後編

 何か、重いものが僕の上に載っている感触がして、息苦しくて目が覚めた。暗くてよく見えなくて、それでまだ今が夜であることが分かった。いつもの夢も明け方だから、こんな時間に起きたのは久々だな、と思った。そう、あれは確か、中学三年の。

 

 ちょうどこんな、修学旅行から帰った日の夜のことだった。

 上を見る。姉が僕にのしかかり、僕の首を絞めていた。あのいつも僕の頭をなでる暖かい手が、今は首の周りを取り囲んでいた。優しい微笑みは歪んで、ひきつった口の端から言葉がこぼれていた。ねえ。姉が言った。わたしを、置いて行かないで。僕はふと思い出した。そういえば僕は、一人っ子だった。

 姉は、この人は。いったい、どこの誰なのだろうか。もしくは、何、なのだろうか。

 

 姉に足音はない。ぎいぎいと音が鳴るはずの床を、滑るように移動する。僕は耳がいいはずなのに、姉が後ろに立っている時一度も気づけた試しがない。

 姉は食事をとらない。食卓に姉の椅子はない。お饅頭も生八つ橋も、僕と両親と祖母の四人分だ。

 家族が、姉の話をしているのを見たことがない。居間に飾られた写真に姉は写っていない。

 なぜ、姉は夜しかいないのだろう。働いているのだろうか。職業を聞いたことがない。そもそも年齢さえも知らない。何より奇妙なのは。


 僕が今日にいたるまで、その一切を全く不思議に思わなかったことだった。


 幽霊かなんかに呪われてるんじゃないか。友人の言葉が思い出された。幽霊。誰が。姉が? まさか。笑い飛ばしてやりたかった。しかし、姉の手は首を容赦なく締め付け、僕の体は姉に押さえつけられているので、笑うどころかほんの少しも抵抗ができない。

 なあ、高校生の男だぞ僕は。なんで自分よりずっと柔らかくて細い姉に……そう思いながらも全く身体は起き上がらなかった。

 

 いよいよ意識が飛びそうになったころ、誰かの声がした。


「孫に」


 姉の手が少し緩んだ。僕は勢いよくせき込む。息ができるようになり、必死に呼吸を整えた。


「孫に手を出すんじゃないって、あたしは二年前に言ったはずだよ」


 祖母の声だった。見ると、廊下で、杖に縋るようにして祖母が立っていた。その顔色は悪く、足は震えていた。

 「お前に何ができるんだ?」

そう言って、姉が笑った。いつもとは違う笑い方だった。それがとても恐ろしくて、僕は、ひ、と小さく悲鳴を上げた。姉はその声で僕のほうへ振り向いた。僕の表情を見て、姉は悲し気に眉を下げた。


 ごめん。怖がらせるつもりはなかったんだ。僕の首を絞めていたくせに、姉はそんなことを言った。


「ねえ、わたしのこと置いて行かないって約束して。そうしたら、もう何もしないから」


 誰がするか。僕は思った。姉がいくら優しかろうが、祖母がいなければ、僕は、きっと。そもそも、あの悪夢の原因が姉であったとわかった今、優しいも何もなかった。明け方の一幕なんて、ただの茶番でしかなかった。


 しかし、僕は首を縦に振った。断ったら、何をされるか。それに、今は僕だけじゃなく祖母もいるのだ。もし祖母に危害を加えられたら、そう思うだけで身が竦んだ。だから僕は、祖母が必死に止めているのを聞こえていないふりをして、姉の小指に、僕の小指を絡めた。

 



 

 暗転。

 



 

 目が覚めると、朝七時のアラームが鳴っていた。ついに僕は家で夢を見ず眠ることに成功したんだ! これでもう姉さんの手を煩わせずに済む。そこで、あれ、と僕は首を傾げた。今何か、頭の隅で何かがかすめたような。しかしそんな考えは、鏡を見たことで吹き飛んだ。

 僕の首に、赤黒い手跡のようなものがついていた。僕は怖くて、思わず大きな悲鳴を上げた。するとすぐに姉が部屋に入ってきた。


「どうしたの、大丈夫?」


 結局姉に頼ってしまったことに情けなさを感じつつ、僕は首の手跡について相談した。姉が傷跡をなぞる。

 その瞬間、なぜか体が強張って、僕は姉を突き飛ばしかけた。姉が眼を見開く。その瞬間、


「どうして」


 声にならない声が聞こえた気がして、とたんに先程の予感などどこかに消えた。僕は姉をきつく抱きしめた。姉は僕を心配してくれたのに、さっきのはいったい何だったのだろう。

 姉が僕の頭をなでた。いつもの暖かい手だった。

 

 あの後、姉に謝ると、姉は気にしていないと微笑んで、僕の心配をしてくれた。


「これからは一緒に寝たほうがいいんじゃないかな。首の跡はいつ付いたか分からないんでしょう?」


 高校生にもなって、だとか、せっかく夢を見なくなったのに、だとか、いろいろと反論は思い浮かんだけれど、それよりも姉の心遣いが嬉しく、僕はつい頷いてしまった。姉はなぜかひどく嬉しそうに微笑んだ。

 

 姉と二人、食卓まで向かう。食卓の椅子は五つ。僕と、両親と、祖母と、それから姉の分だ。姉は仕事が忙しく、帰りが遅い日もあるが、基本的には僕たちと一緒に食卓を囲んでいる。

 食卓では、すでに僕と姉以外全員座っていた。僕たちを見て、何か言いたげに口を開けるのに、しかしそのまま閉じる。表情は硬かった。どうしたのだろうか。不安に思って兄を見ると、姉は安心させるように微笑んだ。


「きっとちょっと疲れてるんじゃない?昨日、遅くまで飲んでいたみたいだから。ねえ、そうでしょ?」


 途中からは家族のほうを見て言った。なんだ、そうだったのか。しかし、何かが引っ掛かった。あれ、だって、昨日は。


「さ、食べよう。冷めちゃうよ」


 僕の思考は、姉の言葉で中断された。もう何を考えていたか思い出せないし、きっと大したことじゃなかったのだろう。


 それより今は朝食のほうが大事だ、と僕は慌てて食卓に着いた。

                                                    おしまい

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