魔術師は微笑む

 目に映る風景にひびが入っているシュールな光景に、セイは愕然としていた。

 日常を取り巻いていた風景が、ぱらぱらと欠片となって落ちていく。

 ステンドグラスを構成するピースのような破片に、風景の断片を閉じ込めたまま、セイの周囲は崩れ続けている。

 あまりに非現実的な様子だが、何故かセイはそれを彼女にとっての現実として受け止めてしまっていた。

 そう、セイが居た世界は、こんなに儚く脆いものだったのだと。

 降り注ぎ続ける欠片の中、蠢く『魔女』は這いずりながら、少しずつ二人に近づいてきている。


『オマエハ、イテハイケナイ! ワタシハ、タダシイカラ、アリエナイ!』


 澱みの中に生じた顔が、いやいやするように激しく左右に揺れると、ヨルを示しながら叫ぶ。

 ヨルは険しい雰囲気を纏ったまま、その言葉を聞いて溜息を吐いた。


「貴方は本当に変わらない。都合の悪いことは認められずに、無かったことにする」


 いつもの穏やかさが嘘のような厳しい口調で吐き捨てるよう言うヨルに、セイは思わず目を瞬いて彼を見てしまう。

 セイを抱いてくれる腕の温かさと優しさはほんの欠片すらもそこに宿っていない。

 そうではなかった、と何故かセイの中に浮かんでくる。

 彼はあの人に……『魔女』に、そんな声で言葉をかけたことなど、なかったのに。

 いや、どうしてそんな事を知っているの。

 ううん、知っているに決まっている。

 だってヨルは。そして、あの人は。

 否定と肯定。作り物と気付いてしまった今と、本当の過去と。忙しなくセイの中を巡り、相反する方向へと引こうとする。

 セイを守りながら少しずつ狭まり続ける『世界』に口惜しげな様子で、ヨルはセイを見る。


「セイちゃん。……出来れば、もう少しここを守ってあげたかったけど、どうやらもう終わりみたいだ」


 少年のような幼い物言いを、もう不思議に思わない。

 ヨルは迫りくる『魔女』へと毛を逆立てるように警戒しながら続きを告げた。


「君はあれに捕まっちゃいけない。僕があれを抑えている間に、それを導きにして逃げるんだ」

『セイだけなら、逃げられるから』


 セイの手にした『星』を示しながら、ヨルは必死な声音で訴えるようにしてセイに言う。

 この『星』は、セイがヨルを思いながら、彼の為に作ったものだ。

 けれどヨルは、それをセイがこの場から逃げる為の導にしろという。

 ここから、ヨルを置いて逃げるために使えと……。

 それに、つつじまでセイに一人で行けというのだ。

 一つ冷たい汗が背筋を伝ったのを感じた、次の瞬間だった。


「いや」


 気付いた時には、セイの口から既に拒絶の言葉が紡がれていた。

 ヨルとつつじが驚いた様子でこちらを見たのがわかる。

 だが、それだけはしたくないと心の底から思う。

 一人で逃げるなんて嫌だ。ヨルとつつじを置いて逃げるなんて絶対に、絶対に嫌だ。

 一緒だったのだ。ずっと一緒にいると思っていたのだ。

 世界が壊れてしまうのだとしたら、終わる最後の一瞬まで一緒に居たい。

 ここから去るぐらいなら、終わりの瞬間まで、セイとヨルとつつじで居たい。

 それ以外になるなんて、嫌なのだ。

 だって、それ以外になってしまうなら。


「だって、私はここから出たら、また。私にはもう、何も……!」


 息をする事すら辛いような、がんじがらめの環境。

 自分の為の自分などない状況で、ただ『正しく』あるための日々。

 自分で何かを願うことも、好きなものを好きということさえ許されない中で。

 自分にとって一番大切なものを『無かったこと』にしなければならない、生きているけれどいない日々。

 頭の中に、うるさい程に規則的な電子音が響いている。

 きっと、これが終わる時が、全ての本当の終わり。

 でも、ヨルとつつじと離れるぐらいなら、音が止んでくれとすら願ってしまう。

 いらない。ここではないなら、ヨルもつつじもいない日々が、本当だというなら。


「わたしは、このまま消えたい!」

「セイちゃん!」


 セイが拒絶を込めて激しく頭を振りながら叫んだ悲痛な言葉を、激しい語調でヨルが咎める。

 はっきりと全てが分かったわけでもないし、内にある全てが明らかになったわけではないのに、ここから行くことをセイの全てが拒否している。

 ここから出たら、もうセイはセイで居られなくなってしまうことだけは分かるから。

 そしてそこには、ヨルもつつじも居ないと感じ取っているから。

 それぐらいなら、ともう泣き出しそうな声で訴え続けるセイへ、ヨルが尚も何かを口にしようとした時だった。


「珍しいね、喧嘩かい」

「時見さん!」


 不意に緊迫していたその場に、この世界で日頃よく耳にしていた余裕ある男性の声が響いた。

 セイ達が思わず目を見張って声のした方へ一斉に目を向けると、そこには見慣れたお得意様こと時見の姿があるではないか。


「どうして、ここに……」

「愛する姫君のピンチには、騎士は颯爽と駆け付けるものだよ」


 気障な仕草で片目を閉じて見せる男性を見て、セイは思わず呆れた風に言葉を失ってしまう。

 だが、その『いつも』と変わらぬ様子がありがたく思えて、次の瞬間には少しだけ苦笑いしてしまった。

 セイに僅かとはいえ笑みが戻ったのを見て微笑んだ時見は、視線をヨル達に巡らせてから再び口を開く。

 

