第63話 Arisa's memory
《三人称視点》
――これは、とある少女の記憶。
幼くして両親を失い、別の家族に引き取られ、三年前に新しい家族を失った少女の記憶。
――。
薄暗い部屋の中、少女は1人ベッドの上に転がっていた。
今は、一体何時なんだろうか?
一日中寝間着を着ている少女からすれば、それすらもわからない。
部屋に一つだけある窓の分厚いカーテンを開ければ、きっと昼か夜かくらいはわかるはずだ。
でも、少女は起き上がってそれを確かめる気は起きなかった。
廃人、という言葉はきっと今の彼女のような人物を指すためにあるのではないか?
そう思えるほどに、焦点を結ばない目は酷く虚ろで、手入れすれば月光をも照り返す白銀色の髪は、荒れ放題だった。
まるで抜け殻のようで、どこかに魂を置いてきてしまったような、そんな少女のいる部屋。
そのドアが、不意にコンコンと音を立てた。
少女が僅かに目を向けた先のドアの向こうから、くぐもった呼び声がする。
「亜利沙。起きてるか?」
その声は、乾ききった少女の心に、束の間だけの安心感を与える。
家族を失い続ける少女――息吹亜利沙の側に、たった1人だけ残ってくれた兄。息吹翔。
幼い頃、本当の家族を失ったあと、引き取られた先でできた義理の兄。
よそ者であるという負い目から、どこか妹になりきれなくて遠慮していた亜利沙にいち早く気付き、兄として優しく接してくれた人。
彼のお陰で、最近はようやく本当の家族の仲間入りができたと思えるようになったのに――どうしてそんな矢先、交通事故で両親を失うはめになるのだろう。
怖かった。
知らない土地に引っ越し、会ったこともない叔母と呼ばれる人物の元に来て、ゼロからまた人生を歩まなければいけないことも。
二度も家族を失った自分自身さえ、なんだか疫病神に思えて怖くなってきてしまう。
生きることへの恐怖や諦念が、少女の身体を蝕み、自分の部屋から一歩踏み出すことを許さない。
そんな固く閉じた世界へ唯一アクセスできるのは、彼女の側にたった1人寄り添ってきた翔だけだった。
「……なに、お兄ちゃん」
そんな兄の優しさに、少女は甘えてしまっていた。
生きる気力を失い、部屋に閉じこもる少女へ、いつもかかさず声をかけてくれる兄に。
だからだろうか?
「俺、今日から転校先の中学に行かないといけない」
「っ!」
後頭部をバールで殴られたような衝撃が走る。
普段ならきっと、衝撃なんて受けなかっただろう。しかし、メンタルが摩耗し、兄だけしかすがる光のなかった少女にとって、それは死刑宣告も同じものだった。
「虹ヶ丘中学ってとこ。高校は、一番近いとこで山台しかないからそこになると思う。山台高校の中等部に行くって手もあったけど、やめとく。虹ヶ丘の方が家から近いし――」
ぐわんぐわんと揺れる思考の中で、何やら兄の声が聞こえる。
あまりの衝撃で、理解が追いつかない。
寄りかかっていた壁が何の抵抗もなくいきなり消え去ったような、母親に連れられて行った遊園地で、いつの間にかはぐれてしまったような、そんな喪失感が少女の胸に迫る。
「……どうして? どうして、行っちゃうの?」
「……」
兄は、妹の我が儘な質問に押し黙る。
しばらくの後、兄は絞り出すように行った。
「……ごめん」
その一言を言うために、一体どれほどの覚悟が必要だっただろう。
本当は、翔とて妹の側にいてやりたいと心から思っていた。
しかし、それではだめなのだ。
このままぐずぐず引きずったところで、亜利沙の心は晴れないままに落ちていく。
傷をそっと舐めて、治すフリして実は毒も一緒にすり込んでいましたなんて展開になるのは良くない。
本当にまた日の光の下を歩いて欲しいならば、何かを変えなければ始まらない。
だから翔は、歯を食いしばって妹の懇願を阻むのだ。
「私……お兄ちゃんに、いてほしい」
「うん、わかってる」
「でも……学校に一緒に行くのは、嫌」
「……ああ」
妹の我が儘を聞き、兄はそれを受け入れるように言った。
「別に、いいんじゃないか?」
「……え」
その言葉は、亜利沙にとって驚くべきものだった。
見捨てたから、突き放すために話しかけてきたんじゃなかったのか?
