初恋を、縛る。
海汐かや子
自業自得
静岡県静岡市のD 町にある、竹久保人形工房に就職してから、一年が経過した。
人通りが少ない閑静な街中に、鉄骨の外階段がついた二階建てのビルがある。
一階の入口に工房名が黒い文字で刻まれた簡素な木製の看板が下がっている場所に、私
は居る。二階は宿舎だ。そこで寝泊まりをしながら、一階の作業場でビスクドールのことを考えて制作している。
昔馴染みの知り合いからは「ミサ。二十代なんだから、人形ばかり目を向けていないで、外に目を向けてみたら?結婚相手とか欲しくないの?」と呆れたように小言を言われる時があるけれど、私は人形断ちを一度も考えたことはなかった。
二十畳ほどの、粘土の独特な香りが漂う作業部屋の匂いを嗅ぎながら、壁際に掛けていたパイプ椅子を持って、作業テーブルの前に置く。昼の休憩時間は終わりだ。
人形の顔に、まつ毛やアイラッシュ、唇を塗り、目玉を入れる作業を続ける。昨日までは人形の肌の色付けを行っていた。滑らかな白磁の肌から、人間のような色味に変える魔法のような作業だ。
呼吸をしているようにも見える丸みを帯びた少年の顔を、手袋をはめた左手で優しく掴
み、動かないように固定する。右手には、極細の筆を軽く持つ。筆に薄茶色の塗料を薄らと含ませ、力を入れないように、線を滑らかに上から下へと、下まつげを丁寧に描いていく。
時折背後から、工房を経営する女社長が動き回る足音や息遣いが聞こえてくる。私が両目の下まつげを描き終わった瞬間、上品なブラウスと黒スキニーを履いた竹久保さんが、綺麗な薄紅色のルージュを塗った唇を品よく上げて声をかけた。
「ミサちゃん。今日は二藍の月なんだから、そろそろ上がりなさい」
二藍の月。それは年に一度だけ、月が明るく渋い青紫色に染まる夜のことだ。地上に青紫色の月の光が届くと、あの世とこの世が繋がり、僅かな間だけ死者がこの世に現れ、言葉を交わすことが出来る奇跡の日だ。
「あと、明日は工房お休みだから。ミサちゃんも、たまには気晴らしに遊びに行きなさいね」
私は小さな笑みを浮かべて「はい」と言うと、竹久保さんは「じゃあね」と足音をたてずに作業場から出て行った。ふぅ、と軽く息を吐き、人形の顔を保管する箱の中に、顔を置いた。片付けを手早く済まし、二階に繋がる外階段を上る頃には、空はすっかり濃い茜色に染まっていた。
ぴゅう、と木枯らしのような音が足元から唸る。遠くを見やると、街中に見事な黄金色のイチョウの木や、紅葉の姿があった。再び階段の向こうに目を向け、銀色のノブに鍵を差し込んで玄関に入った。畳が敷かれた九畳の部屋に仰向けになって寝転ぶ。カーテンをしめていない窓から夕焼けが差し込み、木目の天井をあかあかと照らす。
私は寝転んだまま、ジーパンのポケットに手を入れて、赤い折り紙で折った鶴を出した。
この鶴は、二藍の月の時に、死者を家に迎え入れないようにする為に使われるものだ。ただの折り紙の鶴だが、二藍の月の時だけ効力を発する。
赤い鶴を玄関先に置いていれば、死者が来ても家の中に入ることも、扉を叩くことさえも出来ない。私は、迷っていた。今年こそ赤い鶴を玄関に置くべきだろうか。
目を閉じると、私の初めての恋を奪った彼の姿がまざまざと浮かび上がる。でも彼はこの世に存在しない。六年前に亡くなってしまったのだ―― 私の心にどうしようもない恐怖を植え付けて。
「夏目…… 」
か細い声で彼の名前を呼ぶ。ガラス窓が、風に叩かれてカタン、と音を立てた。
私は物心ついた時から、常にあらゆる人形に囲まれて生活していた。父が、まるで生きているような少年人形を作ることで有名なビスクドール作家だったせいか、家の中は父が試作して作った人形で溢れかえっていたのだ。
玄関や居間に六十センチほどの人形が置かれているのはもちろん、テレビ台の傍に人形
の生首が置かれていたり、ひび割れた人形の顔がダイニングテーブルの上でカゴの中に入
