉を失う。
「大事なことです。嘘はつかないでくださいね? 私、鈴川さんの嘘吐くときのクセ、わかってますから」
さらりと岡平さんが末恐ろしいことを言う。
鈴川も同じことを感じたのだろう。顔を青くしながら頷く。
「……確か、九月だ」
「確かですね?」
しばらく鈴川が考えこんだ。そして、確かめるように噛みしめるように、言い放つ。
「確かだ」
自信満々な声色であって、自信満々とは程遠い顔色の鈴川に岡平さんが更に問う。
「ちなみに、鈴川さんは、女性といたす時避妊をしないタイプのクズではありませんよね?」
「さっ! 流石にっ!」
「あー、いいです。今の反応で理解しましたから」
何かを考えるようにゆっくりと目を閉じ、開いた岡平さんが、ヒマワリに向かって微笑んだ。
「ヒマワリちゃん。一旦は安心しましょうか」
「え……っと?」
「私達が最も恐れていた事態にはなっていませんよ。多分」
俺達が最も恐れていた事態。
リカの妊娠が狂言ではなく、本当のことであって、鈴川という男がどうしようもないクズだったという真実が暴かれる、といった事態だ。
ヒマワリの顔が少しだけ明るくなった。
「じゃ、じゃあ」
「はい、きっと大丈夫です」
「良かった……」
心底ほっとしたような声を上げてから、ヒマワリの眦から涙が一滴こぼれ落ちる。
思えばここで皆気を抜いてしまっていたのだろう。後悔すべきことに。
俺達は、鈴川が住むマンションの一室、そのドアの鍵がガチャリと音を立てたのに気づかなかった。
鈴川は俺達の急な来訪に驚いて、その日の、日曜日の予定をすっかり失念してしまっていた。
そして、予想以上に、鈴川の独白は長かった。
そんな偶然が折り重なったのだ。
誰が悪いわけじゃない。
「じゃあ、あのリカさんって女性が、鈴川さんの赤ちゃんを妊娠し……て……」
ヒマワリの言葉が尻切れトンボになった。「妊娠しているというのは、嘘ってことですね」と続けようとしたのだろうが、ならなかった。
玄関から、どさり、と重たいビニール袋が床に落ちたような音が聞こえたからだ。
俺達は、まさかという感情を抱きながらも、ゆっくりとそちらを見た。
ユリカさんが、顔面蒼白で、わなわなと震えながら、そこに立っていた。
「鈴川……さん?」
一つ、俺達四人が悪かったとすれば、この時誰も否定の言葉をとっさに出さなかったことだ。
すぐにすべての事情を明かせば、なんとかなったのかもしれない。
「……ゆ、ユリ、カ! 違うんだっ!」
鈴川だけが、しばらくのにらみ合いを経た後で、否定の言葉を出した。
「……ごめんなさい。鈴川さん。私、やっぱり、あなたにはふさわしくなかったみたいです。全部なかったことにさせてください」
震える声で、それだけ言ったユリカさんが、バタバタと部屋から出ていった。
もう一つ、俺達が悪かったことは、呆然としすぎて、すぐに鈴川にユリカさんを追いかけさせなかったことだ。
この日、鈴川トウジと、秋野ユリカの婚約はなかったこととなった。
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