第11話:姫子の憂鬱
「おーねーえーちゃーぁぁん!」
家に帰るなり、ただいまも言わずに公子は姉の部屋へ駆けあがった。
「なに?」
姫子は機嫌の悪いぶっきらぼうな返事と共に参考書から顔を上げた。
公子からミテルくんが元の位置に戻っていたという話を聞いた姫子は、「はぁ?」とさらに機嫌悪そうに毒づいた。
そんなことあり得ないんだけどなぁ、とボヤきながらも、少し考える素振りを見せた後、『百聞は一見に如かず』と呟いて細い腰を上げた。
***
二人が歩道橋の元に着いた頃、午後になって曇り始めていた空からパラパラと雨が降り始めた。
念のため持ってきた傘を開きながら二人はほぼ同時にため息をついた。
雨の夕暮れ、家路を急ぐ人の中で、傘もささずに立ち尽くすミテルくんの背中は寂しげだった。
個人的障害の復活にショックが隠せない公子も、その姿を見て少し同情を感じたような、そんなため息だった。
しかし、姫子のため息は、全く別の種類のものだった。
この上ないほどに苛立ちを抑えるためのため息だった。
「なんで戻ってきてんのよ?」
無縁体とは会話が成り立たないと分かりきっているものの、苛立ちが抑えきれず、ミテルくんに近づいて思わず声をかけた。
滅霊師の滅霊術における指示は絶対で永遠だ。
滅霊師の指示(主に呪縛と言われる)は、何百年でも新たな術で上書きされない限り、消えることも変わることもない。
そして、姫の能力を持つと言われる姫子の言葉は、その中でも絶大な力を持っているはずだった。だからこれまで約2年の修行の中でも、姫子の指示に反した霊はいなかった。
それなのに、だ。
(あり得ないことが起きている)
姫子は霊を前に生まれて初めて動揺した。
落ち着きを取り戻そうと目を閉じて深呼吸すると、雨の匂に混じって道路脇の雑草の匂いがした。
(そういえば――)
自分には関係ないと思って記憶の隅に追いやっていた、いつかの座学の授業の内容を思い出した。
ごくまれに、霊が指示に従わないケースがある、という例外的な話だった。
(確か、滅霊師と霊との力の差が大きい場合、または、滅霊術の完成度が低い場合、だったっけ?)
姫子は目を開いた。
つまり、この場合、姫子の能力よりもミテルくんの力がはるかに大きいか、姫子の術が不完全だったか、ということになる。
無表情で無害な霊が、前者のはずがない。
そう思った姫子は、昨日の自分の術を思い出して何か間違ったところはなかったか考えた。
思い当たるのは、ただひとつ。
「あんたが余計なこと言うから」
突如ぶつけられた攻撃に、心当たりありません、という顔で返してきた公子に説明した。
「商店街の中央に立ちすくんだミテルくんを道端に移動させたじゃない。あれが余計だったのよ」
自分の中での結論を得た姫子は冷静さを取り戻すと、傘を公子に持つように無言で指示した。
公子の掲げた傘の下で、姫子は再び滅霊の所作を始めた。
降りしきる雨の中、公子たちの周りだけ雨音が少し静かになり、姫子の透き通る声が響いた。
ミテルくんは、昨日と同じように無表情のまま、交差点の角を曲がり商店街の方へ消えていった。
姫子と公子が後を追うと、やはり、昨日と同じ道の真ん中に、ミテルくんは立ちすくんでいた。
今度は大丈夫、と姫子は確認もそこそこに、足早に家路を急いだ。
振り返った公子には、雨に濡れたミテルくんの背中がなんだか悲しそうに見えた。
翌朝、何事もなかったかのようにパンをかじる姫子を気にしつつ、公子は家を出た。
昨日は家に帰ってからも姫子は一言も口をきかずに自室に閉じこもってしまった。
すれ違いざまにでも、ありがとう、と言うことはできたのだが、口には出せない嫌な予感が公子にそれをさせなかった。
そして、その嫌な予感は、残念ながら的中していた。
歩道橋の下に戻っていたミテルくんの姿を見つけ、公子はスマホで姉にメッセージを送った。
すぐについた”既読”のマークとその後の反応のなさが、その日一日の公子を憂鬱にさせた。
その日も午後から雨が降り始めた。
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