第20話
























 家の最寄り駅に着いたら、


「優奈ちゃん…!」


 まるで飼い主の帰りを待っていた犬のように見えない尻尾をブンブン振りまくった、やたらテンションの高い樹希さんが飛びついてきた。

 少しよろけながら相手の体を受け止めて、人目も憚らずくっつかれたことに困惑する。


「い、樹希さん……ここ、人前…」

「ん…?なんだろ」


 駅を利用してる人たちがチラチラと見てきたから、恥ずかしくなって体を離そうとしたら……樹希さんはスンと鼻先を首の辺りにうずめて匂いを嗅ぎ始めた。

 くすぐったくて首を傾けながら逃げようとすれば、そんなことしなくてもパッと顔を上げて離れた彼女の手が肩に置かれる。


「…ほんとに、仕事だった?」


 怪訝な表情で聞かれて、戸惑いつつも頷いた。

 なんか……疑われてる?

 でも、なんでだろ…と思いかけて、そういえばさっき青峰さんに抱き締められたことを思い出した。

 密着していたせいで香りが移っちゃったらしく、自分で服を軽く嗅いでみても分かるくらい濃い柔軟剤の香りがして焦る。


「あ…っち、ちがうよ。これは、ちょっと距離が近かっただけで、別に何もしてない」

「……誰かと一緒だったんだ」


 焦りすぎて、自ら墓穴を掘った。


「し、職場の人と、帰り際に話してて、それで…」

「こんなに匂いが移るくらい、近い距離で?」

「え…あ、う…」


 何も言い訳ができなくて、鋭い眼光で睨まれたのも重なって、余計に言葉が出てこなくなる。

 樹希さんは過去最高に機嫌の悪い表情を浮かべて、冷徹な目をしたままわたしの手を引いて歩き出した。

 家に着くまでの間、樹希さんは無言だった。それがまた恐怖で、足が竦む。


「っきゃ…」


 寝室に着いてからも無言で、ベッドの上に半ば投げられるような形で押し倒された。

 わたしの上に股がった樹希さんは、着ていたコートを脱ぎ捨てて、次に脱いだシャツを使って……器用に両手首を縛り始めた。


「え……え、な…なにしてるの…?」

「黙ってて」


 冷たく言い放たれて、口をキュッと閉じる。

 されるがまま頭上で手を拘束された後は、一度ベッドを降りてなにやらクローゼットの中にある小棚をゴソゴソと漁っていた。

 どうしたらいいのか戸惑いながら待っていたら、戻ってきた樹希さんの腰元には前にも見たことのあるものがあって……嫌な予感がする。


「っご、ごめんなさい!樹希さん、わたし…」

「なんで謝るの?なにも、やましいことはしてないんじゃないの」


 とにかく嫌な思いをさせたから謝って、落ち着いてもらおうと思っただけなのに……裏目に出てしまった。

 ベッドに乗って、足の間に入って、膝の下に手を入れた樹希さんは冷めた目で見下ろした状態で足を持ち上げて開かせた。


「今日、会ってたの男でしょ」


 図星をつかれて、逃げたい気持ちで分かりやすく目を逸らしてしまう。


「……そんなに、男の方がいい?」

「やっ……ち、ちがう」

「指だけじゃ物足りなかった?」

「っな…ど、どうしてそうなるの?ちがうよ…」

「浮気なんて、許さないからね。優奈ちゃん」

「へ…」


 まさかその言葉が、樹希さんの方から出てくるなんて思わなくて。

 真っ白になった頭で、自分が何をされてるのかすら分からないまま遠慮もなく抱き潰されたけど…“浮気”の一言はずっと脳内に強く残っていた。


 え。うわ…き?


 う、浮気って……なに?なんで、そんなこと言うの?付き合ってるわけでも、ないのに…


「優奈」

「ぅあ…っう」

「集中して」


 突き上げられて思考を途切れさせて、そこからは考える隙すら与えてもらえなかった。

 明日も仕事なのに、樹希さんもそれを分かってて、普段なら気遣って控えめにしてくれるのに……その日は手加減なんか微塵もなく、朝方までお仕置きは続いた。

 いつもは気を付けてくれる跡も、見える場所とか構わずにつけてきて…噛み跡まで残される。

 もはや“えっちする”なんてかわいいものじゃなくて、“犯される”という表現が相応しいくらいの激しい行為に、翻弄されすぎた体は何度か意識を飛ばしかけた。


「まだだよ、起きて」

「っっは……ぅう」


 その度に眠ることも許されなくて、強い刺激で起こされてはまた意識が飛んで……ハッと最後に目を覚ました時には、もう朝を迎えていた。


「やだ……仕事…」


 慌てて飛び起きて、スマホを確認する。

 幸い寝坊はしてなかったけど、危ない時間だったことに違いはないから急いでベッドを降りて、バタバタと支度を始めた。

 首や鎖骨全体に目立つ赤い点を隠すためハイネックの白ニットを選んで、ジャケットを羽織る。勤めてる会社が制服じゃなくてよかった…とこの時ほどありがたいと思ったことはない。


