ヨルの為の『星』

 夏が盛りにさしかかる頃、ヨルは時々調子を崩すようになった。

 さすがに暑さにやられたようです、と申し訳なさそうにいうヨルはそれでも家のことをしようとするのだ。

 だから、セイはつつじと一緒に必死に休むよう説き伏せて、彼が安心して休めるようにと不慣れながらも一生懸命頑張った。

 時見も、それまで以上に頻繁に顔を出してくれるようになる。

 何がしかの差し入れだけではなく、家事まで手伝っていってくれるようになり、戸惑いつつも正直ありがたく思った。

 セイが休むように伝えながら家のことに必死な様子を見て、ヨルを包む空気は少しだけ寂しそうで、でもどこか安心した様子に思えた。

 セイはつつじの応援を受けつつ家事を終えると、眠るヨルの様子を見に行った。

 よほど深くぐっすりと眠っているようで、セイが部屋の中に足を踏み入れても目覚める様子がない。

 仮面をつけたままのヨルは、表情を見られないことも相まって生気がないように感じてしまう。

 セイは、顔を苦しそうに歪めて唇を噛みしめる。

 ヨルが具合を悪そうにしていると、何かを思い出しそうになるのだ。

 具合が悪いのに、そのまま無理をしていて。自分はそれを止めることができなくて。

 そして――。

 弾かれたように顔を両手で覆ってしまうセイ。

 何があったのかは思い出せないし、心が思い出すのを拒んでいる。

 けれど、何もできないまま失おうとしている自分への、途方もない無力感が打ち消しても、打ち消しても湧き上がり心の中を埋めつくす。

 あの時、私がもっと、もっと何か出来ていたら。

 記憶にないはずの『何か』を悔いて自分を責める思いに、セイが枕元に蹲ってしまった時だった。


「……セイ……ん?」

「ヨル……」


 セイが少し視線を動かすと、僅かではあるがヨルの顔がこちらに向けられていた。

 今にも泣き出しそうに顔を歪めたセイに気付いたのか、ヨルは優しく囁くように言葉を紡ぐ


「自分を責めないで……。………きみの、せいじゃない」


 温かな手が、セイの頭に静かに伸ばされた。

 大きな手の平が優しく頭を撫でてくれる感触に、胸が詰まる程の懐かしさを感じる。

 自分でも説明できない、痛い程に熱い何かが胸の奥から浮かび上がってくる。

 目頭が熱くなるのを感じたけれど必死に耐えるセイに、ヨルは更に続けた。


「きみは……悪くないよ。だから、気に病まないで、いいんだ……」


 意識が曖昧なようで、どこか夢を見ているようなふわりとした響きでヨルは言う。

 そして、そのまま再び眠ってしまったようだ。

 撫でてくれる手が止まったことに一瞬目を見張ったけれど、静かな寝息が聞こえることに安堵する。

 ヨルの手を戻して、ブランケットをかけ直して、セイは音を立てないように気を付け静かに立ち上がる。

 そしてそのまま部屋を出ると、自室には戻らず階下へと向かう。

 歩み寄って来たつつじが心配そうに見上げてくるのを見て、つつじを抱き上げながら向かった先は工房だった。


 作ろう、と思ったのだ。

 先延ばししてきた、ヨルの為の『星』を。


 温かな手が頭を撫でてくれた時に、心の奥から浮かび上がってきた思いを形にすれば、きっと出来る気がした。

 つつじは静かに作業台の近くに陣取り、セイを見守るように見つめている。

 今まで散々何を作るか悩んでいたのに、不思議な程に手は淀みなく動き始めた。

 目の前にあるのは、一つだけでは意味を成し得ない形の欠片たち。

 ヨルを思い、それらに手を伸ばす。

 ヨルの声を思い出しながら、幾つものピースを選び出す。

 選んだ欠片を並べて組み合わせて、何時も通りの手順で確実に繋げて形にしていく。

 昔、きらきら輝くこの色のおはじきを見て、お星さまみたいだと誰かが笑っていたのがふと蘇ってきたから。

 喜んで欲しいと思って、おはじきのような「ナギット」というパーツも手に取って、飾りつける。

 普段の手順だったら、下絵も型紙も必要なのに、今は必要ない。

 セイの心の中にこそ、内から湧き上がってきたものの中にこそ、それらはあるから。

 つつじが静かに見守る中で、セイは今、不思議な時間と感覚の中に居た。

