第4話 湯葉の重み



「おはようございます。」


ホテルの朝食に向かおうと部屋のドアを開けると、そこには昨日と違う服装で登場した少女。


一体昨日の持ち物のどこにそんな服を詰めるスペースがあるのかと疑いたくなるが、忘れてはならない。彼女は裕福層の家庭だ。きっとホテルの電話を使って親と接触を図り、早急に必要なものを揃えたとかそういう事だろう。


そして俺が彼女を保護したということもおそらく報告されていることだろう。加えて彼女がわざわざ朝に俺と接触してきたという事は…


「はぁ〜…」


「いかが致しましたか?淑女の前ですよ?」


少々煽り気味の問いかけに俺はしっかりと気づいている。これは相当昨日のことを根に持ってるなと。


あ〜、厄介だぁ…金持ちに関わられると厄介なことしか起こらないんだ……


何を隠そう俺は今まで生きてきた17年間、そのうち14年間を共にすごした友人、倉敷蒼真はボンボンである。地域の私立医療センターのセンター長の令息だ。


幼馴染の俺はそういった層の違う人たちの中に巻き込まれる事が稀にあり、その度に心を折って家に帰る。


それがこんな世間知らずの箱入り娘を抱えるにまで到る金持ちとあらば、それはそれは面倒くささこの上ないだろう。


この場は大人しく身を引こうか…いや、だが朝食の時間は迫っている…昨日の夜結局夕飯を食べることは叶わず、今の俺の腹は空気で満たされておりいつ音が鳴ってもおかしくない状況だ。


しょうがない、強行突破だ。


「おはようございます。いい朝ですね。貴女にとって良き一日にならんこt───」


「まだ何も言ってないではありませんか。相変わらず冷ややかでいらっしゃいますね。梅田 凪紗さん?」


ぐぅ…


名前まで知られてしまったか…これじゃあ今逃げても厄介事はついてまわってきそうだな…


素直に言うことを聞くしかないか…


俺は大きくため息をついて今日一日が休暇でなくハードワークになる事を心の中で許容し、敗北の宣言をする。


「分かりました。大人しく従いましょう…」


「分かってくださるのであればそれでよろしいのです。」


こんな「わかればよろしい」の一言をわざわざ長ったらしく言うのも大変ですな。


俺は彼女に身支度を整えてから荷物を持って出てくるように言われたので部屋の中の荷物をバックパックに詰め込んで部屋を出た。すると彼女もちょうど隣の部屋から出てきて俺を誘導する。


まずホテルのキーをフロントに返して外に出る。


朝の八時ということもあり外はまだ冷え込んでおり、彼女の方は大丈夫なのかと視線を向けるが、既に彼女の装備は万全であり、逆に昼間暑くならないかと心配になるくらいだ。


いい加減お腹が空いてきて、もういっその事目の前のコンビニによらせてもらおうかとも思ったのだが、「こちらになります。」と彼女が手を向けたので我慢することにした。


彼女の示した店はいかにもな老舗。こんな朝早い時間に開店しているのかと思ったのだがそんなのはお構い無しに彼女は引き戸を開けて入っていく。俺もその彼女の後をついて行く。


外観だと狭くてこじんまりした雰囲気であったが、長年使われているであろう木の階段を昇っていくと、外からでは想像しえなかった数の部屋があった。そしてその一つ一つの部屋が個室であり、その個室の一番奥の部屋に光が灯っていた。


彼女はそちらの方へと迷いなく進んでいく。そして俺もそれについて行く。


彼女が部屋の前で止まり簾を開けると、中には座敷とテーブルと鍋。そしてその鍋の中には白い液体が入っている。


「こちらにどうぞ。」


彼女は俺を上座へと誘導して来るが、俺はそこまで不躾なやつでは無い。流石に立場が違う事を理解しているので視線で「下座で十分だ」と訴えるが、彼女に「あくまでも貴方はもてなされる側です。」と言われてしまった。


