心に在り続けた『星』

 そこで、ヨルの表情に翳りが生じる。


「でも『魔女』は執念深かった。頑張って隠していたけど、結局捕捉されてしまった」


 セイの脳裏に、世界を砕きながら侵入してきた蠢く影が蘇る。

 暗い澱みに浮き上がった顔は……間違いなく、セイ達の母のものだった。


「あれは、お母さんなの……?」

「あれは……『魔女』は、お母さんであり、それ以外でもある」


 震える声で何とか問いを口にしたセイへと、ヨルは難しい表情を浮かべながら言い淀んだ。

 明言することを避けているという風ではなくて、彼も純粋にそう言い切る足る状態ではないようだ。

 ヨルは何かを思い出すような表情をしながら、瞳を伏せる。


「人のココロを喰らう悪意の集合体、って時見さんは言っていた。『魔女』にココロを喰われたものは、何れ同じ『魔女』になってあの一部になってしまうって」


 あれは、母でもあり、それ以外でもあるもの。人のココロを喰らう悪意が集い形を為した恐ろしいもの。

 かつて『魔女』にココロを喰われ踏みにじられ。そして、自身も同じ『魔女』へと転じてしまった囚われ人の成れの果てであるらしい。

 一つ深い溜息を吐くと、ヨルは複雑な声音で続ける。


「お母さんも、かつて『魔女』にココロを喰われてしまったんだ。そして、同じものになった」


 あ、とセイは思わず小さく声をあげてしまう。

 以前聞いた話を思い出したのだ。

 祖父は安定した勤め人の生活を捨てて職人になり、あの場所に工房を開いたという。

 市内でも一流とされる企業に努めていた夫を持つことを人に羨まれていた祖母は、騙されたとでも言わんばかりの怒り方だったらしい。

 だが世間体故に離婚もできず、その代わりに上の娘の教育に熱を注ぐようになった。

 いい学校にいき、堅実ないい仕事につき、親を支えていくのが娘の正しい在り方であると。

 祖父に対する負の感情に急き立てられるように世間体と安定を求めた祖母によって、母はとにかく『正しく』あるように育てられた。

 余と同じように「ついでの子」として生まれ、母親から省みられることのなかったという叔母が、そう話していた。

祖母に忠実に『正しく』長じた母は自身も母となり、そして。

 『魔女』に喰われた囚われ人は確かに、新たな『魔女』となってしまったのだ……。


「一度取り込まれてしまったら、もう戻れない。……だから、お母さんはもう」


 そこで途切れた言葉の先を、セイは敢えて聞かなかった。

 ヨルが何を言おうとしているのか分かっていたから。

 もう、変わらないのだと――変われないのだと。

 哀しみがあった。悔いがあった。

 けれど今、それ以上に胸をしめるのは、自分に対する形容しがたい怒りだった。


「何で、ヨルが、そんな怖い思いとか。大変な思いを、して」


 気が付いた時には、セイの口から低い呻き声のような呟きが零れ落ちていた。

 ヨルとつつじが弾かれたようにセイへと視線を向ける。

 二つの眼差しを受けながら、堰を切ったように次から次へとセイの心は雫となって瞳から溢れ、伝い落ちていく。


「私なんか、そんなにしてまで、助ける価値なかったのに」

「セイちゃん!」


 咎めるような響きがあるヨルの声に被せるように、セイは涙声で叫ぶ。


「だって! ヨルが、元の姿になれなかったのも。仮面だったのも、私のせいでもあったのに!」


 自分を守るためにヨルの死を忘れて、無かったことにしたのは確かに母だった。

 けれど、セイもまたその母を守るために、呪いという毒を受け入れ続けて忘れてしまっていた。

 記憶を箱に封じて、鍵をかけてしまっていた。


「私だって、忘れていたのに! ヨルのこと、忘れてしまっていたのに……!」


 ヨルが『誰でもない存在』となった原因は、間違いなくセイにもあったのに。

 そこまで必死に、彼に守られる資格なんてセイにはなかったのに。

 そればかりじゃないと、セイはつつじを見つめる。


「つつじのことだって、私は守れなかったのに……!」


 つつじが、悲しげにセイを見つめている。

 つつじはもう喋らない。だって、元々そう在る子だったのだから。

 本当は今見ている姿よりももっと小さくて、弱弱しく震えていたのだから……。

 セイは、つつじのことも思い出していた。

 あの日、ツツジの花の影で泣いていた小さな子猫。

 助けてあげたくて必死に連れて帰ったけれど、兄の勉強の妨げになると母に家を追い出され。

 ただ最期を見守るしかできなかった……結局助けられなかった、あの時子猫だ。


「何もできなくて……恨まれたって、仕方ないのに……」

「つつじは、セイちゃんを恨んだりしていないよ」


 そんなことを言ったらむしろ怒られるよ? と首を傾げてヨルがつつじを見ると、つつじがそれに答えるように元気に鳴く。

 言葉に出来ずとも、必死に訴えるように鳴き続けるつつじを見て、セイの脳裏にある言葉が蘇る。 


 ――『わたしは、助けてもらえたんだから』


 あの日、ツツジの花影の子猫の話をした時のつつじの言葉だ。

 助けてもらえた、と彼女は言ってくれていた。

 もう人の言葉としては伝わってこないけれど、一生懸命な鳴き声がセイの裡に響く。

 あなたがいてくれたから、わたしは寂しく逝かずに済んだの。だから、そんなことを言わないで。

