第4話 アイドル

 六本木から西池袋のマンションに帰る途中、トルコ風呂に行きたくなった。(トルコ風呂=現在のソープランドのこと)

 行きつけの店がある。池袋北口の“フェニックス”で、名前に引かれて入って以来通いつめている。もちろんお目当てがいるのだ。

 今日もその子を指名した。源氏名がMIE(ミー)。見た目や話の端々から推定して二十五、六歳か。三年前ピンクレディー全盛期にこの店に入り、ミーに似ているというので今の名が付いたという。

「ずいぶん顔見なかったですね」

「うん、金欠でね。やっとまとまった金が入ったものだから」

「あら、じゃあ今日はサービスしなきゃいけませんね」

 服を脱がされ、横になって彼女を待つ。上向きの乳房が小気味良く揺れながら近づいてくる。こちらの胸も躍るようだ。

 しばらく彼女に身をまかせる。特別テクニックに長けているわけではない。むしろ、三年もこれで食ってる割には不器用できごちない。彼女目当てに通う理由は他にある。

「忙しいんですか」

 下腹部に舌を走らせながら、そう尋ねてくる。MIEはいつも敬語をくずさない。この仕事の前は電話交換手か、エレベーターガールか、学校の先生か。

「明日から忙しくなりそうだね。直木マナって知ってる?」

「さあ‥テレビに出てる人ですか」

 テレビをあまり見ないらしく、芸能人の名前を極端に知らない。あのピンクレディー・ブームの頃、ミーに似ていると言われて、ピンクレディーはさすがに知っていたが、ミーとケイの見分けがつかなかったらしい。

「ミッキーマウスといっしょに学生服のコマーシャルに出てるよ。あと、グリコのポッキーチョコもやってる」

「わかりました。男の子とテニスやってるコマーシャルでしょ」

「違う、それは松田聖子。もっと髪の長い、弱々しい感じの子」

 それは松田聖子も同じか。説明がむずかしい。

 下の方をMIEに含まれながら、マナの特徴を思い出す。

「今、中島みゆきの歌を歌ってる。『ゆれる想い』っていうの」

「あ、知ってます。どちらが好きなの~っていう曲ですよね。聴いたことあります」

 音楽はよく聴くらしい。50~60年代の洋楽には特に詳しく、それで話も合う。ボブ・ディランで盛り上がり、二時間話し込んで目的も果たさず帰ったことがある。

「今日もリハーサルしてたんだけど、今年の新人で一番人気らしい。でも、俺にはもうわからんね、あの年代の子の魅力ってのは」

 MIEには職業をバンドマンと言ってある。彼女もフェニックスの曲は知っているが、ベースを弾いていたのが俺だったとは夢にも思っていない。

「だって、娘でもおかしくないくらいじゃないんですか」

「失礼だね。だけど、当たらずとも遠からずだな」

「かわいい子だけど、ああいう子に限って表裏があったりするんでしょうね。生意気で、マネージャーを平気で怒鳴る新人歌手もいるって、何かに書いてありましたよ」

 その通りなのだ。

 毒を溜めていっぱいにふくらんだ俺に、MIEが帽子をかぶせてくれる。ゆっくり上から突き刺さって来ると、泡にまみれた俺の剣が、彼女の秘密をとらえた確かな手応えがあった。

 控えめな喘ぎ声で俺の上を踊るMIEの顔は、どこから見てもトルコ嬢のそれではない。彼女の顔には知性が住んでいる。拍子抜けさえしそうな丁寧語や、ゆったりした性格にもそれはある。が実際、あなどると足元をすくわれるほど、博識に富んでいて話題が豊富だ。商売柄ではなく、芸能人の名前以外は実にいろんなことを知っている。トルコ嬢としては少し、いや、かなり変わっている。初めて店に来た時から、俺はそこに魅かれた。

 西池袋の書店で、MIEらしき女性を見かけたことがあった。眼鏡をかけて哲学書の棚を眺めていた。最初は別人かと思ったが、右首筋のほくろを確認できた。野暮なので声はかけなかった。得意の尾行をして彼女の私生活を垣間見てみたい衝動にかられたが、思い止めた。夢は見続けた方が楽しい。

