心の中に眠る箱

 道に飛び込んだ瞬間、セイは思わず目を瞑ってしまっていた。

 一瞬強い風が吹き抜けた気がしたが、やがて止み。今度は逆に、何の風もなくなってしまった気配がする。

 恐る恐る目を開いてみたセイは、思わず目を見張って言葉を失ってしまった。


 渦を抜けた先は、セイの知っている『外』ではなかった。

 工房の外には、あるはずの光景がなかった。


 ツツジの花が咲く庭を囲うフェンスには門があって、そこを越えた先には道路と坂と墓地、遠くには海が見えているがあるはずだった。

 すっかり夜更けてしまっているから、まばらな街灯に照らされた静かな風景が拡がっているはずだったのに。

 そこには、何も無い。見慣れた道も風景もない。

 ただただ暗く、行く方向すらわからない闇が満ちた空間があるだけだった。

 文字通り、右も左もわからない何も無い暗闇を前にしても怯むことすらせずに、ヨルは片手につつじを抱え、片手でセイの手を引いて進み続けていた。

 けして揺らぐことも迷うことなく、ただ一つの方向を目指して走り続けている。

 止まることのないヨルに手を引かれながら、セイも彼の後ろを走り続けていた。

 不思議なことに、まったく息は切れていない。

 日頃全く運動していなかったのに、こんなに走り続けているのに、疲れたりしない。

 むしろ身体が軽くすら感じるけれど、戸惑いはなかった。

 セイを取り巻いていた、あの硝子工房の日常は硝子のように砕けてしまった。

 日常に置いてこれが現実であり、普通であると信じていたものが脆く儚い仮初のものであると気付いてしまった。

 もう、目の前にて生じる不思議に驚く段階は過ぎてしまったのだから。

 どこに向かっているのかは、分からない。今まで色々なことを教えてくれたヨルは、何も言わずにただ走り続けている。

 今のセイにとって確かなものは、自分の手を引いてくれるヨルの手の温もりと感触だけだ。

 渦を抜けて工房の『外』に出てから、ヨルはずっと沈黙を続けていた。

 ヨルに導かれ何もない場所をずっと進み続けながら、セイは先程までのことを脳裏に巡らせていた。


 ヨルの為に『星』を作り上げた直後に現れた『魔女』。

 黒い澱みで出来た『魔女』は、セイを見て「見つけた」と言った。

 そして、帰ってこいと……それと、何かを言いかけていた。


 セイはずっと『魔女』に探されていたのだろうか。

 幼き日にセイともう一人から蒼い『星』を取り上げて壊したのは、あの『魔女』なのだろうか。

 一体自分と『魔女』の間に何の関係があるのか。

 続く無言で走り続ける時間の中で、考えても、考えても。確かな答えを自分の中から探し出せない。

 答えは確かにそこにあるのに。伸ばした指先に掠める感触だけはあるのに、掴めないもどかしい感覚に苛立つばかり。

 セイは唇を引き結んだまま、先を進むヨルの背中を見つめる。

 ヨルは『魔女』を知っている。

 彼に呪いをかけて名と顔を奪ったのは、他でもない『魔女』であるとヨルは言っていた。

 ヨルを『誰でもない存在』にしたという、彼にとっては因縁の相手である存在。

 邂逅した彼の宿敵は、ヨルがそこに居る事を否定しようとしていた。

 彼が存在することが間違いであり、自分の正しさの否定であるようなことを言っていた気がする。

 それに……。


「シュウジ……」


 セイがその名前を口にした瞬間、休む事なく駆け続けていたヨルの足が止まった。

 突然の停止にバランスを崩しかけたのに耐えて前を見ると、立ち止まってこちらを見つめるヨルが居る。

 その腕に抱えられた戸惑った様子のつつじがヨルを見て、次にセイを見た。

 ヨルの表情は何時も通り、固くて滑らかな白い仮面の向こう側。

 それなのに、セイには見える気がした。

 ヨルが困惑と期待、二つの感情に揺れる表情で。けれど真剣な眼差しでこちらを見つめているのが。

 繋いでいた手はそのままに、二人はその場に立ち尽くしてしまう。

 何も言わないけれど、ヨルとつつじの確かな意思を込めた眼差しを痛い程に感じる。

 セイは、必死で思い出せ、と自分を叱咤していた。

「シュウジ」という響きを耳にしたことがある気がする。

 それも、セイにとっては重要な意味をもつものだったという確信がある。

 きっと、セイにとって大切なものだったはずなのだ。忘れてはならない、失いたくなかった、大切なものだったと魂は理解しているのに。

 だが、セイが自らの裡に答えを見出そうとすると激しい痛みが伴い、思わず顔を顰めてしまう。

 塞がりかけた傷を無理やりこじ開けるような痛さに、心が悲鳴をあげる。

 つつじが何かいいかけたのを、ヨルが小さく何かを言って制した。

 何をいったのかは聞こえなかったけれど、セイが答えを探り当てるのを待ってくれているのだけは分かる。

 だから、思い出したい。

 セイの中から消えてしまっていた、セイを取り巻く本当のことを。

 ヨルは待ってくれている。

 セイが辿り着くのを待ってくれている。

 だから、だから――!

