新しい住民
山崎さんはかなりの洒落者だ。
ワインレッドのスーツにダークグレーのシャツ、ネクタイはスーツと揃いの色で、銀色のネクタイピンで止めてある。
山崎さんは背が高い。ネクタイピンの位置を確認するのに、身長185センチの徹が見上げなければならないのだから。
スーツの胸元や二の腕は、分厚く盛り上がっている。衣類の上からでも、筋肉の線が透けて見えるようだ。
洒落者で、背が高くて、筋肉質で、おそらくは裕福な人物。
通常であれば、徹もそんな感想を持ったことだろう。
ネクタイピンの更に上…本来ならば人間の顔があるべき位置まで、視線を上げさえしなければ。
ぎょろり。
徹の拳よりも巨大な眼球に、徹のこわばった表情が鏡のように映っている。
徹は、ゆっくりと後退りすると。
無言のまま、部屋のドアを閉めた。
心臓が早鐘のように鳴っている。
汗をかいた背中が、じっとりと冷たい。
「どうしたんだよ徹。閉め出すなんて、山崎さんに失礼だろ」
呑気に髪をかき上げるクレイヴに対し、徹は怒りを爆発させた…つもりだったが、乾いた喉から絞り出されたのは、情けないかすれ声だった。
「お、お前…あんな、ふ、ふざけんな」
どもりながら、何とかドアノブを掴んだ。腕力でドアの開きを押さえたところで、勝手にドアチェーンすら外してしまう怪物には無意味かもしれないが、とにかくアレが部屋に入って来るのは不味い。
「あんな、あんなの…」
このアパートは曲者揃いだ。
今更、幽霊や呪術師や吸血鬼やヤク中や変態には驚かない。
しかし、いくらなんでも限度というものがある。
「何なんだよあれ! 出来損ないのゼリーの化け物かよ!」
人間相手ならば失礼が過ぎる言い草だが、山崎さん相手ならば的確な表現だ。
湿ったスーツの上に乗っていたのは、人間の頭では無かった。
半透明の緑色で、固まりかけたゼリーのような、小学生の頃に理科の授業で作らされた洗濯糊のスライムのような、そんな物体がワインレッドのスーツの襟に乗って丸く膨らみながら緑色の粘液を滴らせている。
金魚鉢か何かで球体のゼリーを作り、完全に固まる前に首無しのマネキンの上に乗せたら、近いものができるだろうか。
それだけでも相当異様なのに、ゼリーの顔の中を大人の拳より大きい眼球が泳いでいるのだ。
本当にあれが眼球なのかもわからない。
だが、人間ならば瞳に当たる部分に徹の顔が映っていたから、多分こちらを見ていたのだろう。
眼球からは、濃い緑色の不透明な管が何本か伸びていた。
あれは視神経の類なのか。
ゼリー製なのかゲル製なのかわからない顔の中を、視神経の尾を引きずって眼球が泳ぐ様は、さながら悪夢の世界のオタマジャクシだ。
「可哀想だろ。山崎さん、あれでも頑張ってるんだぜ」
クレイヴが、何故あの化け物の肩を持つのかわからない。
「そりゃ、完璧じゃないかもしれないけどさ。一生懸命、地球人の姿を真似してくれてるんだから。努力は認めてあげなきゃ」
地球人を?
真似している?
顔を上げた徹に向かって、クレイヴがヘラヘラと笑う。
「地球外人なんだよ、山崎さん」
地球外人だと?
と、いうことはつまり。
「あのスーツに収まるように身体固めておくの、結構キツイらしいぞ」
「……」
スーツが湿っていた理由も、胸元や袖がはち切れそうだった理由も、これでわかった。
地球人用の衣服の中に、あの緑色のネバネバしたゼリーがパンパンに詰まっているわけだ。
かたん。
郵便受けが音を立てた。
徹は、それだけで飛び上がりそうになった。
革靴の音が遠ざかっていく。
「あーあ。山崎さん、行っちゃった」
固まって動けない徹に変わって、クレイヴが郵便受けを開ける。
「おっ、ラッキー。ビール引換券とチョコレートと…お蕎麦まで」
クレイヴが笑いながら、引き出物の品と蕎麦の入った木箱を見せた。
引っ越しの挨拶に加えて、引っ越し祝いの蕎麦までとは。
地球どころか、日本の文化についてきっちり勉強して来たようだ。
「チョコは霊愛用で、ビール券は俺ら用かな。 霊愛、蕎麦は好き? 夜子は、蕎麦はプロの店で食べるのが1番だ、って言ってるけど…」
クレイヴを無視して、徹はドアをそっと開けた。もちろん、ドアチェーンをしっかりと付け直した上でだ。
ワインレッドのスーツ…を、着用した緑色の不定形物体は、シャブ中ヤクザの部屋の前に立っている。
「だ、旦那! 何者ですかい…こんな上物、一体何処で…えっ、シャブ太にも? こ、こりゃ良いマタタビだぁ…」
シャブ太は、シャブ中ヤクザの飼い猫の名前である。
落ち窪んだ目のシャブ中に、ここまで嬉しそうな声を出させるとは。
「良いんですかい…グラム数十万の代物ですぜい…」
引き出物は、徹達が貰ったビール券ではなく、大分非合法なもののようだが。
ギュイーン。
ギターの音がして、徹は視線を上の階に向けた。外付け階段に続く2階の共同廊下で、ギターを抱えた巨漢のロックスターが親指を立てていた。
「フッ…やはり、高級なものは音色が違う!」
こいつ、たかが引っ越し祝いでギターを貰ったのか。
徹は、驚きを通り越して呆れてしまった。
地球外人のフトコロ事情は良くわからないが、とりあえず日本の慣習を微妙に勘違いしているのは確かだ。
それに、誰も彼も簡単に買収されすぎである。
ひらり。
徹の足元に、薄紫の便箋が落ちた。
『山崎さん、あんまりレイアのタイプじゃないかも(ノД`)シクシク』
普段徹は、子供っぽい霊愛の意見に同調することが少ない。
でも。
今回ばかりは、手放しで賛成したい気分だった。
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