僕と姉……あれ?

佐藤塩田

前編

 毎日、夜が明けるほんの少し前、僕は決まって同じ夢を見る。首を真綿で締め上げられているような、そんな夢だ。酸欠でふわふわする頭で、なにかの言葉を聞く。なにかの、誰かの。何を言っていたかは覚えていない。いつものことだ。目を覚ます直前まで聞いていたはずなのに、いよいよ本当に息苦しくなって瞼を開ければ、まるで逃げ水のように姿を消す。

 そしてその代わり、姉が僕の頭を抱え、なでているのだ。姉は、いつも僕に優しい。僕が怖い夢を見ているのを知っているから、わざわざ明け方に起きてまで、僕を安心させるためにそうしてくれているのだろう。姉の暖かい手と柔らかな微笑みは、僕をいつも落ち着かせた。それからやっと、僕はもう一度眠りにつけるのだ。

 そう話すと、友人は顔をひきつらせた。


「高校生にもなって、姉弟で抱きしめあって寝るって?有り得ない」


別に抱きしめあってはいないし、一緒に寝てもいない。ただ少し頭をなでられているだけだ。それでも友人に言わせると、それは有り得ないらしかった。


「俺にも妹はいるけど、さすがにそこまではしない」


友人はそう言い、というか、と続けた。


「そもそもお前何でそんな夢見てるんだ。幽霊かなんかに呪われてるんじゃないか?」


否定しようと思ったが、確かにこんなことはそうでもないと起きないかもしれない。僕は黙って、何か思い当たる節がないか、帰るまでずっと考えていた。

 

 家に帰り、姉に話してみようと思ったが、姉が夜までいないことを思い出した。常日頃からそうなのに、うっかりしていた。おとなしく宿題を済ませ、姉を待った。

その間、僕はぼんやりと考えごとをした。明日は何の授業があっただろうかとか、姉と寝るのはもうやめたほうがいいのかとか。そもそも、なんで僕はあの夢を見ているのだろうか。一回ならまだしも、僕はそれをずっと……あれ。

 ずっとって、いつからだ。いつから、僕はあの夢を見始めたのだったか。

とん。肩を叩かれた。振り返る。姉が後ろに立っていた。僕は驚いて小さく悲鳴を上げた。

「ごめんごめん」

姉が言った。ただいま。おかえり、と僕は返した。姉と僕は笑いあった。

 

 僕は姉に、今日起きたことについて相談した。もう頭をなでてもらうのはやめたほうがいいのだろうか。姉は、気にしないでいいよと言った。

「それに、まだ怖い夢を見るんでしょう? 明け方、一人でいられるの?」

 到底無理だと僕は思った。ああ、でも。来週、修学旅行があった。僕はその時は一人で起きなきゃならない。そう姉に告げると、姉は「またなの」と呟いた。

 また? ああ、そう言えば中学の時も修学旅行があったっけ。あの時は、たしか。思い出す前に、姉が気を取り直したように、それより今日はどうだった、と聞いてきたので、僕は考えていたことを忘れてしまった。



 翌日、僕は荷造りをしていた。僕としてはあまり修学旅行に行きたくないのもあり、まだ大丈夫だと言ったのだが、母に早く準備をしておけと叱られてしまったせいだ。仕方なく僕はリュックを探し出し、荷物を詰めた。

 一仕事終え、僕は台所へと向かった。何か甘いものでも食べて休憩したい気分だった。戸棚を覗くと、お饅頭の箱が見えた。お饅頭は四個入りで、ちょうど一人一つのようだった。このお饅頭は僕が子供のころから好きなものだった。喜びをかみしめながら箱を取り出し、台所のすぐ近くにある居間に持って行った。


 すると、自然と壁に貼ってある写真が目についた。入学式や卒業式、旅行、父母や祖父母の結婚式、生まれたばかりの僕。きっと修学旅行中の写真も、もうすぐここに加わるだろう。どこで写真を撮ろうか、そう考えれば、嫌だった修学旅行もなんだか楽しみなものに思えてきて、僕は自分の変わり身の早さに苦笑しながらお饅頭を頬張った。それから二週間たって、僕は京都に来ていた。結局僕はどこで写真を撮るか決められず何枚も写真を撮った。家に帰ってから決めよう、と思った。

 旅館に到着し、友人たち数人と一部屋に放り込まれ、なんやかんやと騒いでいると、あっという間に夜になった。

「なあ、お前ひとりで大丈夫なのか?」

前に例の夢の話をした友人が、僕に小声で問いかけた。まったく彼はいいやつだ。大丈夫かと聞かれると、無理だとしか返せなかった。しかし友人相手には妙なプライドが邪魔をして、僕はそうとは言えなかった。

 消灯時間になって、布団にもぐった。大丈夫。所詮は夢だ。自分に言い聞かせながら、瞼を閉じた。

 はたして、夢は見なかった。翌朝、僕はすっきりと7時のアラームで目を覚ました。何かの間違いだと思ったが、何度時計を確認しても、窓の外を見ても結果は同じで、僕は小さく快哉を叫んだ。


 

 明くる日も、その次の日も。僕は全く夢を見ることなく、さわやかな心地で目を覚ました。なんだ、一人でも寝られるじゃないか。今まで姉にいらぬ迷惑をかけていたことを申し訳なく思ったが、それよりもやっと悪夢を見なくなったことへの喜びが強かった。弾むような気持ちのまま、僕は家に帰った。


「お帰り」


家族の声が揃って響いた。家には、姉以外が勢ぞろいしていた。食卓の席が全部埋まるのを見るのは久しぶりだと僕は思った。お土産の生八つ橋は十二個入にしたので、余ることなく食べられるだろう。祖母は八つ橋が好きなのだが、入れ歯で八つ橋は食べられないだろうから、柔らかい生八つ橋にしたのだ。

 それにしても、母と祖母はともかく、いつも遅い父までが揃っているのは珍しい。今日は定時で帰れたようで、僕は少し安心した。


「修学旅行はどうだった?」


母が僕に聞いた。それがとても楽しかったのだ、と僕は答えた。明け方に悪夢を見ずに済んだんだよ。環境が変わったのが良かったのかもしれない。そこで母が、あら、と声を上げた。


「あんた、悪夢なんて見てたの」


母は知らなかったらしい。眠りが深いからだろうか。反対に父は知っていた。


「そういえば、明け方に何か寝言を言っていたなあ」


父は残業で深夜に帰ることも多い。そのせいで知っていたのだろう。祖母はどうだろう。最近、やたら早く起きてしまうという祖母も、明け方にはもう起きているはずだ。そう思って祖母のほうを見ると、祖母の手が震えているように見えた。ばあちゃん? 僕が呼びかけると、祖母ははっとしたように、


「いや、私も知らなかったねえ」


と言った。確かに、祖母と僕の部屋は遠い。知らないのも無理はない気がする。しかし、いつもシャキシャキとした祖母にしては、答えるまでが長かった。それがなぜだか、妙に引っ掛かった。


 

 食事と風呂を済ませ、僕は自分の部屋に向かった。僕の家は数十年前に建てられた木造建築で、床を歩くとぎいぎいと音が鳴る。小さい頃はそれが怖くて、いつも母や姉にくっついていた。


 部屋に入って、寝支度をした。今日も姉は遅いのだろうか。できれば眠る前に会って、一人でも大丈夫だったと、もう悪夢を見ずに眠れると報告しておきたかったのだが。しかし十二時を回っても姉は帰ってこず、僕はあきらめて眠ろうとした。

 そのとき、とん、と肩を叩かれた。僕が肩を跳ね上げ振り向くと、後ろに姉が立っていた。

「ただいま」姉が言った。前にもこんなことがあった気がする。僕がそう言うと、姉はまた、ごめんごめんと返した。

 

 ところで、と姉が言った。

「おかえり、修学旅行はどうだった?」

僕はそれに、僕がまだ姉におかえり、とも言っていないことを思い出して、慌てて挨拶を二つ分返した。それから、僕がもう一人でも起きられるようになったこと、だから明け方にわざわざ来てもらわなくても大丈夫だということ、それと、今まで来てくれたことへの感謝を伝えた。姉は驚いた顔をして、それから僕に笑顔でおめでとう、よかったねと言ってくれた。

 

 そのあと僕は姉と別れ、部屋で一人布団を被った。明日の快い目覚めを期待しながら、僕の意識は落ちていった。

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