「ゴフッ」とクマがむせた。食べていた鹿の肉片と共に、無数の青白い手と顔が口からあふれ出る。手どうし首どうしが絡まり、クマの口から出られない。


 その中には、連絡がつかなかったカナとカコもいた。二人と目が合う。カナとカコは雪子に気づくと、


「若女将さん、ひどぉーい!」

「どうして怨念の湯のことを教えてくれなかったの!」

「知ってたら、入らなかったのにぃ!」

「私達が死んだのは、あなたのせいよ!」

「そうよぉ! ここの怨霊どもに足を引っ張られて、溺れ死んじゃったのよぉ!」

「ほんとサイアク! 私達、水泳選手なのに!」

「責任とってよね! じゃないと、ずぅぅぅーっと恨んでやるから!」


 他の顔も何やらわめいていたが、クマに手で喉の奥へ押し込まれ、聞こえなくなった。


 すると、今度はクマの腹が膨れ、メガネをかけたガリガリの男が胃から飛び出した。首に、自分のものではない長い黒髪が巻きついている。


 男の顔を見た瞬間、細雪は「うわー!」と体で戸を隠した。


「ちょっと、見えないじゃないの!」

「おぉ、若女将さん! どうか、私の話を聞いてください!」

「雪子、聞いちゃダメだ! アレは怨念の湯に怨霊なんだ! 君を騙す気なんだよ!」


 細雪は男の声をかき消そうと、わめき散らす。男はそれを上回る声量で、雪子に語りかけた。


「私は鹿尾しかお太郎たろう! 月刊文冬の記者をしております! あなたの旅館がとんでもない秘密を隠しているとタレコミがありまして、取材に来ました!」


 月刊文冬は有名なゴシップ雑誌だ。センセーショナルな記事が人気で、雪子も会社員時代に暇つぶしに読んでいた。だが、取材など許可した覚えはない。


「そのような取材は存じ上げませんが!」

「僕が断っていたんだよ。根も葉もないウワサだったからね」

「ならば、なぜ?! 使!」

「……どういうこと?」


 細雪は真っ青になり、雪子から目をそらした。一方、鹿尾は嬉々として、雪ノ宿の「秘密」を暴露した。


「雪ノ宿のオーナーは代々、怨念の湯を悪用し、旅館にとって都合の悪い人間を消していたんですよ! 特に、私のような記者は目の上のたんこぶだったようで、大勢の記者がここで葬られておりましたよ! 私も怨念の湯の写真を撮っていた最中に、そちらのオーナーさんに突き飛ばされまして! 後はもう、このザマです! 嘘だと思うなら、あの松の木の下を探してください! 私が殺される瞬間を記録した、ボイスレコーダーとカメラを隠してありますから!」

「ッ!」

「細雪さん?!」


 細雪は戸の鍵を開け、松の木へ走った。あんなに怨霊の湯を恐れていた、彼が。


「どこだ、どこにある?! 僕の代で雪ノ宿を潰したなんて知られたら、ママに怒られる!」

「やだなぁ、殺される瞬間なんて残せるわけないじゃないですか。そんな暇もなく、あんたに殺されたんだから」


 クマが白目を剥き、細雪へ突進する。どうやら、鹿尾に操られているらしい。細雪は捕まり、怨念の湯へ放り投げられた。


 怨念の湯には歴代の雪ノ宿オーナー達に殺された被害者が待ち構えていた。細雪に飛びかかり、総出で沈める。クマも、細雪や怨霊達と共に沈んでいった。


「クマも連れて行きますよ。私達の仲間にするんです。あなた達が怨念の湯を悪用しようとしたら、このクマを放ちますからね」

「細雪さん! 細雪さん!」

「雪子さん、諦めろ! もう手遅れだ!」


 涙ながらに駆け寄ろうとする雪子を、板さんが止める。そこへ従業員達によるバケツリレーで、万治卍の湯が届いた。


「あれ、クマはどうなりました? オーナーは?」

「……」


 雪子はその場にへたりこむ。皆は何も聞かず、雪子の腕とバイト達の体に湯をかけた。


 ❄️


「みんな、聞いてちょうだい。ここの温泉はね……」


 雪子が怨念の湯の秘密を打ち明けようとした、そのとき。


 怨念の湯がボコボコと泡立った。雪子はハッと振り返る。クマが怨念の湯へ完全に沈む直前、親指を立てていたことを思い出した。


「ボーフーッ!」


 クマが横回転しながら、右手を突き上げ、帰還する。怨念の湯は間欠泉のごとく打ち上げられ、周囲に降り注いだ。


 底に沈んでいたのだろう、遺骨や彼らの所持品も降った。取材ノートやカメラ、なぜか大量の鹿の骨もあった。


「あれ……鹿のアラ、だよな」

「あぁ。部位ごとに切られてる。野生の鹿がうっかり落ちて死んだって感じじゃない」

「ってことは……」


 皆が一斉に、板さんを見る。板さんはこっそり、洗い場から逃げようとしていた。その首根っこを、雪子がつかんだ。


「板さん。あなた……鹿のアラを怨念の湯に不法投棄していたんですか?」

「業者のバカが『骨の量が多すぎる』って、手数料を要求してきたんだ。払わねぇと、超過した骨は回収しねぇだと。それで女将に相談したら、怨念の湯に捨てちまえばいいって」

「えぇ、女将から聞いております。業者が来たら、板さんに手数料分のお金を渡すようにと。今までも、女将さんからもらっていたはずですよね?」

「……」

「お金、ネコババしたんですか? 余分な鹿のアラはここに捨てて。それとも、手数料の話も嘘ですか?」

「……」


 暖かいはずの洗い場の空気は、吹雪で荒れている外と同じくらい冷え切った。

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