『正しい』
『余ちゃんは、お母さん思いの良い子ね』
余は、よく『良い子』と言われた。
事情を知る人々は、お母さんは可哀そうな人だから、余ちゃんが気遣ってあげなければ駄目よ、と。
訳知り顔で同情を込めて言われた言葉が、身体に絡みついて、重くて。
息がうまく出来なくて苦しいのに、何故か気づけば余は笑顔を浮かべていた。
母は、ひたすらに娘の教育に打ち込み続けた。
生活の全ては、母の管理下にあった。
一年のうちの決まった日に必ずどこかへ出かけていく父を不思議に思いながら、余は母の言う事を聞き続けた。
漫画は、下らない娯楽として手にとる事すら禁じられた。
本は、母が選んだ推薦図書だけが許された。
ゲームは、勉強の妨げでしかないと興味を抱く事すら罪とされた。
動画は、こっそり見ているだけで時間を無駄にして、と殴られた。
食べるものも厳しく管理されて、太ったらみっともないからと甘いものも遠ざけられた。
学校でも話題に乗れない事が多いのが災いして、友達らしい友達を作れなかった。
楽しそうに話している級友たちを視界の端に捉えながら、言いつけ通りに寄り道せずに帰宅した。
母は、それが正しい子供の姿だと事あるごとに余に囁いていた。
うるさく言うのも、全て貴方の為だと。
母親は色んなものを我慢して、身を尽くして娘を育てる。
だから、娘はけして口答えをすることなく、頑張って期待に添わなければいけない。
そして、大人になったら母親が尽くした分を返す為に、一生懸命に働いて母親に楽をさせてあげなければならない。
それが『正しい』在り方なのだ。
余は、まるで一つの仕草しかできないからくりの人形のように「はい、お母さん」と言って錆びついた音を立てて頷き続けた。
ただ、母の言う通りに。
望まれる通りの良い子であるように。
それだけが、余の世界を支配する唯一の理であり『正しい』ものになっていた。
余はいつしか疑うことも、自分で考えることもなくなっていた。
ご飯は食べさせてもらえます。
ちゃんとした服も着せてもらえます。
ちゃんとしたお家に済ませてもらっています。
お母さんは、私を大事に、大事に育ててくれているのです。
だから、感謝しなくてはいけません。
いつか恩返しできるように、一生懸命頑張らなければいけません。
だって、それが示された唯一の「正しい」だから。
そうでなければ、愛してもらえないから。
「正しい」良い子でなければ、お母さんは殴るから、抱き締めてくれないから。
必要とされるものに、なれないから……。
お父さんは、私を見ると辛い顔をして、すぐに見ない振り。
お母さんが必要としてくれなかったら、もう誰も私を必要としてくれないから。
ここに居てもいいよと言ってくれないから。
だって、もう誰もいないのだから……。
余は、母の望む通りに中学を受験して。卒業後は、大学進学を見据えてカトリック系の私立女子校の進学コースへ入学した。
三年間、部活動にも入らず……許されず。ただ、何れ来る大学入試に備え続けた。
けれど、母の望む国家資格の取れる進路は余には向いていなくて。
上澄みを集めたような優秀な生徒の中では思うような結果を出せなくて。結果として、母の望む大学からランクを下げざるを得なかった。
あの時、母はこの世の終わりのように嘆いた。
そして、大学は仕方ないけれど、就職は必ず期待に応えて頂戴と溜息と共に告げた。
大学在学時の事は、正直、あまりよく覚えていない。
楽しいと思っていたのか、そうでなかったのかも。
起きた出来事は思い出すことができても、伴う感情の記憶は一切思い出せない。
ただ、何れ来る就職で良い結果をだすことだけを考え続けた四年間だった気がする。
それ以外を考えることを許されなかった、それに関係ないことを全て排除された日々であった気がする。
就職を見据えるにあたり、自分が将来何を目指したいかを考えた時。
何になりたいのかと問われた時、ふと浮かんだのは祖父のことだった。
中学に入る前までは、余は祖父の近くにて暮らしていた。
受験に合わせて、こんな何も無い場所ではまともに教育を受けさせられない、と母が引っ越しを強行したのだ。
それ以来、時節の折に触れてしか祖父の顔をみることができなくなっていた。
魔法のように美しいステンドグラスを作り上げる祖父の姿を思い出し、叶うならば、と思ったけれど。