っていたり、玄関に置かれたりする時があった。
父いわく、この世に生み出した人形を捨てることは可哀想で中々出来なかったらしい。そんな変わり者な父だったけれど、人形作りばかりに熱中して、家族と過ごす時間を怠ることは一度もなかった。私が五つの頃―― 昼時に縁側でくつろいでいた時だ。父は目元に浮かんだ優しいシワを深めて、幼い私を膝にのせて抱きしめながら語ってくれた。
「ミサ。人形を作る上で、何が大切だと思う?」
暖かな父の手を頭に感じながら、私は分からないと首を横に振る。さらに父は愛のこもった眼差しを深めて、まるでいたずらっ子のような明るい表情で言った。
「それはね、この世で最も愛している人を思い浮かべることだよ。僕にとっては、ミサとママ。僕はいつも二人の顔を頭に浮かべながら作っているんだ」
私は父の作る人形たちを思い出した。父の人形は、どれも可愛らしく笑顔が柔らかい。冷たい表情や、無表情の顔つきをした人形は一体も居なかった。父の目には私と母が、このように見えているのかと思うと嬉しくて仕方がなかった。
私も、父のような人形を作りたい―― 心から熱い気持ちが湧き上がった。
「ねぇお父さん。私も人形を作ってみたい。教えてくれる?」
黒々とした瞳を輝かせた父は喜んで「良いよ、ゆっくり勉強していこう」と言った。
ビスクドールは粘土を焼く作業や、研磨など、幼い子供が行うには危険な工程が幾つもある。父は、手始めに塗料を使ったメイクの方法を教えてくれた。メイクは人形が最も表情を輝かせる重要な工程なのだ、と父は熱弁した。人形を一から作る作業を教えるのは十四歳になってからとも言いながら。それから私は売りに出すことが出来ない父が作った人形の顔を貰って、メイクの練習を繰り返していた。
最初は酷く不格好で落書きのようなメイクではあったものの、次第に慣れて、流れるような美しい眉毛やまつ毛、アイラインや瞼や唇にのせる色使いが上達してきた。しかし私が八歳になる頃には家の中も外も、人形の顔で溢れてしまい、父は困り果てていた。私が人形にメイクをする前までは、父は限界を越えた人形の顔で家の中が溢れた時は、思い切って処分していたそうだ。
だが、私が施した人形の顔を処分することは、勿体なく感じて出来なかったらしい。
その時、京都府京都市A 町にある人形神社の神主―― 父の友人から数年ぶりに連絡が来たそうだ。内容によれば、どうも人形神社に参拝しに来る観光客が減っているらしい。どうにか見所が欲しいと考えた所、父の作る人形を思い出したそうで、人形を制作してくれないかとのことだった。しかし当時の父は、各地から依頼を請け負っていたので、さらに新たな依頼を受けると家族との時間が取れなくなると、断ったそうだ。
父は代わりに、人形の顔なら無料で渡せると言ったようだ。娘が人形に化粧を施したんだ。それなら全て譲ってもいい、ただし大切にしてくれ―― 。
相手はぜひ、と答えたそうだ。父は久しぶりに友人に会いたいと言ったようで、その時に人形を持っていくと話はまとまった。
後日、私は父の運転する大型車に乗り込んで、私の住む兵庫から栃木へ大量の人形と共に行くことになった。メルヘンなログハウスのペンションや可愛らしいパン屋などが立ち並ぶ山道を進み、木々の間からひょっこりと現れた人形神社にたどり着いた。砂利道が敷き詰められた駐車場から、人形が入ったダンボールを父と私でそれぞれ持つ。
赤い鳥居をくぐって階段を上り、石畳の参道を進んで小さな社務所に向かった。そこで私は彼に会った。
毛先が切りそろえられた艶やかな輪を描く黒髪に、藤の花のような気品を持つ佇まいと、たおやかな笑みを口元に浮かべ、柔らかな切れ長の瞳を持つ、白藍色の着物の少年を。
目見た瞬間から、ぎゅっと心を鷲掴みにされた。この世にこんなにも麗しい子が居るの
