第二部

第一話:春夏冬カエデと申します

「なぁ」


 だらだらと流し読みしていた努力と友情と勝利がテーマの漫画雑誌から顔を上げて声をかける。


「なに~?」


 俺の呼びかけに、一ヶ月ほど前まで疎遠になっていたはずの幼馴染の秋野ヒマワリが答えた。携帯ゲーム機から目は離さないままで。


 ちゅーん、ばちゅーん、ちゅどーん、とゲーム機からヒマワリの好きな対戦型陣取りゲームの音が鳴る。否応なく耳に入りはするが、うるさくはないという、絶妙な音量だ。


「なんでお前今日もいんだよ」


 何度も繰り返し問うた疑問をヒマワリに投げかける。


 俺の想い人である秋野ユリカさんと鈴川トウジの「婚約」から始まった春休みのひと騒動が終わって数日。

 ヒマワリが姉の婚約者である鈴川に恋をしていた、ときたもんで、ひと騒動が相当ややこしくなったりもしたが、喉元すぎればなんとやら。


 こいつの考えなしの「お姉ちゃんの婚約、ぶっ壊そーぜ」という一言が、今となっては懐かしい。


 事態は俺もヒマワリも思わぬ方向へ展開していった。


 鈴川の元恋人の「鈴川の子供を妊娠している」という狂言によって生み出された混乱。

 それを聞いてしまったユリカさんと鈴川の、今になって思い返せば取るに足らないすれ違い。


 全てを解決するために、岡平キョウコさんという協力者を迎え、ちょっとした危ない橋を渡り、俺は右腕に名誉の負傷を負った。他ならぬ鈴川の元恋人、リカが手にした包丁によって。


 その甲斐があったのか、なかったのか、ユリカさんと鈴川の婚約は元通りとなり、今では結婚式やらなんやらについて色々と計画を立てているらしい。


 そんでもって、俺の右腕に残った名誉の負傷は結構な創傷らしかったため縫合手術をし、しばらくの入院期間を経て、俺はほとんど以前と同じ日常に戻ることとなった。


 しかし、戻らなかったものもある。


 それが、こいつだ。


「え? だって、ヨウ、右腕使えないじゃん」

「いや、もう痛み止めさえ飲んでおけば、なんとかなる程度なんだけど」

「そうやって無理して傷開いたら大変でしょ~。このヒマワリちゃんに任せなさいって」


 何を任せろと言うのだろうか。


 退院してからずっと、この幼馴染は俺の部屋に入り浸っている。

 なんのためにって? 俺の世話をするためだそうだ。


 ちなみに右腕に関して言うなら、抜糸はまだ済んでないものの、傷口はだいぶ塞がってきている。


 右手を動かす度に、走っていた鋭くひきつるような痛みはすっかり感じなくなった。


 流石に傷口を直接叩いたり、押したりすれば痛いが、注意すれば大丈夫だ。右手も不自由なく動かせるようになってきた。


 だから、ヒマワリがわざわざ俺の世話を焼く必要は無いのだ。


 昨夜もちゃんとそう言った。言い聞かせた。

 しかし、こいつの人の話を聞かない性質は尋常じゃない。お手上げだ。


 ため息を吐こうとした瞬間、部屋の中にノックの音が飛び込んだ。

 返事をする間もなく、ドアが開け放たれる。


「ヒマワリちゃん、ケーキ買ってきたんだけど食べる?」

「あ、おばさん。ありがとうございます。いただきます」

「うんうん。飲み物は紅茶で良いわよね?」

「はい、ありがとうございます」


 母さんだ。

 たちが悪いことに、ヒマワリが勝手に就任した俺の世話係は、両親公認のものとなっている。


「ヨウも食べるわよね? 飲み物は? コーヒー?」

「うん」

「はいはい。ヒマワリちゃん、ちょっと待っててね」


 ヒマワリが弾けんばかりの、人懐っこそうな声色で「はい!」と答え、母さんが意味ありげに笑ってから部屋を出ていった。


 ってか、実の息子をついで・・・みたいな扱いすんのやめろよ。いや、わかるけどさ。

 あと、ノックの後、返事を待たずに部屋に入ってくるのもやめてくれ。こちとら思春期ぞ?


