第10話


























 冬に入る頃、務めている会社が繁忙期を迎えた。

 忙しいと悩む時間もなくなるから今は助かるんだけど……体がしんどい。眠い。

 秋の訪れを感じている余裕もなく、気が付けば外の空気はだいぶ寒くなっていて、そのことに気が付いたのも残業で退勤が遅くなった日の夜だった。


「うぅ〜、さむい…」


 会社を出てすぐ寒風に晒されて身を縮こませる。

 自分の肩を抱きながら小走りで駅へと向かって、改札を抜けた後は壁で風が遮られるおかげで外ほど寒くなかったから、ゆっくり歩いた。

 駅のホームに着いたら自販機で温かいお茶を買って、それで手を温めながらソワソワ体を動かして電車を待つ。

 腕時計を確認すれば、時刻はもう夜の八時を優に過ぎていた。

 今日も多分、樹希さんは帰らないから……夜ご飯どうするかな。作るのはちょっと面倒くさい。


「食べて帰ろうかな…」


 どうせ帰っても、樹希さんいないもん。

 拗ねた気持ちで晩御飯のお店を調べるためスマホ開いて、毎度のことながら開いたついでにメッセージを確認する。


 そして、


『倉田さん、まだ会社にいるなら一緒に帰りませんか?よければ、ご飯でも。もちろん奢ります』


 部署は違うものの、なんだかんだ接する機会があって連絡先を交換していた誠実そうな職場の男性からのお誘いと、


『おなかすいた、優奈ちゃんの作ったごはん食べたい』


 どうやら今日は家にいるらしい、甘えた全開な年下の女の子からのお願いを、頭の中で天秤にかけた。

 多分……自分が幸せになれる方は前者だって、分かってる。少し前からやたら食事に誘ってくれる彼は職場でも真面目で人柄が良いと好評で、周りからも慕われてるから、余計に。

 それに、ここで男性を選んで帰りが遅れたら、さすがの樹希さんもちょっとは嫉妬してくれるかも?なんて邪念も抱く。

 だから絶対に、どう考えたって前者だって……思うのに、頭では分かってるのに。


『なに食べたい?』


 愚かなことに、後者を選んでしまった。


『はんばーぐ。材料買ってあります!』

『わ、準備万端だね。帰ったらすぐ作るから待っててね』

『まってる!はやく帰ってきて』


 バカだなぁ……って、自分でも思うけど。


「ふふ、かわいい…」


 母性本能をくすぐってくるこの可愛さの前では、天秤にかけなくても振り切れちゃうくらい思考なんて無意味だった。

 一応、失礼にならないように、職場の男性にも断りの連絡を送って、タイミング良くやってきた電車にるんるんな足取りで乗り込んだ。

 材料はもうあるって言ってたから…駅に着いたらタクシー使っちゃお。

 一秒でも早く帰りたくて、いつもなら好んで歩く徒歩十五分程度の駅から家までの道も、今日は車を頼ることにした。


「ただいま」

「あ、優奈ちゃん。おかえり」


 急いで帰ったことは微塵も見せずに、平静を保って玄関の扉を開けたら、彼女はわざわざ寝室から玄関へと歩いてきて出迎えてくれた。


「外、寒かったでしょ。私あっためるよ。おいで」

「ん…ありがとう」


 手を広げた相手の胸元へと靴も脱がずに入っていって、暖房の効いた室内にいたからか温かい衣服と腕に包まれる。

 ……落ち着く。

 仕事の疲れは、数秒のハグだけで癒やされた。

 わたしよりも身長の高い彼女は、人のつむじあたりに鼻先をうずめてさり気なく匂いを嗅いでいた。それも別に嫌じゃない……むしろ嬉しいとさえ思うから、気付かないふりで放置する。


「優奈ちゃん、頭皮の匂いまでかわいい…」

「そ、そんなとこ褒められたの初めて」

「一生嗅いでられる」


 何気なく言った言葉が、容赦なく心臓を刺す。


 “一生”なんて。


 わたしにとっては重い意味合いの言葉を、そんなにも簡単に言えちゃうのは、それだけ彼女の発言には心がこもってなくて軽薄だからだ。


「…ご飯の前に、優奈ちゃんのこと食べていい?」


 こうやって体を求めてくれるのも、彼女にとってはただの日常や習慣の一部で、たいした意味合いや感情は込められてない。あるのは……性欲だけ。

 それでも、彼女の願いを聞き入れたくて頷いてしまう。

 彼女に連れられて寝室のベッドへと移動したはいいものの……正直、明日も仕事で朝早いし、今日は今日で残業してきた疲れもあって、ご飯を食べたらすぐ寝たいくらいの気持ちだった。