それを口にした途端、飛んできたのは母の平手だった。
『硝子職人になんて、なれるわけがないでしょう!』
余が思わず息を飲んで震えあがる程の剣幕で、母は矢継ぎ早に怒鳴り続けている。
何かを訴えたくて顔をあげたけれど、そのまま足蹴にされ、起き上がることすら出来ない。
ヒステリックな叫び声は、鋭利な破片となって余に降り注ぎ、傷つけ続ける。
『絶対に認めません! 貴方は安定した堅実な職について、家を助けるの! 私が大変なのは知っているでしょう!』
余が一言でも発しようとすると、更なる平手や足が飛んでくる。
知っている。
母がいつも言っているから。
父が先見の明がないせいで、収入が少ないから苦労している。
そんな中で進学をさせてあげるのだから、感謝して欲しい。
貴方を進学させるのに、私は身を粉にしなければいけないんだから。
いつもいつも、母はそう余の隣で呟き続けていた。
大仰に溜息をついた母は、眦を吊り上げて再び叫ぶ。
『お父さんのせいよ! 私に散々迷惑をかけた上に、余におかしな影響まで与えて!』
祖母については、以前叔母から聞いたことがあった。
脳裏に苦々しい表情で語っていた叔母の顔を思い出していた余に、更なる言葉の刃が浴びせられる。
『そんな馬鹿なことを言う子には、今後学費も生活費も一切出さないから! 今まで貴方にかかった分を親に全部返したうえで家を出ていきなさい!』
母親が労力をかけて子供を育てるのが当たり前と思うな。
私の望む路以外には進ませない。
母はそう声の限りに叫び終えると、怒りに燃える目で余を睨みつけた。
逆らえない。逆らってはいけない。
それを、考えることすらしてはいけない。
許されない。
心の中には熾火のような想いがあるけれど、必死にそれを打ち消そうとする。
だって、それを言えば私は世界から否定されてしまう。
『ごめんなさい、馬鹿なことをいいました。もうそんな事考えません』
平伏しながら、震える声で絞り出すように謝罪を口にする。
お母さんの言う通りにします。お母さんが望んでくれた道に進みます。
身体の全てを振るわせながら詫びていると、何かが動く気配がして。
恐る恐る身体を起こすと、そこには不自然な程優しい笑みを浮かべた母がしゃがみこんでいた。
『驚かせるようなことを言わないで頂戴。あなたは私の大事な一人娘なんだから』
母は余を抱き締めると、苦笑交じりに言った。
手が触れた部分から、少しずつ自分の中に暗いものが沁み込んでいくような心地がするのに、振り払えない。
逆らえない、踏み出せない、弱虫。
自分を責める声は、暗いものに絡めとられて固まって、心の底に沈んで行った……。
母が最初に思い描いたものとは違うけれど、やがて余は世間的には堅実とされる勤めに就いた。
自分が本当にそれを望んでいたのかはわからない。
母は、喜んでくれていた。だから、良い選択をしたのだと思っていた。
気を許せる同僚もないまま、必死に勤め先と家を往復するだけの日々だった。
それでも、働いて家計を助け、母に安楽に過ごしてもらうことを第一に思い続けた。
母は、いつも笑いながら言っていた。
自分は娘を育てる為に全て我慢して、必死に尽くして、お金も手間もかけてきた。
だから、これからはお貴方が働いて家を助けて、楽をさせてくれるのは当然だと。
それが『正しい』のだと、満足そうだった。
母は、ずっと余の側に居た。
大人になっていくにつれ、余が担う役割は増えていった。
『ひどいことを言われたのよ! 私は何も悪くないのに!』
『お母さんは何も悪くないのに……。その人たち、お母さんのこと何もわかってない』
役割一つ目。
母の、父への愚痴や、周囲の人間からの『悪意』や『無理解』を嘆くのを聞いて慰めること。
お母さんは何も悪くない、頑張っているよ、と望む答えを返さなければならない。
母が立ち直るまで、付き合わなければならない。
『この子を進学させるのは本当に大変でした。でもこの通り、何とかなってくれて』
『全部、お母さんのおかげです。お母さんが助けてくれたから』
役割二つ目。
孝行娘として、人々が母を讃える為の材料にならなければなること。
人々は大変なのにいつも娘を支え続けたと、母を褒め称えていた。
今の自分があるのは母のおかげだと、笑顔で謙遜しつつ、母を持ち上げなければならない。
役割三つ目。