 ……まぁいいか。


 漫画雑誌に目を戻す。紙面では、大人気のバトル漫画の主人公と悪役が、一進一退の攻防を繰り広げている。

 しかし、漫画の内容なんてさっぱり頭に入ってこない。


 それはひとえにヒマワリの存在だ。


 俺の小さい頃からの片思いの相手であるユリカさんの妹なのだが。そうとは思えないほど似ていない。


 気の強そうな少し鋭い眦。流線型で、機能美を思わせる、スレンダーな身体つき。生意気そうな口元。活動的な服装。

 ユリカさんとはどこをとっても真逆だ。同じ両親から受け継いだ遺伝子を持っているとは思えない。


 しかし、二人が姉妹であると証明できるものが一つだけある。

 ユリカさんも、ヒマワリもなのだが、誰が見ても「ものすごい美人だ」と評するだけの容姿をしているのだ。


 長年ユリカさんを想い続けてきた俺にとって、ヒマワリがタイプかと言われれば、絶対のノーである。


 ただ、腐っても美人なのだ。

 見目麗しい女子が部屋に居る。その事実が俺の心を平常心とは遠い場所につれていく。


 いや、勘違いしないでほしいのは、別にドキドキしたりとか、ワクワクしたりとかそういうのは無い。

 無いのだが、それでもずっと疎遠だった(悔しいことに)美人な幼馴染が部屋に入り浸っているこの状況は落ち着かない。


 漫画をパラリとめくる。

 ちょうど、ヒマワリがやっていたゲームも無音になって、紙が擦れる音が部屋の中にやけに大きく響いた。


 おおう、気まずい。どうするべ。


 気まずさを紛らわせるために、俺はヒマワリに軽く声をかけることにした。ノープランだが、なんとかなる。


「そういやよ」

「んー?」


 再度なりだしたゲームのSEやBGMといっしょに、ヒマワリが返事をした。


「今日で春休みも最終日だな。明日から始業式か」

「……あ~……」

「なんだ、その反応」


 さてはこいつ……。


「すっかり忘れてたーあ!」


 想像通りのお答えを賜った。


 さて、俺が通う浦園学園は、公立ながらも名だたる進学校だ。当然、進級の合間である春休みといえど宿題はどっさりと出ている。

 終わってるかって? 愚問だ。俺は、長期休暇の宿題について初日にスタートダッシュを決めるタイプの人間だ。


 そして、ヒマワリが通う霧口女子高等学校も、クラスにもよるが、進学校の末席に名を連ねてもおかしくはない女子高である。


 こと宿題という状況においては、俺と比較しても遜色ないはずだ。


「つかぬことを聞くが」

「うっ……」


 何を質問されるのか想像ついたらしい。


「宿題、あるんだろ? やったのか?」

「え、えーと……」

「やってないのか?」

「やってないことはないんだけどね? ほら、春休み中色々あったじゃない」


 やってないんだな。


 やってないのかあ。


「俺に言い訳してどうする? 明日、学校で同じ言い訳をするつもりか?」

「ま、まぁ、多少遅く提出しても、ね? きっと先生は許してくれるかなって」

「学校に行きながら、終わってない春休みの宿題を片付けるのかぁ。大変だろうなぁ」

「うう……」


 俺は手に持っていた漫画をパタリと閉じる。


「母さんが持ってきたケーキ食ったら、お前帰れ」

「でっ、でもっ!」

「俺は大丈夫って昨日も言っただろ。お前の宿題の方が大事だ」

「うー……。ヨウの真面目くん!」

「真面目で何が悪い」


 そのような悪口など、俺には効かぬ。


「頭でっかち!」

「だからどうした」

「人でなしっ!」

「お前の宿題が終わらないといった事態にならないか、俺は心配してやってるんだぞ」

「恋の敗北者っ!」

「それはお前も一緒だろうが」


 うん。なんだ。


「やめよう。なんだか虚しくなってくるし、酷く悲しい」

「……そだね」


 不毛な争いというのは早めに辞めるのが吉なのだ。


「うう……」

「腹をくくるんだな。わからないとこがあったら電話しろ。教えてやるから」

「うん……」


 ようやく、この落ち着かない部屋が元の部屋に戻る。俺は心のなかでそっと胸をなでおろした。


 まぁ、とは言え。

 ヒマワリにはこの数日間助けられたのも事実だ。


「色々世話してくれて助かった。もう、大丈夫だから」

「うん……」


 この顔は、「宿題なんかとは決して向き合いたくない」の顔だ。

 しかし、そうは問屋が卸さない。宿題はやらなければならない。キリジョは確か、私立だけあって結構厳しいんだったか。ちゃんと、そういったものを片付けて提出しなければ単位を貰えないらしい。