か。美しいものを見て酷く感動する気持ちに似た驚きが、頭のてっぺんからつま先まで駆け抜けた。後に瀬田夏目だと名乗った彼は私を見るなり、ゆるりと口の端を伸ばして微笑んだ。
私は何だかとても恥ずかしくなってダンボールの影に顔を隠すと、父の声が聞こえた。
「瀬田さんに頼まれて来たんです。箱、どこに置いたら良いでしょうか」
夏目が言った。
「ありがとうございます、ここの隅へ。せっかく遠くからお越しくださったんです、良かったら特製の飴湯か甘酒はいかがですか。僕の父も貴方とゆっくり話したがっていましたし。それに僕も―― 」
社務所の入口の隅に箱を置く私を見て、夏目は含みを持った穏やかな瞳を向けた。
「歳が近い子と話す機会があるのは、本当に久しぶりなので。お話したいんです」
正直、夏目と何を話したのかは記憶にない。覚えているのは、ひたすら私は彼を前にのぼせ上がり「はい」だとか「うん」だとか、会話らしき会話をしていなかったことだ。しかし夏目はそんな私がとても面白かったらしく「また絶対に来てね。僕、待ってるから」と私の両手を握りしめて、神社から送り出してくれた。
父は帰り際「瀬田夏目くんだっけ。あの子、ミサと同じ八歳なんだって。あの神社の跡継ぎだから、学校に行かないでずっと神社で暮らしているみたいだよ」と言った。
「学校に行っていないの?」
「夏目くんのお父さんが許してないみたい。それに神社から自由に出ることも許可してい
ないみたいでね、友達も居ないんだって」
「そうなの…… 」
夏目を思い出すと心が跳ねた。頬が火照る。夏目に包まれた自分の手が熱を持っているようだ。これが恋だと、子供ながらにすぐ理解した。初めて恋をする慣れない感覚に、私は翻弄されるようになった。人形にメイクを施す度に、夏目のあの浮世離れした雰囲気を思い出しては、胸が苦しくなる。
そんな私の心の機微を悟ったように、父は「メイクの雰囲気が変わったね。前に比べて艶やかになった」と言った。
「ミサ、さては好きな子が出来たね?」
にやっと父が笑った時、私は恥ずかしくて顔を両手で覆った。
「もしかして夏目くんかな?」
小さく頷くと、父は「あそこの家は全員、スマホを持っていないんだ。でも手紙なら届けられるから、文通を出来ないか聞いてみようか?」と微笑んだ。
思いがけない案に喜んで顔をあげると、父は笑って連絡を入れた。夏目も私ともっと話したいと思っていたらしく、すぐさま文通が始まった。私は友達として仲良くしていきたいことや、人形作りのこと、日々の他愛ない出来事を文字に綴った。夏目も大人びた文章で、身の回りの出来事を綴ってくれた。
頻繁に手紙のやり取りをする中で、特に印象に残っている内容があった。内容はこうだった。
『僕は江戸時代から続いてる人形神社の跡継ぎだから、その為に生きなくちゃいけないし、後世にも伝えていく必要があるんだ。学校も行けないし、気になる場所に自由に行くことも出来ないし、友達も出来ない。僕が関わるのは大人ばかり。でもね、そんなのはどうでもいい。興味が無いから。だけど不思議だ。君から手紙が来ると嬉しくて仕方なくなる。君には心から感謝しているよ。僕を想って時間をかけて書いてくれているんだって手紙を読んで伝わるから。僕を純粋に想ってくれるのは君だけだ』
これを見た時、私は嬉しく思うと同時に切なくなった。寂しそうな彼を支えるのは自分しかいない、そんな錯覚にさえ囚われた。今思えば、この時既に怪しい兆候が彼に現れていたのだから、文通を無理やりに断てば良かった。
私が初恋にのぼせていたのと同時に、彼は手紙を通して私にゆっくりと依存し―― 執着するようになっていたのである。
次第に彼の内容は、愛を囁くものに変わっていった。私は愚かだ、それを楽しんでいた節もあったのだから。
