外国人入居者

引っ越しのご挨拶

 徹達が暮らすアパートでは、毎晩決まった時間に時報が鳴る。

 ギュイーン、というギターの音と、うおおお、という咆哮がそれだ。

「12時か」

 滅茶苦茶にかき鳴らされるギター、歌詞など微塵も聴き取れない金切り声、重量級のステップで1階の天井がみしみしと軋み、揺れる電灯と舞い散る埃を見上げながら、徹は読みかけの本を閉じてちゃぶ台から立ち上がった。

「飯にしよう」

 時報の主は、徹たちの部屋の真上に住む住人だ。下手くそな美容師に弄らせたような珍妙極まりないロングヘアと、目の周辺を真っ黒く塗りたくった化粧が特徴の、ロックスター志願の青年である。

 少なくとも後20キロは減量した方が良い、と徹は思うのだが、他人の口出しすることでは無い。

「うるせーぞデブ!」

 徹たちの右隣の部屋の住人、シャブ中チンピラヤクザが野次を飛ばしながら壁を蹴るのも、変わらぬ日常だ。

 チンピラヤクザの部屋の窓の下には、割れた注射器や破れた粉薬の包みのようなものがいくつも転がっている。

 ロックスター気取りは、ベランダに片足を掛けて汗で湿った長髪を振り回している。

「やべぇ、サラダチキンの賞味期限切れてる…」

 どんな日常だって、慣れてしまえばどうということは無い。徹は冷蔵庫から賞味期限切れのサラダチキンとアルコール度数の高いチューハイを取り出して、空中に浮かぶ女性下着を振り返った。

「霊愛は? シュークリームで良いか?」

 畳の上に、ひらりと水色の便箋が落ちた。

『(•ө•)♡』

 魂だけの霊愛は、もちろん本当に食べることはできない。

 だが、お供え物として味わうことはできるし、それなりに満足感もあるらしい。

「クレイヴ、夜子は?」

「デートだから、飯は外で食うって」

 いつの間にか、深夜12時が自分たちにとっての昼食の時間になっている。

 徹が畳の上であぐらをかくと、すかさずクレイヴが寄ってきてその上に座った。向かい合った体制のまま、クレイヴの青白い両腕が徹の肩に回される。

「ちょっと待ってな。先にこれ、開けるから」

 徹は今まで、貧血と診断されたことは無い。ただ、吸血されると喉が渇く。

 缶チューハイのプルタブを起こして、姿勢を安定させる為にクレイヴの腰に左手を回した。

「良し、準備完了」

 クレイヴが待ちかねたように徹のTシャツをずらした。

「いただきます」

 露わになった徹の首筋に、薄く鋭い、カミソリのような牙が突き刺さる。

 不思議と痛みは無い。

 ただ、吸われている、という感覚はある。クレイヴの白い喉が上下するのを横目に、徹はチューハイを流し込む。

『何か、赤ちゃんみたい』

 実態があったら口の周りをクリームだらけにしていそうな霊愛が、クリーム色の便箋を落とした。

「赤ちゃん? こんな可愛くない赤ん坊、いないだろ」

 クレイヴが苦笑する。

 緩い癖のある金髪は腰まで届く。

 青い目を縁取る長い睫毛に、透けるほど白い肌。

 一瞬、女かと見紛うようなその美貌は、ナイフで斬り付けられた醜い傷痕によって見事なまでに荒らされている。

 片方の耳からもう片方の耳にかけて、細い鼻筋を通過して真横に1本。右目を縦に割って、顎にかけて1本。右の額から左頬に向かって1本、左の頬に斜めに2本、うち1本は花弁のようだった唇を上下共に斬り裂いて、首の辺りにまで達している。

「何? 霊愛ちゃん、そんなプレイ好きなの?」

 憎まれ口を叩きながらニヤリと笑うと、捲れた唇から徹の血が滴った。

 引き攣れた唇は完全には閉じない。白く濁った右目も、とうに機能していない。

『好きじゃないけど、でも』

 シュークリームに飽きた霊愛が、ぐっと顔を近付けた…ような気がしたのは、霊愛が頭に付けているヒラヒラしたリボンが、徹達の方に近付いたからだ。

『何か徹君、赤ちゃんにオッパイあげてるお母さんみたいなんだもん』

 徹は思わず吹き出した。

 確かに、母乳の原料は血液だ。理屈には適っている。

『それにクレちゃん、徹君の血じゃないとダメなんでしょ? 徹君、ダッコの仕方も手なれてるし、やっぱりそう見えるよ』

 徹が何か言おうと口を開きかけた時、

 

 ピンポーン


 間の抜けたインターフォンが鳴り、6畳間の会話が中断された。

「夜子の客か?」

 とはいえ、大袈裟に騒ぐようなことでもない。女呪術師に依頼に来る客は珍しくないし、そうでなくても夜子の彼氏はしょっちゅう変わる。

「今、留守なんだけどな」

 一度クレイヴを膝から降ろして、徹はブツブツ言いながら玄関に向かった。

 訪問販売すら、このアパートには来ない。

 だが、もっと危険な奴が来ることはある。

 来客対応は、性別が男であり、1番背が高くて体格も良い徹の役目だった。

「どちら様ですか?」

 ドアスコープを覗いてみる。

 ワインレッドの背広が目に入ったが、顔までは確認できない。かなりの長身だ。

「夜子なら、今は留守で…」

 念の為、右の拳を握って身構える。

 すると。


 かたん。


 ドアに着いた郵便受けが、音を立てた。

 ぎくりとして、思わず体を硬くする。

 だが、何も起こらない。

「誰なんだよ…」 

 呟きながら、徹はそっと郵便受けに左手を入れた。 小さな紙片が、指先に触れる。 

「やま、ざき…?」

 名刺か。

 徹のようなフリーターには縁のない代物だ。

 画用紙より硬い、艶のある質感。山崎、という黒ぐろとした文字が、人工的に明るい部屋の中で妙に浮き上がって見える。

「なーんだ、山崎さんか」

 いつの間にか徹の後ろに立っていたクレイヴが、安心したような気の抜けた声を出した。

「ほら徹、あの人だよ。最近引っ越してきた外人さん」

 金髪碧眼のクレイヴから外人という言葉を聞くのは変な感じがしたが、徹は笑う気になれなかった。

「引っ越しってさ、日本だと挨拶とかするじゃん? 外人さんだけど、わざわざ来てくれたんじゃないかな」

 だからと言って、深夜12時に来るものだろうか。

「大丈夫だよ、徹。山崎さんなら、俺前にも会ってるし」

 クレイヴはすっかり警戒を解いてしまったらしく、今にもドアを開けようとしている。

 

 とんとん。


 山崎さんが、ドアをノックしている。


「やめろ!」

 慌ててクレイヴの肩を掴んだが、鍵は既に空いていた。せめてドアチェーンだけは死守をと思ったが、何故かそちらも外れている。

「山崎さんに居留守は通用しないんだよ」

 ドアがゆっくりと開く。

 

 徹の目の前に、山崎さんが居た。

 

 ワインレッドのスーツは、しっとりと湿って、その色を濃くしていた。

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