 今であり、今ではない。

 覚えているのに、記憶にない。

 形容できない不思議な感覚の中で、欠片を繋ぎ合わせる為に。今までを辿るように、ただ無心に手を動かし続ける。

 形を失ってしまったものを、再び形にするように、丁寧に一つ一つを繋ぎ合わせていく。


 どれぐらいの時間が経っただろう。

やがて、ひとつの『星』は完成した。


 出来上がったのは、グラデーションを描く幾つもの蒼を組み合わせて作られた星型のオーナメントだった。

 星の瞬きを思わせる煌めきを封じた蒼から群青へのグラデーションの欠片から成る、まるで夜空を星の形にしたような趣がある『星』。

 夜空がある故にある星、そのものだった。

 だが、夜空を思わせるそれは美しくはあるものの、いつものセイが作るものよりもずっと簡単なものだった。

 見て楽しむ以外に出来ない、ただ飾るだけのもの。

 これが、自分がヨルの為に作った『星』なのだろうか。

 これは、本当に彼がセイに願った『星』といっていいのだろうか。

 つつじの心配そうな視線すら意識しなくなるほどに、セイは出来上がった『星』を見つめながら考え込んでいた。

 これでいいのか、という思いと同時に、不思議な胸のざわめきがある。

 何故そんなに胸が騒ぐのかの理由を自分の中に問い続けて。

 ややしばらくしてから、呆然とした面もちのセイの唇からその言葉は零れ落ちた。


「……これ、昔、作ったことがある……?」


 選ぶ行程も、並べて繋げる行程も、何故か無性に懐かしくて堪らない気がしたのだ。

 そして、閉じて封じた心の奥底に答えを見出した――自分は、この星を以前に作ったことがあると。

 小さな手で硝子の小さな破片を、選んで、分けてもらって。

 一つずつ組み合わせて並べて、教えてもらって一生懸命に繋いだ。

 それはとても拙くて、工房に並んでいた作品と比べたらあまりに簡素なものではあったけれど。

 セイにとっては大切な想いをこめた、世界で一つの『星』だった。


 ――彼が喜んでくれたらと願って頑張って作った、贈り物だった。


 しかし、次の瞬間セイを襲ったのは激しい頭痛と頭の中に響く雑音交じりの会話だった。

 彼はとても喜んでくれた。宝物にするといって、大切にセイが作った星を手に嬉しそうに笑ってくれた。

 それなのに。

 理不尽な手が、彼から星を取り上げてしまった。 


『お願い! それを返して!』

『それは、僕の為に……ちゃんが……!』


 必死に訴えたセイの頬に激しい痛みが走ったかと思えば、セイはその場に倒れ込んでしまう。

 彼もまた、セイを助け起こしながら必死に叫んでくれた。

 いくら返してと二人が訴えても、二人の手は星に届かない。

 黒に覆われたその無慈悲な人影は、耳障りな雑音だらけの声で叫んで、二人を見下ろして叫んだ。


『……には、為になる本を買ってあるの。おかしなもので気を散らせないで!』


 記念の日に、こんなものは相応しくないと金属をこするような不快な声で言うのは。

 蒼い『星』を掴むのは、あの日『扉』を象った窓から伸ばされた腕だ。

 あの出来事から目を覚ました時には、今の今まで忘れてしまっていた恐ろしいもの……『魔女』だ。

 黒い澱みに覆われた人影は、必死に伸ばされる手と訴える声を煩わしげに振り払う。

 そして、大きく手を振り上げると。


『こんな、下らないもの!』


 二人の目の前で『魔女』は、星を地に叩きつけた。

 深い蒼の欠片を繋げて、彼のために作られた星は、バラバラに――。

 セイは目を見張って、弾かれたように『扉』の飾り窓へと視線を向けた。

 そうだ、自分はあの日ヨルが『魔女』と呼んでいた存在を目にしたのだ。

 セイへと腕を伸ばしてきた澱みを見て、何かを呼びかけられ、何かを口にしかけた。

 何で忘れてしまって……まるで何事も無かったことのように平穏な日々を送っていたのだろう。

 あれは……『魔女』は、ヨルから顔を奪った存在。

 彼が『誰でもない存在』にしてしまう呪いをかけた、恐ろしいもの。

 でも、今セイの中に巡った記憶が確かなら。セイは今よりもっと幼い頃に『魔女』に出会っていた……? セイが一度作った星は『魔女』によって壊された?

