第3話
目の前でキスなんかしちゃったから……案の定、樹希さんは真司くんを怒らせて胸ぐらを掴まれていた。
こうして並んだところを見ると、身長差そんなにない…むしろ真司くんのほうが少し低いかも。彼は男性の中では背が高い方ではないのと、樹希さんが思ったより大きいせいかな。
なんて、この期に及んで呑気なことを考えてしまう愚かなわたしに天罰が下ったのか、そのタイミングで樹希さんが綺麗な顔を真正面から殴られてしまった。
「うっわ……痛いよ、おにーさん。何すんの」
よろけて鼻の辺りを押さえた彼女は、強がりなのか本当に気にしてないのか分からない、あっけらかんとした口調で呟いた。
「いてて、鼻血出ちゃった…」
「彼氏の前でキスしやがって……バカにすんのもいい加減にしろよ、なんなんだよお前!」
「だから〜、もうあんたは彼氏じゃないんだって。今さっきもフラレてたじゃんか。てか二回もフラレるなんてかわいそ…」
「黙れよ!優奈が俺をフるなんてありえない!」
「そうだよねぇ……そう思いたいよね。気持ちは分かるよ。わかるわかる」
自分を殴ってきた相手だというのに、友好的なノリで肩に手を置いた彼女の行動にも腹を立てて、真司くんはまたもう一発……今度は頬の辺りに拳を振るった。
それを見て、慌てて全裸であることも忘れて止めるに入る。
「っだ、だめ…!落ち着いて、真司く…」
「そもそもお前のせいでこうなってんだよ!」
「きゃ…っ」
だけどすぐ、強い力で振り払われてベッドの上へと倒れ込んだ。
「俺のこと、裏切りやがって…」
涙で濡れた瞳を憎しみの色で染めて、わたしの上へと馬乗りになった彼の姿を絶望した思いで眺める。
頭に浮かんだ通りの行動を起こそうとした手が首元に触れるよりも先に、脇の下から伸びてきた手が真司くんの体を止めた。
「はーい、待ったまった。暴力はだめだってば」
さっき自分も一発殴ってたことは平然と棚に上げて、そのままベッドの下へと引っ張り降ろされた彼は、「離せ」と大きな声を出したけど……それも構わずズルズル引きずりながら樹希さんは廊下の方へと歩いていく。
「あ。……ごめん、おねえーさん!全裸のとこ悪いんだけど、ドア開けてくれない?」
「え……あ、は…はい」
玄関先から声が聞こえて、慌ててベッドを降りて廊下を出る。
ジタバタと暴れる真司くんを、面倒くさそうな顔で羽交い締めする樹希さんのそばを横切って玄関の扉を開けたら、彼女は「よいしょ」と力を振り絞った声を出して彼を外へと放り投げた。
そして、呆気にとられた真司くんがまた入ってくる前に扉を閉めて、鍵とチェーンをかける。
「よし、これでうるさいやつはいなくなったね」
手をパンパンと叩いて笑いかけてきた樹希さんの鼻からは大量の血が流れ出ていて……冷静なった途端、わたしの頭からも血が引いていく感覚に襲われた。
「って、手当しないと…」
「あー……大丈夫だよ、このくらい。そのうち止まるでしょ」
「だ、だめ……こっち来て。タオル当てなきゃ」
本人は平気な様子で言ったけど、心配が勝って腕を引いた。
とりあえず部屋に戻ってベッドに座らせてから、薬や絆創膏なんかをしまっている棚の一部を落ち着きなく漁る。
怪我の多い日常だったおかげで、応急処置に必要なものはひと通り揃ってて、その事には安堵した。
「おい!開けろ……チェーン外せ、優奈…!」
「あ…」
樹希さんの元へ行こうとして、玄関の方から聞こえた怒声に足を止めた。焦りすぎてて、すっかり彼のことを忘れちゃってた。…そういえば合鍵、持ってるもんね。
でも今は……とベッドへ向かおうとしたのに、
「ごめん、俺が悪かった……優奈、開けてよ…」
