⑵
カナとカコの悲鳴は、雪ノ宿の厨房にまで届いていた。
「「く、クマァァァーーーッッッ?!」」
作業中の料理人達が一斉に手を止める。誰ともなしに、勝手口の鍵を閉めた。厨房は、夕食の調理の真っ最中だった。
「……クマだぁ?」
料理長の板さんは調理を続けるよう言いつけ、外に面した小窓へ近づく。すりガラスで、外の木が透けて見える。
「こんなとこに木なんて生えてたっけか?」
首を傾げつつ、窓を開ける。目の前に、茶色いクマの顔が現れた。
「ボフゥ?」
「ーーーッッッ!!!」
板さんは先代の女将が作った激酸っぱい梅干しの味を思い出し、声を上げまいと耐えた。素早く窓を閉め、鍵をかける。窓に透けていたのは茶色い木ではなく、厨房を覗いていたクマの顔だった。
他の料理人達も手で口を押さえたり、みかんを皮ごと咥えたりなど、工夫して悲鳴を我慢していた。再び誰ともなく、勝手口の前に使っていないテーブルやイスをこれでもかと詰んだ。
外でガサゴソと音がする。厨房裏にあるゴミ捨て場を漁っているのかもしれない。
板さんはスマホで、オーナーと雪子に連絡を取った。
「クマが出た。俺と同じくらいの背丈だったから、百五十センチくらいだと思う。今、厨房裏のゴミ捨て場で、早めの晩飯食ってるよ」
❄️
クマの出現により、従業員は対応に追われた。客に旅館に留まるよう指示し、屋内風呂のみの利用を命じた。
雪の勢いが増したおかげで、外に出ていた客はほとんどが戻っていた。連絡がつかないのは、カナとカコのみだった。
クマが現れて、一時間。天気は荒れる一方だが、クマはなおもゴミ捨て場から動かない。
雪子ら従業員は今後の対応を話し合うため、ホールに集まった。
「ダメだ。雪がひどくて、猟友会が来られないらしい」
「雪はいつおさまるの?」
「明日の朝には晴れるそうだけど……」
「クマの様子は?」
「動く気配なし。よほど、腹が空いているみたいだな」
「たぶん、冬眠できなかったんだろうな」
「
「まだです。あの二人、有名な迷惑インフルエンサーですよね? ふもとの店でやらかして、警察のお世話になっているんじゃないですか?」
「こら。お客様を悪く言うんじゃないの」
食材も、非常食も、充分にある。問題は、建物がクマの突進に耐えられるかどうか……。
静まり返った館内に、ギィーッと何かを引っ掻くような金属音が響く。従業員の一人が様子を見に行き、真っ青な顔で戻ってきた。
「クマだ! クマが勝手口のドアを引っ掻いてる!」
ホールの緊張感が、一気に高まった。
「マズいぞ……厨房に入られたら、お終いだ! 貴重な食材を食い尽くされちまう!」
「俺はクマのために、鹿を解体したんじゃねぇ!」
「お終いよ! みんな、クマのエサになるんだわ!」
不安、恐怖、怒り。特に、鹿を捕獲・解体・調理までしている板さんの怒りは並のものではなかった。
オーナーである細雪はおろおろするばかり。頼りになるのは、雪子しかいない。
雪子は考えた。どうすれば、クマを厨房から引き離し、猟友会が到着するまで耐えられるのか?
頭の中で、クマがぐるぐる回る。厄介者つながりで、怨念の湯もぐるぐるに加わった。
(あーもう! 厄介者は怨念の湯だけで、たくさんなのよ! 私の悩みを増やさないでちょうだい!)
頭の中でクマと怨念の湯が重なる。その瞬間、雪子はひらめいた。うまく行けば、二つの厄介者を始末できるかもしれない。
「板さん。捌いた鹿のアラ、まだ厨房にあるわよね?」
「あぁ。業者がまだ引き取りに来てねぇからな。それがどうした?」
「鹿のアラを使って、おびき寄せるのよ……クマを例の湯に、ね」
❄️
「何の会議をしているか知らんが、今がチャンスだな」
彼は、
鹿之介も怨念の湯に目をつけた客の一人だった。何度も従業員に改修を急がせたが、もう待てない。
「あの露天風呂に入りたい! それも、常人が入らないような猛吹雪の中で入りたい!」
今日はわざわざ吹雪の日を選び、雪ノ宿を訪れた。クマのせいで他の露天風呂が閉鎖したのは残念だが、目当ての秘湯に入れるのは今しかない。
上の階からロープを垂らし、怨念の湯へ侵入する。吹雪の中、「寒い寒い」と震えながら浴衣を脱ぎ捨て、肩まで一気に浸かった。湯の赤は雪で薄まり、浸かっている体がうっすら見えるほどの透明度に戻っていた。
「うーむ。この露天風呂、こんなに赤かったか? 今朝見たときは、大量の髪の毛が溜まっているような、濁った黒だった気が」
よく見ようと、手で湯をすくおうとする。
ところが、どうしたわけか手が動かない。指もだ。力は入らないし、感触の一切も伝わらない。湯の温度も、湯船の硬さも、分からない。
そういえば、浴槽の壁の感触もない。石張りの床もだ。湯から出ようにも立ち上がれない。
まるで、首から下が消えたようだ。
そう思った瞬間、鹿之介の首はぐらりと支えを失い、湯へ落ちた。首だけではどうすることもできず、鹿之介は深く、深く沈んでいった。
雪で薄まっていた怨念の湯は、彼の血で再び底が見えなくなるほど赤く濁った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます