第11話 歌舞伎町
ジョン・レノンは、50年代のスタンダードばかりをカバーしたアルバム『ロックン・ロール』を1975年に発表後、息子ショーンの育児に専念すると称して、音楽活動を実質停止していた。
主夫生活に終止符を打って、五年ぶりにレコーディングに入るきっかけになったのは、ビートルズのアニメーション映画『イエロー・サブマリン』を見た愛息の一言「パパはビートルズだったの?」であった。
ニュー・アルバム『ダブル・ファンタジー』は、ジョンとヨーコの曲とが交互に対話形式で収められている。ジャケットは篠山紀信撮影、モノクロームによる二人のキス・シーンである。
A面1曲目『スターティング・オーヴァー』は長い不在をファンにわびるように、かつて愛した君に再会して生まれ変わったようだ、一緒に新しい世界に飛んで行こう、と歌っている。
ジョンの歌を聴いていると、マナが起きてきた。
「ねえ、わたしはいつ仕事に戻るの?」
「仕事がしたいのか」
「だって、また音楽祭とかあるんじゃないの。どうせ聖子かトシちゃんだろうけどさ」
「明日の昼に、事務所の人間が迎えに来る」
「じゃあ、明日までフリーなのね」
俺がうなづくと、マナはおもむろに上着を着始めた。
「連れて行って欲しい所があるの。ね、行こう」
「もうダメだよ、外へ出るのは」
「部屋に男女二人でいちゃ、何か起きてしまうでしょ。それともそれが狙い?さっき寝てる間に、もう悪さしてたりして」
「バカ言うな」
「あなたが行かないって言っても、ひとりで行っちゃうよ」
このアマなら、そうするだろう。抵抗はもはや無駄だった。俺は言うなりの召使いに過ぎなかった。
アース・ウインド&ファイアーの『ブギー・ワンダー・ランド』が流れる。去年のヒット曲だ。
やって来たのは、新宿歌舞伎町のディスコ『ゼノン』。
二年前の『サタディ・ナイト・フィーバー』以来のディスコ・ブームだが、来た事はなかった。女二千円男三千円、痛い出費だ。いったいこの千円の差はどういうことか。
ミラー・ボールが回る下、若者たちが祭りのようにひしめき合ってステップを踏んでいる。昔はゴーゴーとかフリフリとかいう踊りが流行ったが、それとはまるでスピードが違う。
マナは入場するやいなやフロアーに消えた。見失うわけにいかない。黒服の豹のような視線を感じながら、三十おやじは恐る恐る、踊るアホウどもの中へ入った。
「おい、どこが疲れのとれる場所だよ、だましやがって」
「踊ったら、やな事なんてフッとんじゃうよ」
「いったい何考えてんだ。今の自分の立場がわかってんのか」
「カラスの勝手でしょー」
志村けんのギャグを残し、軽やかにはずみながら、奥へ奥へと進むマナ。ステップも重く、後を追う俺。
背の高い陸サーファーの腕を軽く突き飛ばす。「ごめんよ」と言うが早く、陸サーファーの黒い手に肩を捕まれる。“ボートハウス”とロゴの入った黄色いトレーナーが目の前に映った。曲はビルボードNo.1、クイーンの『地獄に道づれ』に変わる。
「どこ見てんだ、おっさん」
「あやまっただろ、どいてくれ」
振り払おうとした手をつかまれたので、その手はひねり返してやるしかなかった。「いてっ」と言う相手の顔に、不本意ながら一発おみまいをした。
周囲のざわめきに立ち止まったマナの手をとった。「出るぞ!」
出口に向かう俺たちの前に黒服が立ちはだかる。
「お客さん、面倒は困りますね」
「だから出てくよ」
黒服の豹の目が、マナを追ったのを察したと同時に嫌な予感が走った。こういう予感は当たる。
「直木マナだ!」
今日二発目の鉄拳が、迷いなく黒服の鼻にはまった。その場に崩れる黒服をまたいで進む。
エレベーターのスイッチを押す。ここは5階、エレベーターは今2階だ。
陸サーファーの仲間たちが追ってくるのが見えた。2から3、3から4にランプが移る。
「いたぞ!」誰かが叫ぶ。チン!という音。5の数字が光る。
着いたエレベーターは満員だった。脳みそのたれた若造どもがのろのろと降りてくる。
マナの頭をおもむろに脇に抱え込み、顔を隠した。まだ降り切らない奴らをかき分けて、中へ入り込む。最後に残ったデブの尻を蹴飛ばしてドアを閉める。血走ったサーファーどもの顔が目の前で扉にかき消された。
マナの手は細く、冷たかった。息も白くなる凍えた夜に、まるで氷を持って走っているようだった。
コマ劇場の前を抜けて、ビニール本屋のいかがわしいネオンがひしめく通りを逃げた。『シャイニング』『マッド・マックス』『レイズ・ザ・タイタニック』、正月映画の大きな広告看板が並ぶのが見えて、スタジオアルタ前の横断歩道を渡ると駅に着く。
振り返っても、追っ手はもう見えない。地下へ降りたところで速度を落とした。握った手も離した。
「ああ、面白かった。久々のスリルとサスペンスだったわ」
笑っているマナが癪にさわった。
「何が面白い。捕まって、お前だとわかったらどうなってたと思う」
「サファイアのクミちゃんと来た時は、どうにもならなかったよ」
「バカか、お前。ヤバいことがわからないのか」
「どうせバカよ。でも、騒ぎを起こしたのはあなたでしょ」