 溢れる涙でぼんやりとなりかけた視界の中で、つつじが真っ直ぐにこちらを見てくれているのが分かる。

 そんなつつじを抱きかかえながら、ヨルは静かに微笑みながら語り掛けてくる。


「セイちゃんは、僕を忘れてなんかいなかったよ。だって、君は星を作ってくれていたじゃないか」


 セイは、弾かれたようにヨルを見る。

 こちらを見つめているヨルの瞳には、慈しむような喜びの光があった。

 そう、セイは星を作り続けていた――ヨルが大好きな星を。

 硝子職人として作品を作る時、セイはいつも星をモチーフにしていた。

 何故かはわからないけれど、作りたかった。

 気が付けば、彼女の手から星は幾つも紡がれ、生み出され続けていた。

 心の奥にある何かを灯し続けたいという、自分ですらわからない無意識の願いを込めて。幾つも、幾つも……。


「セイちゃんは……心の奥では覚えてくれていたから、君は星を作り続けていたんだ」


 星が好きで、本当は星を研究する学者になりたかったヨル。

 星は、セイにとって二人の時間を象徴するものであり、また兄を象徴するものでもあった。

 泣きじゃくる妹の手をしっかりと握りしめながら、兄は嬉しそうに告げた。


「君は、一緒に見上げた星空を、心に守り続けてくれていたんだよ」


 母親に隠れてベランダで、肩を寄せ合って見た夜空。

 静けさを湛えた黒を背景に瞬く星を、二人並んでいつも見上げていた。

 ヨルの思い出を固く箱に封じて心の奥底に沈めても、箱の中にある大切なものを思う気持ちだけは緩やかに、静かに浮かび上がってきていた。

 忘れたくないという想いが、箱の底にある希望を静かに拾い上げていた。

 想いが、彼女に星を紡がせ続けていた――。


「僕は、セイちゃんが居てくれたから、僕で居られたんだ」


 手に伝わる温もりと、見つめる二つの優しい眼差しに、少しずつセイの涙の意味が変わり始めていた。

 泣き虫なのは変わらないね、と少しだけ苦笑しながら、ヨルは語り続ける。

 セイの心にいつも灯りをくれた少年と、まったく変わらない笑顔を見せながら。


「僕は君が居てくれたからこそ、お兄ちゃんになれた。君が居てくれたから、ココロを食われずに済んだ」


 少年は『愛情』を名目として『魔女』に囚われて。『期待』という名の枷で繋がれ、ココロを食われかけていた。

 もう全てを投げ出してしまいたい。先を夢見ることを諦めてしまいたいと思ったことは何度もあった。

 でも、その都度それを留めてくれたのは、彼の手を求めてくれる小さな妹だった。

 妹の手の温かさは、暗闇に閉ざされかけた世界に確かに導きをくれたのだと、ヨルは語る。


「セイちゃんが、僕を照らしてくれていたんだ。言っただろう? セイちゃんは、お星さまだって」


 ヨルがセイのことをお星さまだと言ってくれた、あの時を思い出していた。

 大好きな星の名をくれたことが嬉しくて、少し照れくさくて。

 彼がくれた二人だけの新しい呼び名は、たまらなく温かかった。

 セイはヨルを想い、星を紡ぎ続けていた。

 確かに、星は夜と共に在った。

 心の奥底に、誰にも触れられないように大切に、大切に隠しながら。


「セイちゃんは、確かに僕たちを守ってくれたよ」


 つつじが、同意するように可愛らしく鳴いた。

 セイは確かに心に秘めながら、想い続けていた。

 自分でも気づけないぐらい、細く儚い希望を抱き続けていた。

 星を守るようにしてある夜空と、元気づけるように咲くツツジの花は、確かにセイと共に在り続けたのだと。

 ヨルとつつじは、優しい眼差しでそう言いながら、微笑んでくれている……。


「工房での日々は夢のように楽しくて、このままずっと続いて欲しいと思ったことが何度もある」


 ヨルは、万感の思いを込めた声音で語る。

 好きな趣味に熱中するあまりいつも寝坊するセイを、ヨルとつつじが叩き起こす朝から始まって。

 作品作りに取り組むセイの周りに、いつも優しい笑顔があって、楽しそうな声が響いている。

 どれだけこの夢こそ現で在れと願っただろう、とヨルは呟いた。

 それはセイも同じだった。

 セイの望んだ幸せな『もしも』の自分と、大切なヨルとつつじが居て。

 時々楽しいお客様が尋ねてくる、平穏で温かな日々。

 あれこそが現実であってくれればと今でも思ってしまう、幸せな時間だった。

 けれど。


「でも……現実の君の身体は、確実に死に向かっていた」


 今ならわかる。

 幾度か感じた異様な音や感覚は、現実のセイの身体が置かれている環境だ。

 セイはヨルのことを思い出したあの夜、事故にあった。

 セイの身体は今も尚、病院にて治療を受けているのだろう。

 懸命な治療を受けて命は保たれているけれど、それも限界を迎えつつあるのだ。

 彼女に生じつつある変化は容赦なく箱庭のセイに重なり、ゆるやかに迎えつつある『現実』へと引きずりかけていた。

 多分このまま身体に戻らなければ……セイは遠からず本当に死んでしまうのだろう。

 何かを耐えるように一度唇を引き結んで俯いたヨルは、やがて意を決したように顔をあげる。


「だから、戻さなければと思った。君が生きていく本当の場所へ。だから……僕は『星』を作って欲しいと願ったんだ」

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