⑶
細雪が怨念の湯の鍵を開ける。定期的に清掃員が入るので、戸はすんなり開いた。
「
「はい」
「パソッカー」
吹雪の中、二人のバイトが怨念の湯へ鹿のアラを運ぶ。
鹿沼は大学生、パソッカはブラジル人の留学生だ。パソッカは片言ではあるものの、何ら支障なく会話ができる。「パソッカー」は地元の方言で、「了解」という意味らしい。
一同は怨念の湯のとなりの洗い場に集まり、二人を見守る。怨念の湯を知る者はもちろん、知らない者もクマを恐れ、戸から外へは絶対に出ない。戸は強化ガラスになっており、クマの攻撃も防げるほど頑丈だった。
鹿沼とパソッカには「使っていない露天風呂にクマをおびき寄せる」とだけ伝えてある。その露天風呂が「怨念の湯」と呼ばれ、今なお恐れられているとは言えなかった。
雪子はクマを実験体に、本当に怨念の湯が呪われているのか試そうとしていた。
呪いが本当なら、クマを殺せる。ただのウワサだったとしても、クマを厨房から引き離せる。鹿のアラはまだ数頭分あり、猟友会が来るまで十分耐えられるはずだった。
クマを猟友会へ引き渡した後は、堂々と怨念の湯を改装し、雪ノ宿の新たな目玉にする。獣臭の除去には苦労しそうだが、それで怨念の湯の真相が確かめられるのなら、痛くない出費だ。
「コッカラ、投げちゃってイイスカ?」
鹿沼とパソッカは入口と湯船の中間で止まる。細雪は雪子の背後で震えながら、「遠い! もっと近づいて!」と叫んだ。
「そんな遠くから投げたら、しぶきが飛ぶじゃないか! 掃除をする手間が増える! しぶきが上がらないよう、ゆっくり沈めるんだ! それとも、君達が掃除してくれるかい?!」
「えー。掃除めんどいんで、近づきまーす」
「パソッカー」
掃除が大変、というのは嘘だ。過去に、怨念の湯のしぶきを浴びた客が呪われたことがあるので、わずかでも湯に触れたくないのだ。
雪子は不甲斐ない夫を、冷めた目で見下ろした。
(他人に頼らないと何もできないくせに、口だけは達者なんだから)
鹿沼とパソッカは細雪の指示に従い、限界まで近づく。
覗き込むと、血のように赤い湯に鹿之介の顔が浮いていた。目は血走り、顔は湯を吸って膨れている。死んでいるのは明らかだった。
「お、大場鹿のオッサン?!」
「ひッ! お亡くなってマス!」
「バカ、パソッカ! 手を離すな!」
パソッカは驚き、鹿のアラを放り投げる。鹿沼は引っ張られた拍子に足を滑らせ、顔から転倒した。パソッカも後ろへひっくり返り、床で後頭部を強打する。
鹿のアラは宙を舞い、怨念の湯へ落水……雪子達からも見えるほど、水柱が高く上がった。二人は怨念の湯のしぶきを全身に浴び、服が真っ赤に染まった。
鹿沼とパソッカは倒れたまま動かない。頭をぶつけた衝撃で意識を失ったのかもしれない。
「鹿沼くん! パソッカ!」
「ダメだ、雪子! あの二人は怨念の湯を浴びてしまった……もう助からない!」
二人を助けに行こうとする雪子を、細雪がしがみつき引き止める。
さらに不運は続く。鹿の血肉の匂いにつられたのか、ゴミ捨て場にいたクマが竹垣を突き破り、現れた。
「ボッフー!」
バリバリバリッ!
「あのクマ野郎……気軽に壊しやがって!」「竹垣はなぁ! 高いんだぞ!」
クマは鹿沼とパソッカには目もくれず、怨念の湯へダイブし、鹿のアラへかぶりつく。バリバリと骨を噛み砕き、硬い肉を食いちぎった。
今なら二人を助け出せるかもしれない。頭では分かっていても、動く従業員はいなかった。クマ、もしくは怨念の湯を恐れ、動かない……雪子を除いて。
「どりゃー!」
「うわー!」
「オーナー!」
雪子は細雪を力づくで投げ飛ばし、怨念の湯へ走った。
大量の布団運びでついた筋肉を生かし、大の男二人を担ぎ上げる。帰る際は、クマに背中を見せないよう、宴会芸で身につけたムーンウォークで戻った。
クマは二人の人間が消え、一人の若女将がムーンウォークで去ったことに、全く気づいていなかった。
❄️
鹿沼とパソッカを担いだ雪子が、「ポウ!」と洗い場へ飛び込む。すかさず、他の従業員が戸を閉じ、細雪が打った腰をさすりながら鍵を閉めた。
洗い場のシャワーを使い、二人に付着した赤いお湯を流す。自身の腕も、シャワーで洗い流した。
「みんな。悪いけど、
「は、はい!」
「いくら万病に効くからって、怨念の湯をどうにかできるとは思えないけどなぁ」
「やらないだけマシでしょ」
従業員は万治卍を取りに、洗い場を出て行く。細雪と板さんは残った。板さんも、怨念の湯の正体を知る一人だった。
雪子の判断は正しかった。これから起こるクマと怨念の湯の攻防を、何も知らない従業員達に見せずに済んだのだから。
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