今度は弱々しい声が聞こえて、良心を痛める。
怒るのをやめた彼は、泣いてるのか鼻をすすってるみたいで、さらに心を抉られた。自分が、酷いことをしてる気分になって……思わず、つま先が廊下の方へと向かう。
「またそうやって……殴られに行くの?」
歩きだしてしまう前に樹希さんの声に引き止められて、喉の奥が締まるような感覚がした。
ここで彼の元へ行けば、痛い目に遭う。
……分かっているのに、見捨てきれない。
今も、ずっと玄関の向こうからは「俺のせいなんだよね、ごめん…」とわたしの気持ちに寄り添うような言葉の数々が繰り返されていて、もし本当に反省してくれてるなら…?と甘い考えが頭をよぎった。
しばらくの間、どうしよう……とベッドか玄関かどちらへ行くべきかオロオロ迷っていたら、
「こっちおいで」
わたしを呼んだ彼女の、鼻を押さえる手が血まみれになってるのを見て……心苦しく思いながらも彼のことは一旦、無視をすることに決めた。ごめんなさい、真司くん。
また再開された怒鳴り声が響く中、ベッド脇に座って、彼女の顔を斜め下を向かせる形で膝に乗せる。
垂れた血を拭うためのタオルを手渡したら、樹希さんは「わぁ〜、ありがとう」とマイペースな声を出してそれを受け取ってくれた。
「…こういうのって、ふつう上向きじゃないの?」
「それだと、鼻の奥で血が固まって塞がれちゃうらしいの…」
「へぇ〜……知らなかった。物知りなんだね」
「うん。だから、あんまりこっち向かないで…」
自分が裸だっていうこともあって、見られたくない気持ち込みで伝えたら、どうしてか体の向きを反転させてわたしのお腹の方に顔を向けてきた。
血が止めるまでの暇つぶしなのか、おへその辺りを指でクリクリといじられる。
「や、やだ……そこ…」
「くぅ……その反応えろいな〜。えっちする?しちゃう?」
「し…しません。だめだよ、鼻血出てるのに……それに、その……真司くん、まだいるし…」
さっきからドンドンと響き渡る玄関の扉を叩く音に、樹希さんも納得してくれたのか「確かに」と呟いてムクリと体を起こした。
「あいつ邪魔だなぁ……呼ぶか」
「え、誰を…?」
「んー…?おまわりさん」
鼻を押さえたままスマホを手に取って平然と言った後で、警察に電話をかけたんだろう…スマホを耳に当てる。
なにやら話し出したのを見て、その間に……とそそくさ散らばっていた自分の服を集めて服を着ておいた。
電話を終えて、待ってる間は鼻血を止めるために何もせずおとなしく過ごして、十数分程度で警察が到着したらしく、ずっと聞こえていた怒声も静かになる。
そうなってからようやく、ふたりで玄関先へと向かった。
「通報してくれた方ですか?ちょっと、お話お伺いしてもよろしいですか」
「はーい、いいっすよ」
警察に対しても臆することなく、樹希さんは普段通りの軽いノリで質問に答えていた。
わたしも聞かれたことには、吃りながらもなんとか答えた。……何も悪いことはしてないはずなのに、警察と話すことなんてないからか、変にビクビクしちゃう。
「だから!俺は、浮気されたの!それで揉めただけで何も悪いことはしてないんだよ!これはただの痴話喧嘩で、殴ったのはあいつらが悪いからで…」
「まあまあ、落ち着いてください。殴ったのは確かなんですね?それなら署で話を聞きますから」
「ま、待ってよ。なんで俺が悪者扱いなんだよ!俺は浮気されたんだぞ!それも女と!」
真司くんは真司くんで、もうひとりの警察官と話してたけど……どうやら不満らしく、かなり荒れていた。
その結果。
「お前のせいだ、お前の……優奈…!」
「ひっ…」
