第2話



























 居酒屋で飲んだ後は……どうしたんだっけ。


 記憶をさらにまさぐっていく。


「…飲み足りないんで、コンビニ寄っていいすか」

「あ……うん」


 そうだ、確か……帰路の途中、樹希さんに連れられてお酒を買うためコンビニに寄った。

 それで、お酒が好きだという彼女はビールを数本とワインをひとつ、おつまみをいくつかかごに入れながら店内を回って、わたしはその後ろを黙ってついていった。

 レジについてから、わたしの方が年上だし、相手はまだ大学生だから……と、何も言わずに財布を取り出してお会計を済ませた。ちなみに大学三年生だそう。

 そんなわたしを見下ろして、樹希さんは静かな声を出した。


「……ほんと優しいですね」

「え?そ…そんなこと、ないよ」

「奢ってくれたお礼に……なんでも悩み相談乗りますよ。それに、買ってもらってひとりで飲むのも申し訳ないんで。宅飲みしませんか」

「いやいや。気にしなくていいよ、そんなつもりで出したわけじゃないから…」

「私が、一緒に飲みたいんです」


 綺麗な顔がそばに来て、真っ直ぐな瞳で見つめられて、少したじろぐ。


「だめですか?」


 寂しそうな雰囲気で聞かれたら、断れるわけもなくて。


 結局、わたしは彼女をひとり暮らしの家へと招いてしまった。


 帰るまでの間、変に緊張しちゃって歩きながら缶ビールを何本か開けたせいで…家に着いた頃には、居酒屋を出た時よりもだいぶ酔いが回っていた。

 フラフラな足取りのわたしを支えて、リビングまで連れて行ってくれた樹希さんは、ソファにそっと体を寝かせてくれた。

 ペットボトルの蓋を開けて水まで飲ませてくれて……彼氏にもこんな優しい対応をされたことなくて戸惑いつつも、覚束ない思考でお礼だけはなんとか伝えた。


「ありがとう、ごめんなさい……こんな、酔っちゃって…」

「いえいえ。…でもまさか、そんな弱いだなんて思ってなかったな。ごめん……むりに誘って。大丈夫ですか?」

「ん、へいき……ごめんね、宅飲みするって話だったのに…」

「あー…それ、ただの口実なんで。気にしないで」


 樹希さんの手が体の横に置かれて、半ば覆い被さる状態で髪を撫でられた。


「だめじゃないっすか、クズって分かってる相手を家に上げたら」


 頬に当たった指先は冷えていて、その冷たさが火照った体温から熱を奪う。

 酔いすぎててあんまり状況がよく分かってない状態で、わたしを静かに見下ろす相手の顔をぼんやり見上げた。


「だから、私みたいなやつに狙われるんですよ」


 相手の言ってることを理解する前に、唇には柔らかな何かが当たっていた。

 そういえば、最後に真司くんとキスをしたのはいつだろう……久しぶりな気もする他人の唇の感触に、どこか呑気な頭でそんなことを考える。

 思えば数カ月は、暴力を振るう以外で触れられていなくて、自覚してしまった途端に寂しくなった心は、目の前の相手に体温を求めて縋ってしまった。

 そこからは、なし崩しに服を脱がされて、素肌が露わになって体の痣を見つけるたび、彼女はそこへ柔く唇を押し当てた。


「…これ、痛くないの?」

「い、今は……へいき…」

「そっか。…今日は気持ちいいことだけしようね」

「ぅ…んん」


 あちこちに唇をつけては跡を残していくのを見るのは、まるで彼の残した痕跡を上書きして消してるかのようで、いくばくかの寂しさと背徳感に苛まれた。

 それでも、最終的に湧いて出るのは愉悦に浸るような思いで、堪えきれない感情は恥ずかしい声となって外に出る。

 今まで彼氏にもされた事がないくらい、丁寧な手つきで体中を愛でてくれた樹希さんは、


「…本当に嫌だったら、やめるから」


 わたしの■■へ入る直前になって、優しくそう声をかけた。


「何も言わないなら、しちゃうよ」


