第30話
辿り着いたビルの一角。
扉を開けたら、中に居た人達の視線が一斉にこちらを向いて、羞恥心から一度…浮足立っていた気持ちを落ち着けた。
「あ……す、すみません。あのぅ…樹希さんは、いらっしゃいますか…?」
場違いな雰囲気をひしひしと感じながらも、なんとか言い直す。
こじんまりとした店内で、カウンターの向こうに立っていた金髪でやたら露出の高い服を着た色気ある女性は、少し目を見開いて驚いた顔をした後で、見た目に反して豪快に声を出して笑った。
店内にいた数人の女性たちも、それにつられて笑い出す。
「ははは!…おーい、樹希!彼女来たよ、彼女!」
ひとしきり笑った後で、なにやら裏に向かって声をかけた。…綺麗な外見からは想像つかないほど声質がけっこうハスキーで、酒やけっぽかったからちょっとびっくりした。
「は?彼女って…なんすか」
カウンターのさらに向こう側、のれんで仕切られていた扉から出てきた樹希さんもまた、わたしを見て驚いた顔で固まる。
「優奈ちゃん…?」
数週間ぶりに見る姿に安堵して、体から力が抜けていく。それでもなんとか、足を踏ん張らせた。
戸惑いながらも彼女はカウンターから出てそばへと歩み寄ってくれて、近くに気配を感じただけで心臓は高鳴る。
「どうしたの、ってか…なんでここが分かったの」
「……凛ちゃんに、教えてもらった」
「うわぁ、先輩……まじか」
困り果てて額に手のひらを当てた姿を見て、それには単純に傷付いた。
「来てほしく、なかった…?」
「い、いや。そういうわけじゃないよ」
拗ねた声を出せば、すぐに否定してもらえる。
だけど、どこか帰ってほしい雰囲気を出されて、気分はどんどん落ちていった。
「いきなり来て、迷惑だったよね……ごめん…」
「や、その…びっくりしただけ。大丈夫」
「とりあえず座んなよ。…樹希は酒出してやんな」
「……ういっす」
「はい、だろ。クソガキ」
「はーい、分かりました、クソババア。…ほら、おいで。優奈ちゃん」
カウンター席まで案内してくれた樹希さんの後に続いて、少し高めの椅子に腰を下ろす。わたしが座ったのを確認して、樹希さんはカウンターの向こう側へと戻った。
隅っこに座るひとりの女性はニヤニヤを隠しきれずにこちらを見ていて……なんとなく、居心地を悪くする。
「優奈ちゃん、なに飲む?」
「あ……な、なんでも…へいき」
「じゃあ緑ハイでいい?私奢るよ」
「おいおい。今日はやけに太っ腹じゃん」
「……そりゃ、こんなぼったくりな酒代、払わせらんないんで」
「お前好きな女にはとことん甘いなぁ、ほんと。あーあ、羨ましいこった!」
「ちょっ……このクソババア…余計なこと言わないでくださいよ。もう終わった話なんすから」
気になる単語が出てきたと思ったら、慌てて隣に立っていた金髪の女性を肘で小突いて、樹希さんは焦った顔をすぐ作り笑いに変えてわたしの方を向いた。
「ごめんね。この女の言うことは気にしないで、ただの酔っぱらいだから」
「あ、うん……わかった」
「はは!素直で面白いねぇ」
「いいから黙って仕事してよ。お通しもまだ出してないんすから」
「あいよ。…これお通しね、今日はポテチ」
お皿に移すとかじゃなく、小さめの袋そのまま渡されて、困惑しながら受け取る。
……バーって、こんな緩い雰囲気だったかな…?
