第14話 二夜の部屋
新幹線に乗って金沢駅からおよそ15分。最終目的地である加賀温泉駅に到着した。
俺はここに幼い頃来たことがあり、その時は新幹線など走っておらず、金沢から特急で来たことを覚えている。
駅も古き良き印象であり、知ってる人がいるかは分からないが、特急や普通電車の停車位置吊り下げ札などがワイヤーで吊り下げられていて、次の電車がどこに止まるかを教えてくれるというものがあった。
父親と手を繋ぎ、その吊り下げ札の前で電車を待っていたのが懐かしいものである。
そこから見える景色も緑やトタン屋根の町工場みたいな建物や古民家がまばらに広がる落ち着いた景色。謎の大仏も見えたのだが、今はその大仏もどこにあるのか分からないし見えない。
駅前も少々寂れた商店街がある地方都市のような感じだったのだが、今ではその面影はひとつも無く、立派な高架駅と広い駅前ロータリーで整備されている新しい風景へと変貌を遂げていた。
やはり自分の知る小さな頃の思い出がこうして一つ一つ新しいものへと変化を遂げてしまうのはどこか心に来るものだ。
「あの車ですね。向かいましょう。」
「ああ。」
駅の改札を抜けて、広々としたロータリーに向かうと、今度は衣織さんが俺の前を歩き、俺をホテルのお迎えの人の元へと案内してくれる。
この表情と声色から、先程の金沢駅での俺の声は聞こえていなかったのだろう。
新幹線の中で俺たちは何一つ言葉を交わさかなったので、彼女の機嫌を損ねてしまったのではないかと焦ったがその様子は見られない。
無駄な口を開いてしまったと後悔している。今後は気をつけるとしよう。
彼女は一直線に予想通りの真っ黒な車へと向かっていき、その車の前に立つと自動でドアが開いた。その機構、タクシーでしか見たことないっての…
「では乗らせて頂きましょう。」
「ああ。」
彼女は何食わぬ顔で当たり前のように車に乗り込んだ。俺は正直ビクビクしながら乗り込んだ。
こんな豪華な車に乗るのは初めてなので正直分不相応すぎて恥ずかしいのだ。
車の中は、そこまで広々とした感じはしないものの、奥行だけは広く、薄型テレビや相変わらずライトアップのように見える間接照明。なんと天井は星空のように見えるLED照明まで着いていた。
もちろん冷蔵庫も完備されていて、リクライニングなども無いわけもない。
流石に行きの栄婦人の車とは違い運転手の顔が見えるので、気になるところは多々あるが内装はいじらない。
そして15分ほど乗った所で運転手さんが「到着です。」と一言だけ残すと、自動でドアが開き、トランクの荷物は既に従業員さんによって運ばれていた。
車を出ると、ドアマンのような方が頭を下げてフロントへと案内してくれた。背負う予定であったリュックも全て従業員さんに回収されてしまい、俺らは手ぶらだ。
森林に囲まれたガラス張りの入口を入ると広いフロントが広がっており、一人の男性が正面で待っていた。
「栄様、梅田様、本日は遠路はるばるお越しいただきありがとうございます。本館の館長を務めております長岡と申します。本日と翌日の担当をさせていただきます。よろしくお願いします。」
館長さん直々のご挨拶と直々の担当というなんとも俺にはもったいなく、彼女にはピッタリのおもてなし…
「よろしくお願いします。」
「よろしくお願いします。」
彼女が頭を下げるのと同時に俺も頭を下げた。こういう経験はしたことがないので、自分にとっては何にも変え難い良い経験だ。逆に彼女は普段からこうした挨拶、社交に慣れているのだろう。こういう場に出させられた時に頼りにさせてもらうとしよう。
「それでは御二方の部屋にご案内させていただきます。」
スーツがピシッと決まり、髪の毛を纏めて固め、一つ一つの所作が美しい。歩き姿も背筋が真っ直ぐに伸びているし足音が一つも立っていない。
この男の人の後ろを歩くのは何故か男として負けた感じがするのでとても恥ずかしい。
となりを歩く彼女は言わずもがなうつくしい所作である。文句のつけ所がないとはこのことだ。クラスではその所作の美しさ故に少々浮いている感覚はあるが、今この場においては明らかに俺だけが一人浮いている。
早く部屋に着いてくれ…
俺は切にそう願ったのであった。
・・・