 それに、今はヨルの為に作った星を、セイは誰の為にあの時作ったのか。

 答えを求めると、全身に痛みが生じて、息苦しさに崩れ落ちそうになる。


『セイ! しっかりして!』


 つつじが傍に駆け寄って、必死に声をかけてくれる。

 この世界に自分を留める声に何とか笑いかけようとするけれど、顔は酷く強張りぎこちないものになってしまう。

 脳裏に蘇る、規則的な電子音。

 全身が何かに繋がれているような感覚。

 呼吸が上手くできない息苦しさ。

 気を抜けばそれらが全身を支配して、身動きすらままならなくなってしまいそうで。

 自分が、自分ではなくなってしまいそうで、セイの全身から冷たい汗が次から次に生じて、伝い落ちる。

 存在を消えてしまいそうな……何かに喰い尽くされてしまいそうな、表現できない恐れ。


 私は、セイ。

 ヨルとつつじと一緒に、この工房にを受け継いだばかりの硝子職人。


 いつもならそれで納得できるはずなのに、蓋をして閉じ込めようとしても、次から次に破られてしまう。

 視界の端には、ヨルの為につくった『星』の煌めきが映る。

 崩れ落ちそうになる身体で必死にそれに手を伸ばしながら、セイの脳裏には問いが駆け巡る。

 自分は誰で、ヨルは誰?

 ヨルは、セイの祖父の弟子の硝子職人。

 つつじと一緒にこの工房に残されていて、工房を受け継いだセイを助けてくれた仮面の男性。

 そういえば、ヨルのフルネームは? 

 ヨル、が愛称だというのだけはわかるのに、本当の名前は何というのかを思い出せない。

 いや、ヨルだけじゃない。

 セイ自身の、フルネームは……?

 今は江戸時代じゃない。誰もが苗字を持つ時代だ。

 じゃあ、セイの苗字は? ヨルの苗字は?

 今まで一度も聞いた事がないという事実に、一度も思い出す事がなかった事実に、セイは愕然とする。

 気にも留めてこなかった。不思議にも思わなかった。

 だって、セイがセイで、ヨルがヨルであれば。そしてつつじが居れば、この場所は満ち足りて完成していたのだから。

 何かが軋み、揺れる音を感じる。

 ここに居たいのに、もうそれが叶わないと告げるような、恐ろしい音が聞こえる気がする。

 つつじが何かを叫んでいるけれど、それも聞こえないぐらいその音はセイの中を埋めつくしかけている。

 何かが見えたような気がして、そちらを向いた。

セイの目は、扉を模した硝子窓の向こうの少女の姿を捉えた。

 少女は、静かにセイを見つめている。

 悲しそうに何かに耐えている様子は今までと変わらない。

 しかし、一つだけ違うことが起きる。

 少女の姿が揺らいだと思った次の瞬間、その変化は生じた。

 窓向こうにいる少女の顔を覆っていた靄が溶けるようにして消え去って。

 そこにあったのは――セイの顔だった。

 厳密にいえば、鏡で今見るものよりも若い、数年前の……まだ学生だった頃のセイだった。


『わたしは、にげられない。だから』


 目を見張って唇を戦慄かせるセイを悲しげで、どこか冷めた眼差しで見据えながら少女は……かつてのセイは言う。

 自分は何処にも行けないし、逃げられない。

 顔色を失くしてかつての映るかつての自分を凝視していたセイへと、少女はそれを告げた。


『あなたも、にげられない』


 ――その瞬間、甲高い破裂音が工房に響き渡った。

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