「わわ!待った、おにーさんスト……んぶっ!」
荒れに荒れた彼が警察の静止も振り切って、警察の前でもう一度わたしのことを殴ろうとして、それを庇った樹希さんが見事に真正面からのパンチをまた食らって……現行犯で逮捕される形となった。
警察からの勧めでわたしたちはその日のうちに病院へ行くことにして、近場の整形外科へとタクシーで移動した。
申し訳ない気持ちからタクシー代を支払ったら、それだけで樹希さんは「やさしーね」と褒めてくれる。…優しいのは彼女の方だ、と尊敬する想いばかり募った。
「あー……それにしても、大事な商売道具に傷付けちゃったなー…」
「……商売道具?」
「この顔のこと」
「顔…?なんのお仕事してるの?」
待合室にいる間、彼女は心底落ち込んだ様子でうなだれていた。
気になる単語が出てきたから聞き返してみたら、ほんの少しだけ言い淀んだ後で、
「女の子を幸せにする仕事」
冗談なのかよく分からないことを、ヘラリと笑って教えてくれた。
「そのお仕事でお金……貰ってるの…?」
「んー…貰う時もあるけど、主に体で払ってもらってるよ。後はプレゼントとか」
「そう…なんだ」
社会人になってもう三年も経つけど、まだまだ知らない世界があるんだなぁ…と真に受けて感心した。
……きっと、モテるもんね。
明るくて気さくで、おまけに美人で…そんな彼女だから、そういう仕事でも成り立つんだと思えば納得できた。
「あれ。もしかして信じてる?」
「え?……うん」
「冗談だよ。…ただのヒモってやつ。仕事じゃないよ」
「あ……そっか。そういう…」
「…おねーさん、ピュアでかわいいね」
思わぬところで褒められて、動揺した心で頬を赤らめた。
そ表情の変化に気が付いた彼女が、わたしの顔を覗き込むようにして、悪戯に微笑む。
目が合うだけでときめくなんて初めてのことで、どうしたらいいか分からないまま……とりあえず唇を閉めて息を止めた。
「そういうかわいい顔は、ベッドの上だけにしてね」
頭にポンと手を置いて、それだけを言い残してタイミングよく呼ばれた彼女は私を置いてその場を去った。
受診の結果は、わたしは全身に残る打撲の跡を診てもらっただけで終わって、樹希さんは鼻腔内部を切っただけで、骨とかは折れてなかったみたいで……その事に心底ホッとする。彼女も「鼻曲がらなくてよかった」と安心していた。
診断書やお薬なんかを貰って、その後は警察署に出向いてから諸々を済ませてようやく帰路についた。
帰り道、彼女はずっと鼻に当てたガーゼをさすっていた。
「いった〜……まさか一日に二回も鼻血出すことになるなんて思わなかった。血、足りるかな…カルシウム取らないと」
「それを言うなら、鉄分だと思う…」
「そっか、鉄か……あ。レバーとか食べに行く?焼肉よくない?どうっすか」
「樹紀さんが、食べたいなら…」
「おねーさんは食べたい?」
聞かれても、どう答えたらいいのか迷う。
正直、あんまりお腹空いてないのと、疲れたから家に帰りたいんだけど……樹希さんは、食べたいかな。…食べたい、よね。
「た…食べたい」
「うん。じゃあ行こっか」
自分の意見は押し殺して、手を引かれるがまま歩いた。
ちなみに焼肉のお会計は、
「おねーさん、病院のお金も出してくれたから」
そう言って、樹希さんが払ってくれた。
自分でヒモだっていうわりには、律儀な人なんだな…と、久しぶりに誰かにお金を払ってもらえる食事を、申し訳なく思いつつも……彼女の接しやすい性格もあって、なんだかんだで楽しめた。
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