「ああ…星さん…もう、だめです…」

 MIEの端正に整った少年のような顔が官能的に歪む。俺の意識も浮遊して、虹色のシャボンとともに宇宙空間をさまよい遊ぶ。彼女の腰が激しく動き、こらえきれず爆弾ははじき出される。インテリトルコ嬢と共に達する極楽の瞬間。哲学的じゃないか。癖になってもしかたないだろう。


 帰り際、フィリップ・マーロウとは何者かを尋ねた。

「レイモンド・チャンドラーって有名な推理作家の小説に出てくる、ストイックでダンディーな私立探偵の名前です」

「ハンフリー・ボガードがソフト帽かぶって演ってた気障な奴か」

「ボギーも演ってたと思います。そういえば星さんて…」

「なに?」

「ボギーの再来とか言われてるアメリカの若い俳優がいるんですけど、その人に少し似てるかもしれません」

「だれ?」

「ハリソン・フォードって、『スター・ウォーズ』に出てた人です。主役じゃないんですけどね」

「『スター・ウォーズ』なんて、君見たりするの?」

「この夏も『帝国の逆襲』見に行きました。ファンなんです」

 二年前評判になった一作目は見たが、子供じみていて乗れなかった。続編は見ていない。その役者の顔もピンと来ない。が、この会話は妙に気分を良くさせた。まるで高校生のように、いつまでも繰り返し、その真意を考えたりした。



 別にトルコが好きなわけではない。確かに今、定期的にセックスを出来る相手はいない。芸能界では挨拶代わりに体を交わすと誤信する一般人は多いが、ゴシップというリスクを犯してまで、お手軽に遊ぶ芸能人は一握りだけだ。ただし、思いがけぬ相手と突然ベッドに入る機会はたまにある。

 ついふた月ほど前にも、男と逃避行を謀った落ち目のアイドルを連れ戻す帰り、捨て鉢になって胸に飛び込んできた十八歳の娘を、男と潜伏していたそのホテルで抱いた。歳が自分の半分しかない、ほんの子供だ。普通なら商品に手など出さないが、キズモノならもう値打ちもない。

 それからすぐ、彼女は引退をした。事務所を去る前の夜彼女からマンションに誘われ、弾けそうな十八の肌を一晩中むさぼった。これからも会いたいという囁きは、面倒なので聞こえぬ振りをした。


 こんな俺でも、十四年前結婚していた時があった。二十一歳の頃だ。たった三ヵ月で終わったが、思い出す度ノスタルジーと悪夢が入り混じった複雑な感情に胸を締めつけられる。

 智子は今でも、俺の中では理想の女性像として君臨している。非の打ち所のないマスクも、聞き心地のよいハスキーボイスも、手に余る大きなバストも、本人は気にしていたが、やや安産型のヒップも、薄いヘアーに包まれた愛おしい彼女自身も、全てが完璧だった。これだけ兼ね備えた女性には、その後十四年いまだめぐり会えていない。

 一目惚れだった。藍(あい)智子はコーラスガールのひとりで、やがてソロ歌手として伊東ゆかりや黛ジュンになるのを夢見る十九歳だった。

 昔で言うところのトランジスタ・グラマー、はちきれそうな体の上には、似つかわないベビーフェイスが乗っかっている。『サウンド・オブ・ミュージック』『メリー・ポピンズ』のジュリー・アンドリュースを真似た栗色のショートヘア。光が射したように目立って見えた。

 よく、会った瞬間に結婚すると予感した、なんて言う奴がいるがあれは嘘だ。一目惚れの度に結婚してたらきりがない。だが、智子を初めて見たその一瞬、俺の瞼のシャッターは忙しなく作動した。現像されたスナップが届く頃、脳はもう、この女をモノにする方法を思案していた。

 当時、歌番組はそう多くなかったので、週に何度も顔を合わせた。フェニックス全盛時、俺もかなり遊んでいたが、会う度に智子の顔が頭から抜けなくなった。ある日、軽いノリでストレートに、仕事の後ホテルで会おうと誘った。その時、コーラス以外の彼女の声を初めて聞いた。