過去に行ったことがある所はもっと、こう…落ち着いた感じで、バーテンダーさんも物静かな人が多かったけど、ここはなんというか……スナックとか、そう説明した方がしっくりくるような場所だった。
「…ねぇね」
不思議なところだなぁ…と周りをキョロキョロ見回していたら、不意に奥の席にいた女性から声をかけられた。
「どうやって樹希のこと、落としたの?」
「おい、変なこと聞くな」
「だって気になるじゃん〜。…で?教えてよ、この女たらしをどうやって惚れさせたのか」
「確かに私も気になる。どういう経緯で付き合ったの?」
ど、どうやって…って、聞かれても。
便乗して金髪の女性も興味津々の様子だけど…
「そもそもわたし達、付き合ってすらないです…」
惚れさせるも何も、惚れられてる自覚もなくて控えめに伝えたら、誰よりも驚いたのは樹希さんだった。
「え。ゆ、優奈ちゃん…?」
「え……な、なに?」
「私達、付き合ってなかったの?」
「……へ?」
信じられないといった様子で聞かれて、意味がよく理解できなくて素っ頓狂な声を返せば、樹希さんは絶句して……金髪の女性は堪えきれず吹き出すように笑った。
周りの人達も笑い始めて、何がなんだか分からないままカウンター越しに樹希さんの方を見る。
彼女はどうしてか傷付いた表情で項垂れていた。
「おい、みんな!あの樹希が女にフラレたぞ!こりゃ酒がうまい!」
「樹希…どんまい。一杯奢るよ」
「私シャンパン入れちゃおっかな〜」
「いいねぇ、バンバン入れちゃって。…樹希、責任持ってありがたーく飲み干せよ。フラレ酒。っく、はは!」
「……はい…」
豪快に背中を叩かれて、弱々しく返事をしながら樹希さんはカウンター下の冷蔵庫からお酒の瓶をいくつか取り出した。
何も分かってないのは私だけで、その場にいる人はみんな状況を把握して楽しんでるのを、疎外感で押し潰されそうになりつつ見渡す。
「はーい、それではカナちゃんからシャンパンいただきましたー!お礼言え、樹希」
「ありがとうございます…」
「もっと腹から声出せよ〜、失恋しちゃって落ち込んでるのは分かるけどさ」
「あ…の、ごめんなさい」
店内に居た人数分のグラスやなんかを準備した後で始まったシャンパンを開けるという作業を、心苦しくも中断させて声をかけた。
「色々、その……どういうこと?樹希さん」
わたしの質問に、全員がキョトンとした顔をして、わたしもつられて首を傾ける。
「一旦…整理しよっか」
気まずいような空気感を一瞬で変えたのは金髪の女性で、彼女はパンと手を叩いて周囲の人達に笑顔を送った。
「いいっすよ、もう……恋人とすら思われてなかったんすから。キズ抉らないでください」
落ち込みつつ、シャンパンを注いだグラスを全員に配りつつ、唇を尖らせた拗ねた顔で樹希さんは呟く。
……恋人とすら、思われてない…ってなんのことだろ。
話が全然見えなくて、とりあえず渡されたグラスはおとなしく受け取っておいた。
「…優奈ちゃん?だっけ」
「あ……は、はい」
「ぶっちゃけ樹希のこと、どう思ってんの」
金髪の女性にそう声をかけられて、たじろぐ。
こ、こんな人がいるところで、そんな……恥ずかしくて、言えない。
「ちなみに、こいつは初彼女できてバカみたいに浮かれてたよ。あとめっちゃ病んでた」
「え…」
「まじでやめて……クソはずいから…」
指差されてケラケラ笑われた樹希さんは、片手で顔を隠しながらため息をついた。
「は、初彼女って……わたし達、いつ付き合ったの?」
そこでようやく認識のズレに気が付いて、頭を白くしながらもなんとか疑問を口にする。
それがまた彼女を傷付けてしまったみたいで、少し泣きそうな顔をして、樹希さんは肩を落とした。
「お互い好きって言い合ってたじゃんか…」
「え……で、でも、告白もされてない…」
「言わなくても分かるでしょ」
「ばかやろう」
「あだっ…」
頭上から拳を振り落とされて、今度は痛みで涙を浮かべた樹希さんが自分の頭を押さえる。
「痛いんすけど、美紀さん…」
「いやそれは……殴られても仕方ないよ、樹希」
「告白してないのに付き合ってると思い込むのは…無いわぁ。思考回路ストーカーかよ」
「恋愛初心者すぎて、お作法が分からなかったのかな?樹希ちゃん」
「みんなして……なんでよ。だって、毎日好き好き言ってえっちして…一緒に住んでるし、束縛だって許してくれて……これで付き合ってなかったら、世の中のカップルみんな付き合ってることになんなくない?」
「言いたいことは分かるけどさぁ…」
呆れ果てて言葉も失う、おそらく常連客なんだろう女の人達を見て、わたしも樹希さんもふたりして困惑した。
話の内容から察するに、彼女は今までずっと交際してると思ってたことは分かったんだけど…だとしたら。
「で、でも……他の女の子とも会ってた…よね?お泊まりで…」
「は?な、なに言ってんの。会ってないよ」
「えぇ……?」