俺は反論する間もなく上座に座らされると、彼女は俺の正面に移動して間もなく頭を下げた。


「此度は私の命を助けて下さりありがとうございました。室内に留めるどころか、部屋まで譲って頂き、頭の上がらぬ思いにございます。」


綺麗な正座とブレの無い謝礼に思わず「いえいえ、そんなそんな、気にしないでいいんですよ!」と言ってしまいたくなる気持ちをグッと抑える。


「これは私のミスが生んでしまった偶然です。貴女が気になさる事はありません。」


今回の事はこれきりで終わりにしましょうと暗に申し上げる。


正直これ以上関わってしまうとマジで厄介事が増える未来しか見えない。だからこれは一日の夢であって、祝日が終わればそれはお互い日常に戻るという訳で、自分から声をかけた相手に言うのもなんだが、今後会うかも分からない相手とこれ以上の、貸し借りなどしたくもないというのが本音である。


意図丸見えの演技をされた彼女はと言うと、表情の読めない笑顔を浮かべて黙っている。


え〜、まだ何かあるのぉ……


鍋の火は入れられており、超弱火で中の液体が温められている。ほのかに香る穀物の香り。


なるほど、汲み上げ湯葉か。温められているのは豆乳だ。


きめ細かい泡のようなものが表面で踊っている。わずかながらの湯気と共に豆乳のコクの深い香りが空腹の俺の嗅覚を刺激する。


そして


『もう駄目だ、我慢ならん。食事に入るよう話を持って行くか。』


と思ったところですだれの横の柱をコンコンと鳴らす音が聞こえた。


「失礼します。」という女性の声が聞こえ、それに彼女が「どうぞ」と答え、簾が開かれる。すると、外から目の前にいる彼女をそのまま大人にしたような女性が姿を現した。それと同時に俺はこの人を見た事もあるなとも思った。


亀岡駅で見た、高級車に乗ったご婦人だ。


これにはさすがに驚かされた。


『あ〜、昨日部屋に戻ってく令嬢の後ろ姿がどことなく亀岡にいた貸切の令嬢に似ているな〜とは思ったがまさかこんな偶然が起きるとは。』


婦人は彼女の隣に座ると先の彼女と同じように頭を下げて俺に感謝の言葉を述べる


「梅田様、此度は娘の危機を救って下さりありがとうございます。」


「お気になさるほどの事ではございません。宿の部屋を誤って二つ取ってしまったことも全くの偶然でございますから。」


俺は再びこれ以上尾を引くことは無いぞと、しっかり釘をさしておく。


二人揃ってそっくりな笑みを浮かべて並ばれるとこちらとしてはなんと言うか、申し訳ないが薄気味悪い。


とにかく俺はお腹が減って仕方がないのだ。あとあなた達に関わってると厄介なことが起こる未来しか見えない。現にこうしてわざわざ日光まで母親を呼び出して礼などするか普通!?


「それでは良き出会いに、朝ではありますが乾杯しましょう!乾杯!」


「乾杯!」


「か、乾杯。」


三人でコップに入った烏龍茶を右手に掲げ、俺はそのお茶を一口いただく。


大丈夫だよね?俺のにだけ睡眠薬が入ってたりしないよね?


正面の二人は思ったより思いっきりのいい飲みっぷりである。烏龍茶だけど。


「ぷはぁ〜っ!!これがビールならなお良いのだけれど烏龍茶もいいわね〜!!あ!凪紗くんも気にせず食べ始めちゃっていいわよ!衣織も早く食べなさい!!あなたが食べ始めないと凪紗君も箸を出しにくいでしょ?」


なるほど、淑女モードオフということですか。


どうやら婦人は堅苦しいことが嫌いなご様子。表面上しなければならない礼儀や型式にはまともな態度で挑むが、周りの目が無いところならとことんはっちゃけるタイプの人か。


「お母様、行儀が宜しくありませんね。一応恩人であるお客の目の前ですよ。」


衣織と呼ばれた彼女は根の方も意外としっかりしているのかもしれない。昨日の頬を膨らませる素振りからそれなりに感情表現が豊かなのかと思っていたが、意外とそうでも無いらしい。