「あんなところへ行ったのが、そもそもの間違いなんだよ」
「だったら、連れてかなきゃよかったじゃない」
「お前がだまして、引っぱって行ったんだろ」
「お前、お前って、気安く呼ばないでよ。あなたの女じゃないんだから。わたしを誰だと思ってんの」
「その高飛車な性格直した方がいいぜ」
歩きながら、次第に溜まったストレスがマグマのように溶融して、出口目指して逆流して行くのを感じた。
「昨日から何様のつもりか、命令したり説教したり、いい年して何やってんのかわからないヤクザ者に、えらそうにされたくないわ」
「おー、そうかい」
「その顔もキライ。服のセンスもキライ。見るのも不愉快」
「親の顔が見てみたいね」
「声もキライ。しゃべり方もキライ。大キライ」
「うるさい!やってられるか!俺は降りる。お前のお守りはもうたくさんだ」
噴火だ。立ち止まり、俺はマナに向かって火を噴いた。
「わたしを守るのが仕事なんでしょ」
「俺は社長に頼まれた仕事をやってるだけだ。誰もお前を守りたくてやってるわけじゃない。スキャンダルで火だるまになろうと、芸能界を追われようと、知ったことか。お前が気持ちいい事したツケじゃねえか。てめえのケツはてめえで拭くもんだ」
「何よ、セックスしちゃいけないの?」
マナの大きい声にも、人ごみの中振り返る者はなかった。
「わたし、ヴァージンだなんて言ったこと一度もないし、デビュー前の事を何でとやかく言われるの?ねえ、どうして?」
マナの目を見た。俺を睨んでいる眼差しは、『ゆれる想い』のサビで見せるのと同じそれである。
「難しい質問だな…」
その答えがすぐ出れば、芸能人は誰も悩まない。
「自分で探しな。答えはいくつもある」
要するに、芸能人にはプライバシーがないという事だ。私生活も芸の一部であって、ワイドショーや週刊誌の記事を娯楽としている層がいる限りは、個人的な恋愛などのゴシップでも楽しませる義務がある。スターは作られたイメージを、公私にわたり演じる事で食っている。それが裏切られた時、ファンは怒ったり悲しんだり、面白がったりする。イメージ通りの事をしていれば誰も騒がない。その裏切り行為を、人はスキャンダルと呼ぶのだ。
しかし、芸能人にも一時のプライバシーはあっていい。セックスも禁じられているわけではない。ゴシップの相手が一般人ならば、その彼(又は彼女)は明らかに被害者だ。デビュー前の過去も暴かれる必然性はない。マスメディアという権力が作る大衆の妄想。それは人生を狂わす事さえある。
高い収入は、人生全てを拘束される事に対する代償だ。それが嫌なら、答えは早く出せばいい。這い上がるのは至難だが、抜け出すのは容易な世界だ。酷似していると言われる仁侠界とは、そこが違う。掟に耐えられなければ、リタイヤは自由だ。
「要はそんな事を口走っているうちはまだ甘いってことさ」
俺はマナに背を向けて歩き出した。
「置いてくつもり?」
マナが背中に言った。俺はもう一度振り返った。
「ここで仕事投げ出したら、ママに殺されちまう。お互い明日までの辛抱だ」
それから電車で池袋へ帰り、わが部屋で二度目の夜を送ったが、互いにほとんど口をきかなかった。二人とも疲れていたが、マナの寝息を先に聞いた。
マグマを噴火させるほど俺を怒らせたのは、冷静にしてみれば、一匹のか細いうさぎだった。昔聞かされた民話に出てきた、鮫を騙し、皮を剥かれて泣いている赤裸のうさぎだ。
だが、それを救う神様は俺ではない。俺の仕事は人助けとは違う。義務を果たして金をもらう、単なるサラリーマンだ。
十一月二十九日 土曜日
午前八時半、ソファーで目覚める。
マナがいないことに気付く。ひとりでタバコでも買いに出たのかと、外を探し回る。コンビニ、公園、駅前まで歩いたが、マナの姿は見当たらない。
事務所へ連絡するべきか。部屋に戻り腕組みしていたところ、突然の電話のベルに息を飲む。
「おい!あんた何やってんだよ」
嶋チーフ・マネージャーの声。嫌な予感が当たる予感がする。
「満足に出来る仕事はねえのか。あんた、マナの見張り頼まれたんだろ。何してんだ、いったい」
「何があったんだ…」
取り返しのつかない事でも起きたか。頼む、早く教えてくれ。
「マナから電話があったんだよ。四谷駅にいるから迎えに来てくれって。事務所の前はヤバそうだから、ここで待ってるってな」
「それで?」
「無事保護した。今、俺の横にいる」
肩が深く短い息をして下に落ちた。「よかった…」
「何がよかっただ!」嶋が怒鳴る。
「結果はともかく、もしもの事があったらどうするつもりなんだ。今度こそ間違いなくクビだぜ。ま、社長には報告するけど、穏便にとは言っとくから。あんただって、今の仕事追われたらやる事ないだろ」
言われる事は全てもっともだが、いちいち癪に障る野郎だ。
電話が切れると同時に、予定より早く小娘の呪縛から解放された事にバンザイし、次には出掛ける支度にかかっていた。
もう一度三島へ行かねばならない。
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