 歯を食いしばり、目を固く瞑ったセイが苦しみに満ちた呻き声をあげながら。

 裡を食い尽くそうとするほどの痛みに耐えて、その先にあった『箱』に現ならざる手を伸ばした。

 伸ばした指先が『箱』に届いたかと思った瞬間。

 切り裂くように鋭い叫び声が脳裏に閃き、裡を駆け抜けていく。


『貴方があまりに関わるなんて時間の無駄よ! 来なさい、秀至しゅうじ!』

『そんなことを言わないで! 余ちゃんは、僕の大切な……なんだから!』


 心の奥底まで蝕むような残酷な毒を含んで叫ばれた言葉に、強い意思を宿して抵抗する少年の声が続いた。

 そう、余……余りもの。

 その言葉が浮かんだ瞬間、セイの中にあった固く閉ざされ、大切なものを封じていた『箱』が澄んだ音を立てて砕け散る。

 溢れるようにして次々に浮かんでくるのは、複雑に絡み合う呪い故に失っていた数々の『本当』。

 無くしたくなかった、無くしてはいけなかった沢山の思い出と真実。

 そう、自分はいつも余りものと呼ばれていた。

 余計なものとして、忌々し気にしか見てもらえなくて。

 頑張ってもけして認められることはなく。そこにいるだけで疎ましいとさえ言われて、助けを求めても見て見ぬ振りをされ。

 でも、シュウジ……秀至と呼ばれた少年だけは違った。

 いつも余りもの私と一緒に居てくれた。

 いつも私に笑いかけてくれて。色々なことを教えて、一緒にしてくれて。

 恐ろしい『魔女』がどれだけ叫ぼうとも、私の手を離さないでいてくれた。

 私に、余りものではない名前をくれた、大切な、大切な……。

 先の見えない暗闇に閉ざされたその場に、痛い程の沈黙が満ちていた。

 『ヨル』は静かに仮面の向こうにある眼差しを『セイ』に向けてくれている。

 ああ、と心の中で数多の想いを込めて呻くように呟いていた。

 何故彼が『誰でもないもの』になったのか。彼が受けた呪いとは一体何だったのか。

 自身もまたその呪いに加担してしまっていたのだということも、知ってしまった。

 そして、目の前にいる彼が誰であるかも知ってしまった。

 違う、知ったのではない。

 思い出したのだ、自分が何で、彼が誰であったのか。

 セイの頬を静かに一粒の雫が伝って、落ちる。

 ようやく取り戻したことへの喜びよりも、忘れてしまっていた自身への怒りと悔恨が次から次へと溢れて出てくる。


「秀至……」


 セイが静かにその名前を口にした瞬間、目の前の青年の仮面を縦に割る大きな亀裂が走る。

 彼が仮面を外せなかった理由。

 それは、彼が存在を忘れられてしまったからだ。

 そこに居たことすらも無かったことにされて、隠されてしまっていたからだ。


「そっか……思い出して……くれたんだね、セイちゃん」

「うん……そうだよ。思い出した、本当のこと」


 取り戻した記憶の中にある思い出と同じように、手を繋いだまま静かに彼は呟いた。

 色々な感情が入り交じった複雑で、深い吐息と共に。

 先程脳裏を過ぎった言葉を叫んだのは。

 秀至から名と存在を奪い『誰でもない存在』にた元凶とも言える人は。

 あの蠢く黒い澱みに浮かんでいた顔の持ち主は……二人にとって母である人だ。


「ヨル……秀至、お兄ちゃん」


 噛みしめるような声音でセイが改めてそれを告げた瞬間。

 甲高い音を立てて『ヨル』の顔を覆っていた白い仮面が二つに割れて、乾いた音を立てて落ちた。

 そこにあったのは悲しそうに微笑む、セイと同じ年ごろに見える青年の顔だった。

 穏やかな雰囲気を持つ整った顔立ちの、優しそうな人。

 少しだけ似ているような気がするけれど、日頃全く似ていない、大違いだと言われ続けていて。

 みっともないと顔を顰められて泣いていた自分を、慰め、抱き締めてくれていた少年が。セイと同じように年を重ねられていたら出会えた、彼が大人になった姿。

 本当は見ることができなかった、秀至という少年の『もしも」の姿……。


 そう、自分は、セイだけど、セイじゃない。

 彼は、ヨルだけど、ヨルじゃない。

 私は、余という名前で。ヨルは秀至という名前で。

 私達は……同じ母親から、時を同じくして生まれた双子の兄妹だった。

 兄は秀至。

 お母さんに期待され、囚われ続けて。そして、そのせいで死んでしまった子。

 私は余。

 余りものの名前を与えられた、いらない「ついでの子」……。

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