あと衣織という名前なのか。自分の名前は知られているのに今思えば彼女の名前を聞いていなかったな。


彼女が菜箸で、湯葉を引き上げてポン酢につけて食べる。


「お名前、衣織さんと言うのですね。」


俺のその発言を聞いて婦人は「名乗ってなかったの?」と驚いた表情で衣織さんの方を向くと、ゆっくりと湯葉を飲み込んだ衣織さんが「忘れていました。申し訳ありません。」と俺に頭を下げた。かく言う俺も名前を知られていながらも自分から名乗ってはいなかったので「自分も名乗っていませんでしたのでお互い様でございましょう。」と言葉を残して湯葉をひとつまみ。


口の中で、湯葉が蕩ける。少々の甘みとともにポン酢の澄んだ香りが鼻から抜けて最高のコンビネーションを繰り広げる。


こんなに美味しい湯葉は初めてだ。


少ししたら汲み上げ湯葉の鍋は片付けられ、円状に巻かれた湯葉がガラス皿に乗って来た。これにはだし醤油をかけて、すりおろし生姜やミョウガらもみじおろしと共にいただくらしい。


これまた先程の生湯葉とは違って不思議な感覚だ。これは湯葉独特の食感で薬味を楽しむものだろう。これはこれで俺は好きだ。


旅行の醍醐味と言えばこれだよ。


その地域の観光名所を回るのもいいが、やはり食事も欠かせない。その地域の古くからの伝統料理や、その気候故の珍しい食材や名産品、そして普段隠れてしまうような食材でも、その食材が名産ならそれを主役にしてしまう特別感。


これを感じられずに旅行は出来ない。


日光の食事と言えば湯葉だ。


これだよこれ。日光に来て初めてそれらしいことが出来た気がする。


ここまでに色々なことがあったし、今もその最中ではあるのだけど、これで少しは報われた気分だ……


「楽しんでいただけてるようで何よりよ。」


婦人はパクパクと料理を口に運びながら嬉しそうに言う。


今思ったがなかなかに変なシチュエーションである。前日に少女を助け、その翌日の朝から老舗に入ったと思ったら助けた少女の母さんが登場して、こうして一緒に頂いている。


あと、俺が違和感を抱いているのはこの全体の出来事にとどまらない。わざわざ彼女の母上が登場した点だ。まさか感謝するためだけにわざわざ日光まで来たのでは無いだろう。それなら俺の名前が割られている時点で住所もバレているだろうし、感謝状なり手紙なり家に送ってくればいいのだ。


しかしこうして面と向かって話さなければならない理由がそこにはあるはずだ。


目の前に出された食事を綺麗に片付けたあと、婦人は「ふぅ、よく食べたわ〜。」と満足そうな表情を浮かべたが、「それで、私がここまで来た理由に話を移しましょうか。」と突拍子もなく俺の求めていた話へと移る。


やはりただ感謝を告げに来た訳では無いかと俺は心の中で深いため息をついた。


「凪紗くんが疑っている通り、私は感謝の言葉を述べるためだけにここまで足を運んだ訳では無いわ。」


隣に座る衣織さんもコクコクと無言で頷く。やはり何か面倒事に巻き込まれる気しかしない。


「実は私たち、凪紗くんにお願いがあってこうした場を設けたのよ。」


ほう、つまりこの食事は婦人側で出してくれはするものの、宿の部屋を譲った礼では無く、あくまでもこれからするお願いを承諾して頂くために設けた席だということか…


そんなのってないよー。後出しじゃないか…


こんなに美味しそうに食事をしちゃったら断れないじゃないか…なるほど、「楽しんでいただけるようで何より」ってそういう事かよ……


自分で宿の件は気にするな、これっきりだ。と言った手前、今更この食事は宿の礼ということで受け取らせてもらおうなんて事は言えない。


あ〜。してやられた。


今まで態度が筒抜けだったことを俺は今猛省した。


相手は俺と縁切るつもりが無い。そして俺にその拒否権は無い。


二人の絶妙な微笑みが今一番恐ろしく感じる。


あぁ、俺の将来は前途多難である。



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