何年も夏目と手紙のやり取りを続け、ついに十四歳の時に父から、最初から人形を作る工程を間近に見て教えて貰うようになった。石膏型を準備し、原料の粘土を調合し、石膏型に泥漿を注ぎ、脱型して型抜きをし、素焼きの前に身体に穴を開けて加工する。陰干しを行い、電気炉で素焼きし、研磨、二回目の本焼き、メイクと焼成を重ねて色付けし、グラスアイと呼ばれる綺麗な目玉を取り付けて身体を組み立てる―― 。
そしてウィッグや下着、洋服、靴を作る。あらゆる工程を重ねて作られていく人形を目の当たりにすると、改めて父の人形作りの技術と熱意は並大抵のものではないと感じた。父は全ての工程を見せ終わった後に、私に尋ねた。
「ねぇミサ。人形作りは楽しいけれど、これを仕事として技術を身につけるには時間がとてもかかるよ。それでもやりたいってまだ思う?他に仕事は幾らでもある。人形師の道に進まなくても良いんだよ」
私の頭には、夏目の姿が浮かび上がっていた。あの夏目のような雰囲気の人形を作れたなら、どれほど素敵な人形が出来るだろう―― そんなことを思っていた。私は夏目とは一度しか会ったことがない。夏目と会った以来、人形は全て宅急便で送っており、栃木に行く理由がなかったのだ。昔は夏目と会いたいとよく願っていたけれど、今は違う。初恋は綺麗な思い出のままで、美しく閉じ込めておきたい。インスピレーションの一つとして大事に取っておきたい。そんな事を思いながら、はっきりと言った。
「私はお父さんみたいな人形師になりたい。後悔しないよ」
その時、父が照れたような笑みを浮かべたのを、今もよく覚えている。
さらに人形作りに没頭し始め、十六歳になった時だ。夏目からこんな手紙が来た。
『十八になったら、人形神社の神主になるんだ。ますます神社から出られなくなるね。なったら、神嫁を迎えなくちゃならないんだって。要は巫女と結婚しなくちゃならない』
彼は数年後に結婚をするのか―― と少し感慨深い気持ちになりながら『おめでとう、って言って良いのかな。お祝いに夏目みたいな人形を作ろうか?私、最近人形作りが上達したの。きっと綺麗な子が出来るよ』と返事をした。
すぐに返事が届くだろうと思っていたが、中々手紙は来なかった。半年経ってようやく届いた。
『ぜひそうして。ずっと僕のことを想って人形を作って。でも残念だ。本当に残念だ。僕は望みをかけて君に手紙を書いた。おめでとうじゃなくて、嫌だって言ってくれたら、残念がってくれたら良かった。そうしたらこの世で、君と一緒に居られる道を探そうと思った。でも君の頭は昔から人形のことばかり。昔からそうだ。だけど良いよ。人形を通して僕を想って作ってくれるなら、僕は君の心の中にずっと居られる。
僕のことを忘れたら許さないよ。他の誰かを愛すことも許さないよ。二藍の月に、必ず君の元に会いに行く。あの時待ってるって言ったのに君は一度も来てくれなかった。僕から君に会いに行こうとしたこともあったけど、邪魔が入って結局行けなかった。神嫁選びが始まったから、この先も君に会うことは難しいだろう。もう待つのはごめんだ。僕は君の心を縛れるなら何だってする。僕の初恋を奪ったんだから。この世ではさようなら。赤い鶴を置いたら許さないからね』
綺麗に綴られた文字を見て、血が冷えていくような寒気を覚えた。嫌な予感がぞわぞわと足元から這ってくるような気配がした。二藍の月に会いに行く。赤い鶴を置いたら許さない。
それは死んでこちらに来るという意味だろうか。
いや、もしかしたら考えすぎかもしれない―― 。悶々と考え込んでいると、私の部屋に父が悲しげな表情を浮かべて入ってきた。
「夏目くんが亡くなったって」
さぁっと血の気が引いた。彼が、死んだ。
「神社の石段から落ちたらしい」
「神社の、石段から?」
「そう。頭を打って亡くなってしまったそうだよ。悲しいね…… 」
そこから先の父の言葉は耳に入って来なかった。手紙の内容が頭の中を占める。
あの手紙―― 二藍の月に会いに来るという言葉を果たすために、彼は死んだのだ。今まで身近な人の死を経験したことがない私にとって、その出来事は心に深い爪痕を残した。心に錆びた鉄棒が何本も貫通し、そこから血が流れ落ちるような苦しみと、身を掻きむしりたくなるほどの恐怖を味わった。