「別に俺は、亜利沙がどんな選択をしたっていいと思う。ただ、選択をした後に、最後の最後、お前が心の底から笑うことのできる人生になるなら」
「……」
「だから、俺はそれを支えるために、全力を尽くすよ」
それっきりだった。
兄の声は、途絶えた。
しばし、亜利沙は考え込んでいた。
兄は、妹の我が儘を肯定した。
でも、同時に試された。
――『最後に笑える選択を』――
その内容が、頭の中で何度も何度も再生される。
(私……幸せになれるのかな?)
仮に幸せを掴めるとして、本当にそれは、今の自分の行く先にあるのだろうか?
幸せとは、掴もうと望み、努力する者の元にしか舞い込んでこない。
今の自分は、幸せを掴もうと努力しているのか? ただ、ベッドの上で現実逃避しているだけじゃなかろうか?
「っ! お兄ちゃん」
少女は、ドアを開けて外へ出ていた。
何を伝えようか、何も思いつかぬまま。
急に明るくなった視界に目を細める。学校へ行く、と言っていたから今は朝なんだと気付く。
――兄は、もうどこにもいなかった。
きっと、あの言葉を最後に学校へ行ったのだ。叔母さんとかいう人も、もう仕事に出ている頃だ。
――置いていかれた。
ただ1人、引き篭もりの少女は静かな朝に取り残された。
そんな風に思い、思わず足が竦んでしまう亜利沙。が、そのとき。彼女の視界の端にあるものが映る。
リビングのテーブル。
そこに置かれていたのは、ラップを掛けられた野菜炒めとトーストだった。
下手クソだった。
野菜は大雑把に切っていて、半生と火を通しすぎた部分が混在しているし、トーストなんて半分真っ黒だ。
叔母さんは別に料理とか下手じゃないから、一目で兄が作ったものだとわかる。
しかも、すぐそばには置き手紙で「食って寝ると牛になるぞ」と書かれている。
こんなんで怯えて、引き篭もりを脱せられるなら、苦労はしないというのに。
「クスッ、変なの。料理なんて、やったことないくせに」
少し心に余裕が出てくると、なんとなく頭も回るようになってくる。
「私になんか構って、なんの得があるんだって話だよね。お兄ちゃんだって、辛いはずなのに」
そう。
辛いのは、亜利沙だけではない。
当たり前の日常が崩壊し、見知らぬ土地でまた1から始めることになった兄も、不安でいっぱいなのだ。
それでも、兄は妹の手本となろうとした。
辛さを乗り越えようとあがき、妹の前ではカッコ悪い姿を見せられないと奮い立ち、新たな生活に足を踏み入れた。
その上で、高校入試がない分楽になる山台高校の付属に行くのではなく、もっと家に近い虹ヶ丘を選んだ。少しでも、妹の側にいるために。
「ほんと、おせっかいなんだから」
亜利沙は、黒焦げのトーストに口を付ける。
苦い。マジで苦い。
「今度から、料理は私が作らないとダメそうだな」
苦笑いしつつ、少女はそう思った。
――。
じりりりりりりり。
けたたましい目覚ましの音に、亜利沙は目覚める。
「ふぁぁ~……今何時」
目を擦りながら外を見ると、とっくに明るくなっている。
時計は、朝の九時半を回っていた。マズい、我が家のコックでデキる妹たる自分にはあるまじき失態だ。ゴールデンウィークで休みが続いたせいで気が緩んだらしい。
「そういえば、久々にあの夢を見たかも」
すっかり高く昇った太陽の差し込む室内で着替えながら、そんなことを考える。
あのときから、彼女は義理の兄を好きになった気がする。いや、元々大好きだったけど、その……乙女的な意味で。
ゴールデンウィークも、明日で最終日。
禁断の恋に目覚めてしまった少女、息吹亜利沙の一日が今日も始まる。
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