カナとカコの悲鳴は、雪ノ宿の厨房にまで届いていた。


「「く、クマァァァーーーッッッ?!」」


 作業中の料理人達が一斉に手を止める。誰ともなしに、勝手口の鍵を閉めた。厨房は、夕食の調理の真っ最中だった。


「……クマだぁ?」


 料理長の板さんは調理を続けるよう言いつけ、外に面した小窓へ近づく。すりガラスで、外の木が透けて見える。


「こんなとこに木なんて生えてたっけか?」


 首を傾げつつ、窓を開ける。目の前に、茶色いクマの顔が現れた。


「ボフゥ?」

「ーーーッッッ!!!」


 板さんは先代の女将が作った激酸っぱい梅干しの味を思い出し、声を上げまいと耐えた。素早く窓を閉め、鍵をかける。窓に透けていたのは茶色い木ではなく、厨房を覗いていたクマの顔だった。


 他の料理人達も手で口を押さえたり、みかんを皮ごと咥えたりなど、工夫して悲鳴を我慢していた。再び誰ともなく、勝手口の前に使っていないテーブルやイスをこれでもかと詰んだ。


 外でガサゴソと音がする。厨房裏にあるゴミ捨て場を漁っているのかもしれない。

 板さんはスマホで、オーナーと雪子に連絡を取った。


「クマが出た。俺と同じくらいの背丈だったから、百五十センチくらいだと思う。今、厨房裏のゴミ捨て場で、早めの晩飯食ってるよ」



 ❄️



 クマの出現により、従業員は対応に追われた。客に旅館に留まるよう指示し、屋内風呂のみの利用を命じた。

 雪の勢いが増したおかげで、外に出ていた客はほとんどが戻っていた。連絡がつかないのは、カナとカコのみだった。


 クマが現れて、一時間。天気は荒れる一方だが、クマはなおもゴミ捨て場から動かない。


 雪子ら従業員は今後の対応を話し合うため、ホールに集まった。


「ダメだ。雪がひどくて、猟友会が来られないらしい」

「雪はいつおさまるの?」

「明日の朝には晴れるそうだけど……」


「クマの様子は?」

「動く気配なし。よほど、腹が空いているみたいだな」

「たぶん、冬眠できなかったんだろうな」


河鹿かじかカナ様とカコ様とは連絡取れた?」

「まだです。あの二人、有名な迷惑インフルエンサーですよね? ふもとの店でやらかして、警察のお世話になっているんじゃないですか?」

「こら。お客様を悪く言うんじゃないの」


 食材も、非常食も、充分にある。問題は、建物がクマの突進に耐えられるかどうか……。


 静まり返った館内に、ギィーッと何かを引っ掻くような金属音が響く。従業員の一人が様子を見に行き、真っ青な顔で戻ってきた。


「クマだ! クマが勝手口のドアを引っ掻いてる!」


 ホールの緊張感が、一気に高まった。


「マズいぞ……厨房に入られたら、お終いだ! 貴重な食材を食い尽くされちまう!」

「俺はクマのために、鹿を解体したんじゃねぇ!」

「お終いよ! みんな、クマのエサになるんだわ!」


 不安、恐怖、怒り。特に、鹿を捕獲・解体・調理までしている板さんの怒りは並のものではなかった。


 オーナーである細雪はおろおろするばかり。頼りになるのは、雪子しかいない。


 雪子は考えた。どうすれば、クマを厨房から引き離し、猟友会が到着するまで耐えられるのか?


 頭の中で、クマがぐるぐる回る。厄介者つながりで、怨念の湯もぐるぐるに加わった。


(あーもう! 厄介者は怨念の湯だけで、たくさんなのよ! 私の悩みを増やさないでちょうだい!)


 頭の中でクマと怨念の湯が重なる。その瞬間、雪子はひらめいた。うまく行けば、二つの厄介者を始末できるかもしれない。


「板さん。捌いた鹿のアラ、まだ厨房にあるわよね?」

「あぁ。業者がまだ引き取りに来てねぇからな。それがどうした?」


「鹿のアラを使って、おびき寄せるのよ……クマを例の湯に、ね」



 ❄️



「何の会議をしているか知らんが、今がチャンスだな」


 鹿之介しかのすけは従業員が全員ホールに集まっているのを確かめ、怨念の湯へ走った。


 彼は、大場鹿おおばか鹿之介。白髪で小太りの老人で、雪ノ宿の常連客である。露天風呂マニアでもあり、荒天であればあるほどテンションが上がるという変わり者だった。


 鹿之介も怨念の湯に目をつけた客の一人だった。何度も従業員に改修を急がせたが、もう待てない。


「あの露天風呂に入りたい! それも、常人が入らないような猛吹雪の中で入りたい!」


 今日はわざわざ吹雪の日を選び、雪ノ宿を訪れた。クマのせいで他の露天風呂が閉鎖したのは残念だが、目当ての秘湯に入れるのは今しかない。


 上の階からロープを垂らし、怨念の湯へ侵入する。吹雪の中、「寒い寒い」と震えながら浴衣を脱ぎ捨て、肩まで一気に浸かった。湯の赤は雪で薄まり、浸かっている体がうっすら見えるほどの透明度に戻っていた。


「うーむ。この露天風呂、こんなに赤かったか? 今朝見たときは、大量の髪の毛が溜まっているような、濁った黒だった気が」


 よく見ようと、手で湯をすくおうとする。

 ところが、どうしたわけか手が動かない。指もだ。力は入らないし、感触の一切も伝わらない。湯の温度も、湯船の硬さも、分からない。


 そういえば、浴槽の壁の感触もない。石張りの床もだ。湯から出ようにも立ち上がれない。


 まるで、


 そう思った瞬間、鹿之介の首はと支えを失い、湯へ落ちた。首だけではどうすることもできず、鹿之介は深く、深く沈んでいった。

 雪で薄まっていた怨念の湯は、彼の血で再び底が見えなくなるほど赤く濁った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る