私が彼が死ぬ要因になった。死、死、死――。
その日から私は悪夢に魘されるようになり、心を落ち着けるために人形作りに打ち込むようになり―― 要は現実逃避の為だ―― 何とか心のバランスを保っていた。
三ヶ月後、二藍の月がぼんやりと地上を照らす頃、家の玄関を控えめに叩いて誰かがやって来た。肺を絞られるような心地がした。赤い鶴を置こうか迷っていたのだが、結局、置くことが恐ろしくて出来なかった。息を潜めて扉を恐る恐る開けると、目を見張る麗しい男がいた。
不必要な肉を全て無くした、張りのある白い肌。昔と変わらない艶にある黒髪に、瞳。昔にはなかった妖艶さが、香水のように身体中に纏わせている。百合の花のようなたおやかさを持つ立ち姿であるのに、少年と男性の狭間のような身体つきをしているせいか、背の高いマネキンのように思えた。
半透明に足元が透けている夏目は私を見るなり、目をゆるりと細めて「ミサ、会いたかった」と微笑んだ。そっと手を伸ばし私の頬に触れるも、冷蔵庫の冷気に触れたような感覚がするだけだった。私は息を呑んで何も答えられなかった。
その間、夏目はひたすら私に向ける強い愛着の言葉を語っていた。聞くに絶えない、呪いのような愛の言葉だった。青紫色の月の色が消えかける頃、夏目は名残惜しそうに言った。
「また来年も、君の元へ行くからね。赤い鶴なんて置かないでよ。置いたら呪うから」
ふふ、と楽しそうに微笑む夏目に、ぞっと鳥肌がたった。腹の底から恐ろしさを覚えると同時に、この世ならざる美しさを目の当たりにして、再び夏目の姿や雰囲気に惹かれた。心を震わすほどの美しさを心に吸収したのなら、人形を通して美しさを感じた自分の心を表現したい。私は頷いてしまった。
「赤い鶴…… 置かないよ」
夏目は満足そうに微笑んだ。
「約束だよ」
十五分にも満たない青紫色の世界に染まる逢瀬が終わり、その後、取り憑かれたように人形作りに打ち込んだ。夏目の雰囲気に似た、美しい少年が出来上がった。過去最高の出来栄えだった。そのせいか私は若き人形師としてニュースに取り上げられたり、東京の展示会に出展出来たりと、世の中に創作人形を出せる力量にまで成長出来たのである。
二藍の月が訪れるたびに、夏目と出会い、インスピレーションを得て人形を作る。そんな日々を過ごしているうちに、私は父の伝手を通して竹久保人形工房に就職し、根を下ろすように人形作りに腰を据えるようになった。
しかし二十近くなる頃には、私の心に変化が起きていた。今までは夏目が醸し出すような美しさだけを求めて人形を作っていたのだが、父の言葉を思い出すようになり心境が変わった。人形作りに大切なのは、この世で最も愛している人を思い浮かべること。
今の私は、そのような人物はいない。過去にもいない。もし愛する人が出来たのなら、もっと美しい人形が作れるのだろうか。
過去に想いを馳せていると、いつの間にか外は濃い群青色の空が広がっていた。窓辺に近づくと、街並みを見下ろす白い満月があった。
じっと月を見守っていると、夜空に変わると同時に、月の中心からインクの液を垂らしたようにじわじわと青紫色の染みが広がっていく。ついに月が青紫色に変わった瞬間、柔らかな青みがかった紫の光が地上に広がり射し込む。
その時、玄関を軽く叩く控えめな音が聞こえ、はっと振り向く。扉を引くと、十六歳の姿のまま微笑む夏目がいた。
「こんばんは。また綺麗な女性になったね」
嫌味か―― と言いそうになる舌を抑え「あなたには負ける」小さな声で返すと、夏目は私に首を回して抱きしめた。冷凍庫のような冷気に首周りが包まれる感覚に、思わず顔をしかめる。
「君と会うと、心が安らぐよ」
穏やかな声色に、私は今まで聞きたくても聞けなかった質問を口にしていた。