「こちらの部屋をご利用ください。御用の際は部屋の中にあるインターホンをご利用ください。それでは私は失礼します。」
こうして案内されたのは、ホテルの一番奥も奥の部屋。和洋混合したなんとも使い勝手の良さそうな部屋であった。
なんと部屋付きの温泉が三種類もあるそうで、これはたったの二泊で楽しみ尽くせるかどうか心配になってしまう。
どうやらその温泉のうち二つは露天風呂であり、常緑樹の森林に囲まれた絶景風呂なのだとか。冬の露天風呂ほど嬉しいものは無い。
そう。文句一つない完璧な部屋なのだ。
ここまでであれば完璧な部屋ではあるのだよ。部屋は完璧なのだがシチュエーションが宜しくない。なぜこうなってしまったんだ。これは栄婦人のせいだとしか言いようがない。
「ベッドもひとつしかありませんね。」
「それは本当か?」
「はい。他にベッドも敷布団も見あたりません。」
そう。彼女と俺は同じ部屋に宿泊することになっていたのだ。念の為何かの間違いではないかと先程の長岡さんに、質問してみたのだが、「間違いなく一部屋ですね。栄様から何度もそう確認させられましたので。」と返答されたので疑いようもない事実であるのだ。
これの何が問題なのかと言うと、事前にこの温泉を使うなどと認識を合わせない限り最悪二人とも己の肉体を晒してしまうことになりかねないという事だ。
出会って一ヶ月の付き合ってすらいない男女でそれはまずい。
ベッドに関しては俺がソファで寝ればなんの問題もないので、あとは衣織さんの感情次第だ。
俺らは一旦部屋の前に置かれた荷物を部屋に入れて中身を整理する。そしてある程度片付き終わったのを確認して彼女に問いかけた。
「ということで最優先事項である風呂の時間を互いに決めよう。まかり間違っても湯船で遭遇なんてことはあってはならない。」
「そうですね。私は問題ありませんが流石に凪紗さんも素の姿を見られるのは恥ずかしいでしょう。」
どこが問題無いのだろうか。やはり何処か彼女は常識がないようだ。普通はこういう事を言うのは逆だろ。男は見られて恥ずかしがる側では無いだろうに。
「とりあえず時間も遅い。既に夜の9時を回っている事だし、遅めの夕ご飯が十時半に部屋に来る。だから最初の三十分は衣織さんが石畳の方の露天風呂を。俺はヒノキの方の露天風呂に入る。そして三十分たったら交代しよう。」
「分かりました。そうしましょう。間違えて風呂に入ったら申し訳ありません。」
「それは冗談だろ?流石に。」
「ではお湯をいただきます。」
「ちょ!?え!?肯定してくれないの!?」
彼女は俺の事を気に留めず脱衣所に向かった。
頼むから冗談であってくれ…これで本当に来たりなんかしたら家に帰ったあと栄婦人にどんな面下げて会話すればいいのか分からなくなるっての。
五分くらい頭の中でごちゃごちゃと考えていたが、俺は注意したからな。もうここから先は俺の知ったことでは無い。
そう振り切ることにした。
彼女も脱衣を終えて湯船に向かったはずなので、俺も脱衣所に入り服を脱ぎ、ヒノキ風呂のある露天風呂のドアを開けた。
冬の北陸の冷たい風が肌を鳥肌立たせるが、直ぐに暖かいシャワーを浴びて、このお湯と空気の温度のギャップにすぐ心地よくなった。
体を洗い終わり湯船に入ると、ヒノキの気品高き香りが嗅覚を和ませ、湿度ある冷たい空気が同時に花と胸を通り抜ける。
まず足の裏から滑らかな木がしっとりとした質感で迎えられ、ゆっくりと座ると今度はお尻と腰が木の質感を感じ取る。そして最後に背中と肩を寄っかからせることで全身にヒノキを感じとることができるようになる。
それこそ視界の木々やひのきに触れている面積の触感、そして花と胸を通るひのきの香り広がる湯気。
暖色のライトはこの自然溢れる穏やかな雰囲気をより際立たせ、訪問者を極限まで寛がせる。
『ああ、なんて俺は幸せなんだ…』
この至福の時をあと15分は楽しめると思うと、そして明日も楽しめると思うと言葉にすらならない感動が胸の温かさとともに大きな深呼吸とともに冷たい空気の中で白く形に残る。
時計の針は9時20分を指している。あと十分弱を充分に楽しませていただくとする。
俺は大きく息をつき、静かに目を閉ざしたのであった。
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