「あぁ、もう〜…!間に合うかな…」


 未だ残る気怠さや眠気の影響でうまく回らない頭と、それなのに急がなきゃいけない切羽詰まった状況に、イライラを口に出すという滅多にしない行動を取る。

 とにかく早く家を出よう…とリビングのテーブルの上に鞄を置いて、必要なものを詰めて、急いでる時こそ忘れ物がないかだけはしっかり確認して……


「……優奈ちゃん…」


 そこへ起きたばかりのやってきて、マイペースに甘えた仕草で抱きつかれた。


「…仕事行っちゃうの」


 寂しい声を出されても、今は構ってあげられる余裕もなくて、「ごめん…」と一言だけ謝ってから鞄を持った。

 だけどそれでも樹希さんは離れてくれなくて、


「休んでよ…今日」

「っ…そんなこと、できないよ!」


 無責任な発言にもイラついて、つい声を荒げてしまった。


「昨日みたいなことも、もうやめて。お仕事に影響出ることだけはしないで…!」


 色々が重なって、いつもみたく優しくする余裕もなく怒鳴った後で、ようやく離れてくれたことに安堵して玄関先へ移動する。

 普段怒りもしないわたしが感情的になったからか、樹希さんは靴を履いてる間、後ろでオロオロと戸惑った様子で落ち着きなく歩いていた。

 それもまた、どうしてかわたしの怒りをくすぐる要因のひとつとなって、盛大にため息を吐き出す。

 …こんなにも人に怒ったこと、ないんだけどな。なんでイライラしちゃうんだろ。

 申し訳ない気持ちもありながら、どうしても感情を抑えることができなくて、「いってきます」すら言わず家を出た。

 駅までは少し歩くから、たまたま通りかかったタクシーを引き止めて、車に乗り込む。


 そのおかげで、仕事にはなんとか間に合った。


「はぁ……なんであんなに怒っちゃったんだろ…」


 そんな後悔と反省が浮かんだのは、職場に着いてからだいぶ経って冷静になった時で、用を足すために入ったトイレでひとり、顔を覆い尽くした。

 樹希さん……絶対、嫌な思いしたよね。

 もしかしたら嫌われちゃったかも、と不安にもなる。

 これまで、彼氏にどんな事をされても……ムカつきはするものの、表には出せないから黙って耐えてきたのに。

 彼女相手だと、それがうまくできないみたいで困った。自分でも、どうしてこうなるのか説明がつかない。


 それに、“浮気”発言も……引っかかってる。


 付き合おうとかは言わないくせに、そういうところばっかり交際してる感出されると、さすがに理不尽というか……そんなこと言うなら早く付き合ってよって気持ちが湧いてきちゃって、大きな不満に繋がっていた。

 自分は女の子と好き勝手遊ぶくせに、わたしには男の人とちょっと話しただけで怒るのは…どういう思考回路なんだろう。

 何を考えてるのか分からないから、余計にモヤモヤして感情的になっちゃうのかな。


「…帰ったら、謝らなきゃ」


 とりあえず怒鳴っちゃったことは謝って、許してもらおう。


 そう思ってたのに。


「……はぁ…だよね…」


 帰ったら、樹希さんは居なくて。


 どうせ怒られて嫌になったから、わたしより都合のいい女の子のところへ逃げ込んだんだろうと勝手に推測を立てては、もう怒りすら覚えないくらい呆れてしまった。

 シャワーも浴びず、着替えもせず、お化粧すら落とさないでベッドの上に体を預けて、目を閉じる。

 このまま嫌いになれたら、どれほど楽か。

 諦めたいという気持ちとは裏腹に、沸々と醜い嫉妬や独占欲が心を支配していく。


「喧嘩したあとくらい、そばにいてよ…」


 そもそもこれが喧嘩と呼べるものなのか分からないし、わたしが一方的に怒っちゃっただけかもしれないけど……でも、それでもこんな時にはそばにいてほしい。


 こういう時こそ、抱かれたいのに。


 なんでもない時にはわたしを求めて、こちらが求めている時には姿を消してしまう彼女は、目の前にあるのに掴めない煙みたいな存在で。

 手を伸ばせば伸ばすほど、一歩足を踏み入れれば踏み入れるほど、視野が狭く、目の前が白くなって迷い込む。


 そうなれば、抜け出すのは難しい。


「……もう…いいや」


 考えるの、やめたい。


 こうしてまた、相手と向き合うことから逃げて。


 わたし達はどこか、似た者同士であることに……気付きもしないまま。


 彼女の居ない夜は、その後数日続いた。

















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