 けど断って体さえ求められなくなるのが、怖くて。

 だから多少の無理をしてでも受け入れる。それで嫌われないで済むなら、彼女の中でわたしの存在が必要なものであり続けてくれるなら、なんだっていい。


「ん…?なんか、今日疲れてる?優奈ちゃん」

「…へいき。疲れてないよ」

「うぅ〜ん……でも、いつもより濡れてない…」

「あ……ご、ごめんなさい…」

「謝ることじゃないよ、大丈夫。優奈ちゃん悪くないから。濡れにくい日なだけかな。……でも心配だし、今日はやめとこっか」

「っ……へ、へいきだから…!」


 繋ぎ止めておくことに必死で、樹希さんが驚いたのも構わず普段は出さない大きめの声を出した。


「ろ、ローション使って?わたし持ってるから…」

「……おなかすいちゃった」

「え?」

「やっぱり食べてからにしよーよ。作るから待ってて」


 今度は引き止める隙も与えないようにか、パッと立ち上がって樹希さんは寝室を出て行った。

 置いて行かれたことに焦ってわたしも慌てて飛び出したら、冷蔵庫の中を覗いていた彼女がそばまでやってきて、


「…作ってる間、少しでも休んどいて」

「で、でも…」

「ちょっと寝て、ご飯食べて、元気になったらいっぱい触らせて。ね?だからおやすみ」


 額にキスを落としてから、また寝室へと戻されてしまった。

 そうは言うけど樹希さん……料理なんてできるのかな。前に、家事できないの判明してたけど…

 色んな意味で心配になるものの、ひとりになった途端に気が抜けたのか睡魔が襲ってきて、ベッドの上にぽすりと倒れ込んだ。

 心も体も疲弊していたおかげで眠りに落ちるまでそう時間はかからなくて、樹希さんが起こしに来てくれるまで、夢も見ないほどの深い睡眠に落ちていた。


「…寝れた?優奈ちゃん」

「ん、うー……ごめん、寝てた…」

「いいんだよ。むしろ寝てくれないと困る。この後たくさんえっちするんだから」

「ん……する…」


 頬に口元を寄せた樹希さんの頭に手を当てて、わたしも頬をすり寄せた。


「もうこのまましちゃいたいけど……ここは我慢」

「…我慢してくれるの?」

「うん。ご飯食べてからのお楽しみにしてるからさ」

「んー……ふふ。そこまで楽しみにしてくれて、すごいうれしい…」

「早く抱きたいから、一緒に食べよ。あーんしてほしい」

「ん、いいよ」

「……あ。でもごめん」


 ベッドを降りて、ふたりで部屋を出る前に、樹希さんは体ごと振り向いて指を揃えた手のひらを見せてきた。


「めっちゃ失敗した。ハンバーグ」


 前置きを入れるくらいだから、それはもう大失敗したんだろうな……という予想の通り、テーブルの上に並べられたハンバーグらしき物体は見事に焦げて、形も保っていなかった。

 もはやそぼろにしか見えなくて、つい頬が緩む。…本当に家事は全般できなさそうで、それがイメージ通りでなんか逆に安心した。


「あ、味は多分……うまい。多分ね」

「見た目もおいしそうだよ?…ちょっと焦げてるけど」

「はぁ〜、優奈ちゃんほんと優しい。かわいい」


 褒められたことが嬉しかったらしい。彼女はわたしを抱き寄せて、グリグリと額を後頭部に押し付けてきた。

 子供に甘えられてるみたいで微笑ましく思いながら軽いキスを何度か交わして、リビングのソファの前に腰を下ろす。樹希さんはソファの上に座った。

 食べてみれば案外……普通にそぼろ風ハンバーグは美味しくて、けっこうパクパク箸が進んだ。


「おいしーね、優奈ちゃん」

「うん、おいしい」

「…食べさせて」

「ん…あーん」


 お互い微笑み合って、平和に食事を終えたら先にシャワーを浴びて、準備も整った頃。


「触ってもいい?」

「……ん。きて」


 同じ毛布に潜り込んで、約束通り行為を始めたはいいものの……寝て食べたはずなのに、わたしの体はいつもみたいに敏感な反応を見せてくれなかった。

 なんで、だろ……気持ちいいのに、なんか頭にモヤがかかる感じで集中できない。

 快感よりも眠気とかが勝っちゃって、鈍い感度にヤキモキしちゃう気持ちも相まってさらに鈍くなってる気がした。


「…やっぱり疲れてる?」

「……へいき」

「そっか」


 わたしの反応が良くないせいか、樹希さんも萎えちゃったみたいで……その日は■まで入り込むことなく行為は終わった。

 不機嫌になった彼女は背を向けてきて、いつもなら抱きしめたり腕枕しながら寝てくれるから、対応が違うことに戸惑いながらも面倒な女にはなりたくなくておとなしく仰向けで目を閉じた。

 疲れも溜まってたから、視界が暗くなると自分でも驚くくらいすぐに眠れた。


 起きた時、朝だというのに隣に彼女はいなかった。


 もしかしたら、わたしを抱けなくて不満に思ったから、他の女の子のところへ行ったのかもしれない。…って、不安に思うけど……でも。

 …繁忙期が過ぎるまでは、この方がいいのかな。

 今は満足させてあげられないし、文句を言える立場でもないからと、無理やり自分を納得させる。本音を言えば、わたしだって何も気にせず抱かれたい。


 でも現実的に、体力的にもむりだもん。


 だから仕方ない。


 そう言い聞かせることで、なんとか沈みかけた気持ちを持ち直した。


















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