「死ぬことを躊躇わなかったの」
耳元で夏目は囁くように言った。
「僕は死んでいない。この世からあの世に魂が移動しただけだ。死っていうのは、この世に産まれていない人間のことを表すんだよ。僕は予定より早く、この世から引き上げただけだ」
「私には理解が出来ないわ」
「理解なんてしなくていいよ。僕だって君がどうしてそこまで人形に情熱を注げるのか、理解が出来ないもの」
夏目は私から身体を離し、ゆるりと微笑んだ。ねぇ夏目―― と声をかけると、彼は幼い子供のように首を傾げた。
「もう二藍の月に私のところに来ないで欲しいの」
なぜ、と急激に鋭くなる瞳から視線を逸らす。
「私はね、あなたからインスピレーションを得て人形を作ってる。でも、終わりにしたい。お父さんが小さい頃に言ったみたいに、心から愛している人を見つけて、その人を思い浮かべて作ってみたいの」
「僕じゃ駄目ってこと?」
冷めた声が頭上から降り注ぎ、私は震えそうになる手を抑え、真っ直ぐに彼を見つめた。
彼は無表情だった。
「僕と君はずっと文通していたよね。僕は…… 君を特別に思ったのに。君に会う為に死んだくらいには、僕は君を想ってるんだよ。僕の何が駄目なの」
怖いから、とは言えなかった。その執着が恐ろしい。その想いが恐ろしい。身勝手な思いだとは分かっている。みっともなく言い訳のように「私には不釣り合いだから。あなたは綺麗で、私は普通」と答えた。彼は怒った声色で言った。
「いいよ、分かった。この頑固者、もう来ないよ。でも―― チャンスをくれる?」と言った。
「チャンス?」
顔を上げてみると、素晴らしい閃きが頭の中に巡る子供のような顔で、彼は微笑んでいた。
「この世で君が命を終えて、もし愛する人が見つからなかったら。あの世で僕の傍にいて欲しい」
「どうしてそこまで私にこだわるの?」
薄らと頬を染めてはにかんだ夏目は、ちらりと私を見た。
「君が人形に執着する熱を、僕に向けてくれたらって願ってしまったからかな。人形に没頭するみたいに、僕にも没頭してくれたらって思う。ねぇ、この呪いくらい、許してくれる?」
私は苦く笑った。
「分かったわ」
夏目は晴れやかな笑みを浮かべて「ありがとう、ミサ」と言った。その時、すぅっと彼の全身が半透明に変わっていく。
「あぁ、もう終わりか」と夏目は惜しそうに言った。空を見上げると、青紫色だった月が次第に元の色へと戻り始めていた。
「さようなら、ミサ。僕はずっと君を想えて幸せだったよ」
彼は私の頬に唇を寄せて、静かに消えていった。私は玄関の外に出た。ひんやりとした風がうなじを撫でていく。白目を剥いたような月を見上げて囁くように言う。
「さようなら、夏目―― 」
これでもう彼と会うことはない。安堵が身体にじんわりと漲る。私はふと気がついた。工房の入口に鍵をかけていただろうか。一階に降りようと、階段に片足をかけた瞬間だった。台風の突風のような激しい風が、唸る雄叫びを上げながら吹いた。同時に夏目の嗤い声も風の中に聞こえる。
ぎょっとして手すりを掴もうとするも、間に合わなかった。背中に風の塊が体当たりしてぶつかる。ぐらりと前のめりになった私は、階段から真下へと身体が落下した。地面が一気に視界に迫る。
嫌―― !
頭部と全身に強い衝撃が襲い、銀色の眩い光が目の裏に弾ける。目の前が一気に黒に染まり、私は悲鳴を上げようとした。
だが、出来なかった。誰かが私の口元を塞いでいたのだ。
「あの世へようこそ、ミサ。わがままで、身勝手な君は僕と一緒に、地獄にいるのがお似合いだ。離さないよ、絶対に」
暗闇の中、夏目の不気味な声と、全身に絡みつく蛇のような感覚に捕らわれ、私は「許して」と言いながらゆっくりと眠るように意識を落とした。
初恋を、縛る。 海汐かや子 @Tatibanaeruiza
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