 なんて返したらいいか分からなくて、恥ずかしさも相まって黙っていたわたしにキスをひとつ落として、強引な言葉とは裏腹に探るような仕草で彼女はゆっくりと指先を沈めた。

 正直、何をされてるのか頭が追いつかないほどには気持ちよくて、その先のことは本当によく覚えていない。

 ちゃんと覚えてるのは、たまに耐えきれず溢れていた相手の吐息感とか、わたしの体が無自覚なまま人生で初めての■■を迎える瞬間に、


「大丈夫……かわいいよ、優奈さん…」


 頭を撫でられながら耳元で囁かれて、「あ……名前、覚えててくれたんだ…」なんて、単純な思考回路で喜んだ心の感覚だった。


 そして多分、そのまま寝ちゃって……今。


「思い出してくれた?」


 わたしの隣で微笑んだ樹希さんを見て、頭を抱えた。


 や、やっちゃった……

 彼氏と別れてすぐ、出会ったばっかりの人と、文字通りヤってしまった。その事が、今になって大きな後悔として襲いかかってくる。

 未だ抜けない真司くんと付き合ったままの感覚があるせいで、ものすごく悪いことをしてる気分になる。

 浮気……ではないけど、別れた翌日…なんなら当日に他の人とえっちしたなんて知ったら……真司くん、絶対に怒るよね。


「あぁ〜……どうしよう…」

「大丈夫っすよ、私が後で先輩に絞め殺されるだけなんで」

「そういう問題じゃないよぅ……そしてそれも良くない…」


 悩みがひとつ追加されて、さらに頭を抱えたくなる気持ちは強まった。凛ちゃんにもなんて説明しよう…


「まあまあ。悩んだ時は、きもちいいことして忘れましょ」


 どこまでもマイペースな彼女は唸るわたしを抱き寄せて、慣れた仕草で額に唇をそっと当てる。

 そんなのだめ……って、言いたかったんだけど。


「大丈夫。優奈さんは悪くないから。…全部、私のせいにしていーよ」


 結局、耳触りのいい言葉に絆されてまた……体を許してしまった。


 後に引けない現実から逃げたかったのもあるけど、それよりも樹希さんに触られるのが困ったことに嫌じゃない……むしろ、かつてないほど気持ちよくて。


「…なんか、反応が■■みたいでかわいいね。慣れてない?」

「っわ、かんな……ぅう〜…っ」

「はぁ……かわいい。たくさん甘えて、たくさん気持ちよくなろうね」


 欲に負けたわたしの愚かさごと優しく包み込んでもらえたら、なんかもうそれだけで満たされた気になっちゃって……自分で思ってたよりも、自分が愛情と体温に飢えていた事を知る。

 行為中、樹希さんはずっと「かわいい」とのぼせた声で褒めてはキスをしてくれて、良くないと分かっているのに期待で心臓が高鳴った。

 ……他の女の子が、好きになっちゃうのも仕方ない気がする。

 こんなにも大切に扱われて、甘い声で囁かれたら、きっと誰だって揺らいで、勘違いしてしまう。

 わたしも、そのひとりだった。

 あの凛ちゃんが「クソ女」って言うくらいだから相当ひどい人なんだって頭の片隅で理解していて、それでも抗いがたい心地よさに逆らえなくてのめり込む。


「ほら…自分から、キスできる?」

「ん、うん…ぅ」

「……上手だね、かわいいよ。足りないから、もっとしてくれる…?」


 そうやって甘えられるのも嬉しくて、相手の首にしがみつきながら必死で唇を重ねては、ゾクゾクと駆け抜ける刺激に脳■を貫かれた。

 無我夢中で堪能して、堪能されて……事を終えたのは、日が昇りきった正午のことだった。

 朝から昼まで抱き潰されて疲れきった体を、ベッドの上で休ませる。樹希さんは、汗を流したいとシャワーを浴びに行った。


「きもちよかったな…」


 まだふわふわしたような感覚の中、自然とそんな感想が口をついて出た。

 過去の記憶を思い起こしてみても、あんな風に抱かれたことはない。それが虚しいことであったと、こうなってから初めて知った。

 女の人と付き合うのもいいかも……なんて、めでたい頭で考えていたら、うつらうつらと意識は白濁としていく。

 