「まあ、私は騎士ではないし。その役割を今負うべきは私ではないが」


 時見が最後に視線を向けた先は、這いずり蠢く黒い澱み。

 先程までヨルを否定し、セイを求めて近づいてきたそれは、何故か動きを止めていた。

 何故か狼狽えて、近づくのを躊躇っている様子の『魔女』へと隙の無い眼差し向けながら、時見はヨルを手で示した。


「私も大概人が良いからね。姫君の手を引いて逃げる役割を、今は君に譲るとしよう」

「それは……!」


 ヨルの声に激しい動揺が生じる。どうやら、彼の申し出はヨルにとっても予想していなかったものらしい。

 或いは、その危険性について知るからこそ、頷いてはならないと思っているのか。

 受け入れられないといった様子で何か言いかけたヨルを遮るように、時見は告げた。


「もう少しだけ一緒に行ってやりなさい。それぐらいは許されるだろう?」

「時見さん……」

『本当に、いいの……?』


 何か言いたいけれど言葉にできないといった様子のヨルに、少し悲しげで戸惑った様子のつつじが続く。

 つつじを抱き上げて撫でてやりながら、時見はつつじをヨルの腕へと送り出す。

 片腕でつつじを抱きながら、ヨルは黙したまま時見をじっと見つめている。

 セイは、仮面で見えない顔の下で、ヨルが泣き出しそうな顔をしているような気がした。

 時見は、セイへと向き直ると胸元に手を当てながら静かに頭を垂れた。


「私に素晴らしき『物語』をありがとう。どうか、君の道行きに光がありますように」


 いつもこの工房を見守り続け、時として困惑を誘う愛を告げた男性は、慈しむようなとても優しい眼差しを向けながらセイを寿ぐ。

 時見は、ヨルと共に居られる時間をセイに与えてくれようとしている。

 それが何時までかわからない。もしかしたら、気休めのようなほんの僅かな間かもしれない。

 けれど、彼は少しでもセイが納得して先へと進めるように、今力を尽くそうとしてくれているのが分かる。

 きっと危険であり、代償を伴うのに。それでも、今笑って送り出そうとしてくれている。

 必死に拒絶を口にしていたセイは、何かを彼に伝えたくて。それなのに胸が溢れる出るものでいっぱいで言葉にならない。

 セイの瞳に滲んだ涙を微笑みながらそっと指で拭うと、時見は不意にその指を鳴らした。

 雫を弾いて高らかな音が響き渡った次の瞬間、目を見張ったセイ達の前に崩れ行く欠片を弾く渦のような道が生じる。


「私でも、今の状態ではそう長くもたせられない! 早く、セイを連れて逃げろ!」

「ありがとうございます! 時見さん……!」


 向けられた心に、出来れば言葉を返したかった。自分の中にあるこころを伝えていきたかった。

 だが、それには時間が足りなかった。

 叫んで時見へと頭を下げたヨルは片手でセイの手を取ったかと思うと、手を引いて渦の道へと走り始めたのだ。

 体勢を崩しかけながらも慌てて続いて走り出したセイの耳に、小さな呟きが聞こえた気がした。


「これも、君との契約のうちだからね」


 ヨルは片腕につつじを抱いて。セイは片手に『星』を握りしめて。

 手を取り合ったまま渦巻く道に飛び込んだ二人と一匹の姿は、あっという間もなく崩れ行く欠片の世界から消えていく。


 残されたのは悠然と佇む一人の男性と、蠢き這いずる『魔女』と呼ばれた暗い澱み。

 セイの姿が消えたことに気付いた『魔女』は雄たけびともつかない激しい叫び声をあげて、後を追いかけようとするけれど。

 その前には、静かに時見が立ちふさがった。

 澱みはまるで沸騰するように沸き立ちながら、邪魔をする相手を排除しようとにじり寄って来る。 

 だが、それを迎える男性の顔には、少しの恐れも怯えも見られない。

 彼はまるでかつての時代に開かれた夜会にてダンスを申し込む時のような、古式ゆかしい優雅な礼をとりながら。

 いつの間にか手には、複雑な装飾のほどこされた『杖』を手にしながら。


「さて、今暫くこの『魔術師』のお相手をして頂こうかな……マダム?」


 降り注ぎ続ける世界の破片の中で、時見は不敵なまでの笑みを浮かべながら『魔女』へと告げた――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る