 俺も、「幼馴染が留年した」なんて聞きたくはないのだ。


 ヒマワリは言われた通り、ケーキを食べた後帰っていった。不承不承といった面持ちではあったけれど。



 §



 新学期当日。


 学校に着いた俺は玄関前に掲示されたクラス表を眺める。自分のクラスを確認し、教室へ向かおうとした時、声をかけられた。


「おっす! ヨウ! ってお前、右腕どうした!?」

「おー、浜口」


 人付き合いの悪い俺と少なからず交流のある、希少な人間の一人だ。


 入学式でひょんなことから友人と呼べる関係になった。

 別のクラスだったもんで、頻繁に話したりはしなかったが、それでも交流は続いていた。そこそこに。


「右腕は、まぁ。色々あってな」

「色々ねぇ。あ、そういや、二年からは同じクラスだな! 一年間よろしく」


 どうやら、二年からはこいつと同じクラスらしい。全然気にしていなかった。


 浜口と他愛もない話をしながら教室へ向かう。

 俺もこいつも、遅刻しないギリギリを狙って登校する男子高校生であるため、必然的に教室に到着してすぐに始業ベルが鳴った。


 新しい教室に入り、僅かにいた顔見知りと軽く挨拶を交わしながら、黒板で指定された席に座る。

 これから、ホームルームをして後で始業式だ。


 チャイムが鳴ったにも関わらず私語でざわついている教室の空気を切り裂くように、ガラリと扉を開け、担任の教師が入ってきた。


「おはようございます。今年からこのクラスの担任になりました」


 メガネをかけた、物静かな女性教師が教卓の奥に立って教室を見回す。担当は国語だ。


 昨年の担任ではないものの、国語の授業で一年間顔を合わせていたので、教室にいる全員が顔を知っている。教師も今更自己紹介は不要だと思っているのだろう。


 挨拶もそこそこに、これからのスケジュールについて話し始める。


 ホームルームの後は始業式。その後、再度ホームルームをし、春休みの宿題を集める。

 その後、最低限決めなければならないものを決め、昼休み。午後からは学力テスト、とのことだ。


 担任の女性教師がぼそぼそとそこまで早口で話してから、一呼吸置く。


「それから、皆さんに今日はちょっとしたお知らせがあります」


 お知らせ、とは一体何なのだろうか。教室が少しだけざわついた。


「入ってきてください」


 教師が扉の方に向かって声をかける。

 教室中の視線がそちらに集まったのが、感覚でわかった。


 扉が開く。


 しとやかな美少女がそこにいた。


 からすの濡羽色と形容しても足りない、つややかな長い黒髪。前髪は眉にかかるくらいで短く切りそろえられており、その下にある双眸は少し垂れた眦が優しげな印象を与えていた。


 小鼻は小さく、それでいてすっと通った鼻筋。鼻の下にある血色が良く薄い唇は、静かな微笑みを浮かべていた。


 次に目を引くのは、冬服の上からでもわかる、女性らしい豊満な曲線美だ。ブレザーの下には、ベージュのカーディガンを着ており、少し重さを感じさせる髪型と相まって、絶妙な調和を生み出している。


 教室の男どもが、鼻息を荒くした。その程度には、やったらめったら美人である。

 一方で、女子たちの視線から感じる温度が少し下がった気もする。気のせいであってくれ。


 しずしずと教卓の隣まで歩いてきた彼女は、にこりと柔らかな微笑みを浮かべて頭を下げた。


「はじめまして、本日から浦園学園に転入することとなりました」


 見た目の甘やかな感じとは裏腹に、ぴしりと一本芯の通った声だった。


 そして、俺はその声に、その顔から感じる面影に、どこかしら懐かしさを感じていた。


 何故だろうか。あそこまでの美人、見かけたら忘れようが……。


 いや、そんなことはない。思い返す。

 俺はずっとユリカさんに夢中だった。


 だから、ただ「美人」というだけで、覚えているとは思えない。


春夏冬あきなしカエデと申します」


 春夏冬あきなしカエデ。名前を聞いて思い出した。俺は知っている。春夏冬カエデという人間を。


 転入生が、ふとこちらを見る。目があった。

 少しだけ驚いたように瞠目した後で、彼女は柔らかく、嬉しそうに微笑んだ。

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