芋づる式で湧き上がってきた過去の浮気疑惑について聞いてみれば、樹希さんは「ありえない」と言わんばかりに否定した。
そこからどんどん、気になることが止まらなくて。
「じ、じゃあ……週に何回か、夜に帰ってこなかったのは?」
「バイトだよ、ここの…」
「っち、違う人の香水の匂いしたのは?」
「それ…は、お客さんとか……美紀さんにノリでくっつかれたり、酔っぱらいの介抱する時とか距離近くなるから、移っただけ…だと思う…多分」
「深夜にいきなり電話きて出ていったのは…」
「あー……あの日は優奈ちゃんと過ごしたくて他のやつに連絡してズル休みしてたんだけど、そいつが途中でバックレちゃったから、とりあえず出勤してこいって……怒られて」
「その後、しばらく帰ってこなかった…のは?」
「私の友達がバックレたまま帰ってこなくなって辞めちゃって、人足りなくなったから、穴埋めに…」
「っく、クリスマスの日、あんなにおしゃれしてたのは……あと、あのバラも」
「ひ、久しぶりに優奈ちゃんに会うから、クリスマスだし、気合い入れておしゃれしただけだよ。バラも、その……喜んでくれるかなって」
「じゃあ、その次の日とか、夜に帰ってこなかったのも…?」
「イベントで忙しい日にわがまま言って急に休ませてもらったから、せめてもの気持ちで連勤してただけ…っす」
「っ…ね、年末年始、女の子とクラブにいたのも、もしかして」
「うん。このバーの常連で、あのクラブの主催やってる人からの誘いだったから断るに断れなくて、挨拶だけしに……ちなみにあの時にいた子はここで一緒に働いてる子。今日は居ないけど」
嘘を言ってる感じはまるでなくて、本当のことなんだ…と察した時、体から力が抜けていった。
「ん?……え。私まさかずっと浮気してると思われてた感じ?」
テーブルに肘をつけて顔を覆って、深く息を吐き出したわたしを見て、樹希さんは驚いた声を出す。周りの人達は、もう何も言えない様子だった。
「思うよ、それは…」
「な、なんで。優奈ちゃんだけって言ったじゃん」
「言われたけど……他の子にも言ってる口説き文句なのかなって…」
「ひどい…そこまで最低な人間じゃないよ、私」
「でも、だって…引っ越してすぐくらいの時、凛ちゃんに“いつものお遊び”って言ってたから…」
「あ……あれ聞いてたの?あれはただ、あれ以上なんか言われるのがだるかったから適当に合わせただけだよ。本心じゃない」
「えぇ…?そ、そんな…」
「……うん。日頃の行いってやつだな。実際、これまでのお前なら誤解されても仕方ない話だし。反省しな、樹希」
「美紀さんまで…」
肩をぽんと叩かれて、樹希さんは絶句していた。
「…あと、ごめんなさい。いったいいつから付き合ってたの?わたし達」
自分達のことなのに、こんなこと聞くのもどうかと思うけど……今は真実を知れるならなんだっていいと開き直る。
樹希さんは眉を垂らして自分の頬を指先でポリポリ掻いた後で、その困った口を開いた。
「優奈ちゃんから、言ったんじゃん。好きって言って…とか、他の子には好きって言わないで…って。あんなん言われたら誰だって脈アリと思うでしょ」
そして、想像していたよりも早い段階からすれ違いが始まっていたことを知る。
「そんなに、前から…?」
「う、うん。あの辺りからもう、付き合ってると思ってたんだけど……違ったの?」
「いや、だって樹希さんあの時なにも言わなかったから…」
「それは……その、照れすぎて、言葉も出なかったっていうか…」
「な、なにそれ……何も言ってくれないから、わたしはずっと、てっきりセフレのうちのひとりなのかな?って…」
「んなわけない。ただのセフレ相手に、あんな時間もお金もかけないって。誰だってそうでしょ」
「そんなの、言われなきゃわかんないよ…」
深いため息をついて、じんわり滲んできた涙を堪えた。
ほんとに……バカだ。
全部、わたしの思い込みが招いたことだった。
彼女のことを、本当の意味で見てなかったから…わたしのせいだ。
告白だって、もっと早く自分から言ってればよかったのに。
思えばいつもいつも、勝手に軽薄な人なんだって判断して、本人の気持ちを聞くことから、知ることから逃げて……だから、こんなにも簡単なことに気付なかったんだ。
彼女は……樹希さんはずっと、わたしのことをちゃんと一途に好きでいてくれたのに。
猫のように飄々と、女の子の所を行ったり来たりして、翻弄してると思ってたのは……わたしだけだったんだ。
「うん。…今日は、帰んな。ふたりとも」
「え、いいんすか。ラッキー」
「優奈ちゃん。このバカ連れて帰って、ちゃんと話し合いしておいで」
わたし達の不毛とも言える会話を黙って聞いてくれていた金髪の女性⸺美紀さんの気遣いで、その日は樹希さんとふたりで住むあの家へと帰ることになった。
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