「悪いけど、男はお断わりなの。じゃあね」




 マンションに帰ったのは九時三十五分。テレビをつけると『ザ・ベストテン』は終盤で、久米宏は三位の五輪真弓『恋人よ』を紹介していた。

 昔失敗して以来、酒はやらない。コーヒーを沸かしながら、ミス小野から受け取った直木マナの資料を広げた。

 スカウトされた少年少女は、まず身元を徹底して調査される。十代とはいえ、ルックスで人目を引く若者たちはそれなりに人には言えないような青春を送って来ている。セックスについても、驚くほどのプロフェッショナルが多い。その過去を全て洗い出し、もみ消してからでないと、タレントとして世に送り出せないわけだ。特に力を入れている金の卵ならば、いっそう調べの方も念入りになる。

 マナの場合も、リサーチは金も時間も人手もかけたはずだ。それをまとめたのが外注探偵の桑田だ。ここにあるのは、マスコミには出ていないマナの裏プロフィールである。


 本名:万藤真奈美。昭和36年10月10日静岡県三島市生まれ。

 父:養蔵、45歳。地方新聞広告部の営業次長。

 母:百合子、39歳。中学校の国語教師。

 兄:寛人、24歳。公務員、市役所勤務。以上の四人家族。絵に描いたような堅実な家庭だ。

 兄が小さい頃より読書好きで、クラス委員や生徒会役員にも選ばれる秀才だったのに対して、妹のマナは勉強が低調で、逆にスポーツに活路を見出した。中学校時代は陸上部の選手として活躍。男子生徒間での人気は抜群で、常にラブレターや交際の申し込みが絶えなかった。その意味で他クラス、他学年でも知らぬ者がいないほど、目立つ存在だったらしい。

 そんなマナの姿がいわゆる不良生徒の群れの中に見かけられるようになったのは、中学三年の夏頃からである。それは突然の変化で、両親や先生たちはとるべき態度や方法を持てなかった。もともと悪かった成績も受験を前に低落し、高校は市内で最低レベルの女子校にギリギリですべり込んだ。

 高校からのマナは、授業への出席はもとより部活動にも入らず、喫茶店などのアルバイトにいそしみ小遣いを貯めた。遊びにはしばしば東京へ足を伸ばすこともあった。高校二年の秋、原宿のアイドル・ショップにいるところを、オノプロのスカウトマンの目に留まる。そして一年半後、レコード・デビュー。



「第二位は『ゆれる想い』直木マナ。7879点!」

 テレビを見た。

 ミラーゲイトから笑顔のマナが登場した。さっき見た白いフリフリドレスだ。黒柳徹子が質問する。

「直木マナさんは、中学時代陸上部の選手でいらっしゃったそうですね」

「ハイ、そんな、全然速くないんですけど‥」

「じゃあ、ちょっと走っていただきましょうか」

「え~っ」屈託のない笑顔でセットまで走って行く。正真正銘のアイドルだ。こういうのを最近では“ぶりっ子”という。今昼の付き人との会話を思い出す。

 歌が始まる。二年前は静岡で暴走族と戯れながら、ピンクレディーや山口百恵にあこがれ、幾度も東京に足を運んではスターを夢見ていたツッパリ少女が、ここでスポットライトを浴びている。“ぶりっ子”の仮面を着けてだ。

 不良時代の経歴は、全てミス小野の手で葬られているはずである。そして今、俺は彼女の過去の恥部に踏み込もうとしている。今読んでいたストーリーは、表には出ていない裏のプロフィールだろう。おそらくマスコミには、もっと健康的な別の経歴が紹介されている。

 しかしなぜだろう。このレポートにどこかすっきりしないものを感じる。マナの姿をテレビでながめているとますますわからなくなるが、ここに書かれていることに作為を感じるのである。俺はまだマナについてほとんど何も知らない。が、この裏プロフィールにあるレシピでは、現在の直木マナまたは万藤真奈美は作れない、そんな気がするのだ。

 モカが香り立つ湯気を上げる頃、天敵松田聖子の『風は秋色』が今週も一位と発表された。マナの付き人風間の今夜の災難を憐れんだ。

 分厚いファイルを詳しく読み終わったのは十一時。冷めたコーヒーでビタミン剤を流し込み、天気予報を見てから寝ることにした。最近、降水確率というのが出るようになった。50%というのは半々の確率で降るということか。げたを投げるのと変わらない。

 明日は静岡。

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