「おい……どういうことだよ…」


 そこへ、聞き馴染みのある声が届いた。


「起きろ、おい!ふざけんな」


 夢の世界へと誘われる前に頬を雑に叩かれる痛みで目を覚まして、現実へと引き戻される。 

 瞼を上げれば、怒った顔の真司くんがわたしを見下ろして目をつり上げていた。


「お前、浮気してたの?」

「あ……ち、ちがう。ちがうの、これは…」

「だからいきなり別れようって言ったのかよ。ふざけんなよ!」


 感情的になった怒声に怯えて、身を縮める。

 そんなわたしから毛布を奪い取って、現れた裸体を見てさらに真司くんの瞳に怒りが滲んだ。

 次の瞬間には、ゴチンと頬を思いきり殴られていた。

 何が起きたのか理解してない頭で、それでも咄嗟に自分の体を守ろうと動いた腕で、顔を覆い隠す。いつもの流れなら、一発で済まないと分かってる防衛本能が無意識的に取った行動だった。


 だけど、いつまで経っても恐れていた二回目の痛みはやってこなかった。


「殴るのはだめでしょ〜、おにーさん」


 ノリの軽い声が聞こえたから、おそるおそる目を開けたら……真司くんの腕を掴んだ樹希さんの姿が視界に映る。


「とりあえず、一発お返ししとくね」


 その言葉の後に、躊躇いもせず相手の頬に向かって拳を振った彼女を、絶句して青ざめた顔で見上げた。

 殴られた勢いで床に倒れ込んだ真司くんも、わたしと同じような顔をして「いてて」と手をプラプラさせる樹希さんを、頬を押さえながら見ていた。


「殴るのも大変だね。よくやるわ」

「お…まえ、女と浮気してたのかよ……どういうことだよ、優奈!」

「浮気も何も、もう別れてんじゃんね?やだやだ」


 ベッド脇に腰を下ろして、わたしの方を向きながら呆れて呟いた樹希さんは、憤る真司くんをまるで気にも留めていない様子で笑った。


「怖かったね、おねーさん。…大丈夫?」

「あ……だい…じょうぶ…」


 不安を落ち着けるために頭を撫でられて、安心よりもヒヤヒヤする。真司くんの前でこんなことしたら、また殴られちゃうんじゃないか…って。

 怯えたわたしの思いを汲んでか、さらに甘やかす仕草で頭の後ろに手を回して頬を寄せた彼女の行動に、予想通りブチギレた真司くんが体を起こして怒声を上げた。


「俺の優奈に触るな!」


 わたしの時みたいに手を出そうとしなかったのは、彼の中での何か線引きがあったのかもしれない。

 もしくは、こいつなら殴ってもいい……と、わたし相手にはそういう気持ちが働いてたから、暴力に走ってただけなのかも。もしそうなら、とことんナメられてただけなんだ…と、自分で考えてて悲しくなった。

 怒鳴られても動じない樹希さんは、わざとらしくため息をついて肩を竦ませた。


「……残念。もうあんたの女じゃないよ」

「っど、どうせお前が別れさせたんだろ?じゃなかったら優奈から別れようなんて言うはずない」

「んー……でもそれで分かったって送っちゃった時点で、おにーさんの負け。諦めた方がいーよ」

「っっ…ふざけんな!こんなんで諦められるわけないだろ!」

「そっか。じゃあヨリ戻せば?」

「え…」


 真司くんもわたしも、樹希さんの発言を聞いて呆気にとられた。


「…どうする?おねーさん」


 こんな状況なのに、穏やかな手つきで髪を触られながら、優しい声色で確認された。わたしを見つめる瞳は、どこまでも温和に細まって、微笑む。

 すぐに答えを出せるわけもなくて、言葉を詰まらせた。

 ここで、別れたいなんて、言ったら……漠然とした恐怖も不安も込み上げる。


「優奈……分かってるよな?俺のこと、まだ好きなんだろ?寂しかっただけなんだよな?な、今なら許してやるから…」


 優しい声色の中に必死さが滲み出るような口調で説得されて、さらに葛藤する気持ちの中で揺れ動いた。

 昨日までのわたしなら、迷うことなく真司くんを選んでた。なのに、今は……


 好きじゃ、ない…


 また痛い思いをしたくない。逃げたい。


 でも、真司くんを選ばないと……


「…どうしたい?優奈さん」


 血迷った思考は、たった一言。


「いや…だ。別れたままが、いい…」


 きっと、何を言ってもわたしの意思を尊重してくれるだろうという安心感を与えてくれた樹希さんのおかげで、正気に戻った。

 言ってすぐ、彼女の冷えた指先が頬を触って、微笑を浮かべた綺麗な顔が視界を埋めた。


「よく言えたね」


 甘やかすようにも聞こえる囁きの後、人前だというのにそれさえ気にせず、彼女はわたしの唇を……心ごと奪い去っていった。























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