お母さんが困っているなら、自分を削ってでも助けなければいけない。
『貯めているお金、すぐには使う予定がないでしょう? 少し貸して頂戴』
まただ、と思った。
貸して、と今まで何度も言われたが、返してもらう前に次が来ていた。
将来に備えて貯金をしなさいと言われても、こうして消えていく。
母は肩を竦めながら不満げに言う。
『お父さんにイライラして、買い物をしてしまったのよ。今月の支払いが大変なの』
『でも、私も予定が……』
言ってしまってから、しまった、と思った。
次に飛んできたのは、激昂した鋭い言の葉だった。
『母親が困っているのに、何て薄情なの! こういう時に助けるのが家族というものでしょう!』
何か次に言う前に、襲ってきたのは慣れた痛み。
いつも余を打ち据えてきた手のひらが、母の激情のままに見舞われる。
母の気のすむまで、それもまた余の役割だから。
役割四つ目。
母の八つ当たりに、身をもってつきあうこと――。
お母さん。
貴方は、私の事大事な一人娘と言いました。
将来の希望とも、私の期待そのものだとも。
私は、貴方の慰め役で。
私は、貴方の見せびらかすお人形で。
私は、貴方の何時でも使えるお財布で。
私は、貴方の都合の良いサンドバックで。
ねえ、期待って何? 正しい、って何ですか……?
その頃の余は、勤めが上手くいっているとは言えない状態だった。
そもそも、勤めが向いていたのかどうかは分からない。
客観的に見れば、あまり向いていなかったのではないかと思う。
仕事の習得はあまり捗々しくなく、自然と遅れが出るし、ミスも生じる。
それをフォローしなければならない周囲からはすっかり孤立してしまい、相談できる相手も居なかった。
家でも、職場でも、誰もいなくて。
どこに居ても息ができない、そんな感覚に苦しみを覚えていた頃のことだった。
母から、祖父がいなくなったので家を……工房を処分すると告げられた。
幼い頃の思い出がある工房が無くなってしまうことが寂しくて、気が付いた時には仕事帰りに車を走らせていた。
寄り道をしている後ろめたさと共に、胸の裡に湧き上がる暗い感情があった。
私から、また奪うの?
大切なもの、大切にしていたもの、全部、全部……!
貴方のせいで無くなったのに。
あなたのせいで、居なくなったのに――。
そこでセイは思わず目を見張ってしまう。
誰が居なくなった?
誰が? と自分の中に問いかけても、答えは出てこない。
思い出せない。
私は何を……誰を、忘れているの……?
不安の答えは、車を無我夢中で走らせて辿り着いた先に待っていた。
無くなってしまうことが悲しくて、密かに訪れた祖父の工房。
その片隅にひっそりと隠すように置かれていたのは、少年のものと思しき道具と……砕けてしまった『星』だった。
夜空を形にしたような、拙い作りの、ステンドグラスの星の欠片。
それを手にした瞬間、封じてしまっていた大切な記憶が内側にから溢れるようにして蘇ってくる。
自分をセイと読んでくれた、大切なヨル。
自分を守ってくれていた、大切なお兄ちゃん。
守れずに失ってしまった、大切な自分の半身。
呆然とした表情のまま、余はその場に崩れるようにして膝をついていた。
忘れていた。思い出した。
なんてことを、と呟いた言葉はあまりに乾いていて、掠れてしまっている。
ヨル、と星の欠片を手にしながら、セイは目を見開いた。
他の誰が忘れたとしても、自分だけは覚えていなければいけなかった。
自分だけは絶対に忘れてはいけなかった、大切な人を忘れてしまっていたのだ。
束縛に自分を失い、心を失い。ただ、そこに在るだけで精一杯で。
呪いの言葉に囚われて、いつしか自分も呪いの一部になって、この世界からヨルを消してしまっていた……!
余は、弾かれたように立ち上がると工房から逃げるように立ち去って。
何かに追い立てられるように車に乗り、無我夢中でハンドルを切って飛び出して、そして。
目を閉じる前の最後の記憶は、激しい音と息が詰まるほどの激しい衝撃と、痛み。
再び目を明けた時、彼女はあの工房に居た。
彼女の名前は『セイ』。
傍に仮面の青年と、喋る不思議な猫がいる、硝子工房で幸せに暮らす硝子職人だった――。
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