MARIKO 或る少女歌手の死
星ジョージ
第1話 マリコが死んだ。
岡村まり子が死んだ。
1986年(昭和六十一年)4月8日、陽春の日、桜は七分咲き。
都会のビルの屋上から、18歳の天使は宙に舞った。
8日の午後3時過ぎ。
大学の入学式から帰り、アパートで寝ていた。若者はみんな眠いのだ。
電話が鳴った。高校の同級生だった。
「もしもし。何だい、浪人生」
「おい、いまテレビ見てるか?」
「いや・・・」
「すぐ見ろよ。岡村まり子が死んだんだよ!」
「なに?」
意味が吞み込めなかった。
「自殺したんだ。早くテレビつけて見ろよ!」
テレビのスイッチを入れた。古い型なのですぐ画面が出ない。
映し出されたのは、人だかりの前でレポーターがしゃべっている姿だった。
「まり子さんはこのビルの七階屋上から飛び降りました。午後12時20分、即死だったそうです・・・」
即死・・・その言葉は知っていたが、ここでの意味はどういうことか。夢から覚めるにはどうすればいいのか、と思った。
それから浪人生と何を話して、どう言って電話を切ったのか、覚えていない。
「報せを聞いて駆けつけて来たファンの皆さんの数も、少しずつ増えてきています」
行かなくてはいけない。
場所は四ツ谷だ。
岡村まり子は、2年前の1984年に「初めてのデート」でデビューしたアイドル歌手だ。
その年の主な新人賞を独占し、その後もシングル盤はすべてベストテン入り、今年1月に発売された「恋のネットワーク」は、初のオリコン1位を獲得。昨年はテレビドラマ「禁じられた少女」で主演を務めた。
折れてしまいそうな細いからだに、どこまでも澄んで、きらめくような瞳。透き通った声で、少しおびえたような仕草で踊りながら歌う姿。清楚なルックスと言えばありきたりだが、おそらく何の汚れも知らない、「無垢」という言葉が最も似合う女の子だ。
僕は、デビュー間もない彼女を「夜のヒットスタジオ」で初めて見て以来のファン。
どのくらいのファンかというと、シングルレコード、アルバム、写真集は出ているものをすべて、限定版まで全部所有(発売日に購入)。「平凡」「明星」は毎月買う、他の雑誌も写真が載っていれば入手。出演番組はあらかじめチェックして見る、録画して何度も見る、見逃したら地団駄を踏む。コンサートには、他県でも可能な限り(電車で日帰り圏内なら)出かける。もちろん部屋には特大ポスター、定期入れにはプロマイド、ファンクラブでも比較的若い会員番号(35番!)であることを誇りとしている。ひと言で言ってしまえば、熱狂的(それもかなりの)ファンというやつだ。
5時前に四ツ谷に着いた。
場所は、人だかりですぐにわかった。大半が十代後半から二十代の若者たちで、学校帰りの制服姿も多かった。
ただボーッと立ちすくむ者、真面目な顔で友人と話している者、目にいっぱい涙をためている者。ニヤニヤしながら仲間とふざけている奴らもいる。圧倒的に男が多いが、中には女子の姿も。
みんなが囲んでいる、おそらく現場であろう場所へ入って行った。
ロープが張られた中、すぐ目に入ったのは、地面に書かれた白いチョークのあとだった。
それは人間の形を囲んだものではなくて、細長く伸びていて、囲まれた中がシミのように汚れていた。
血の跡なのだろうか。あそこにマリコの血が流れたのだろうか。
その時、誰かに肩を叩かれた気がした。
「やあ、君も来たのかい」
見覚えのある顔が、立っていた。でも名前が出て来なかった。
「覚えてる?山口だよ」
昨年12月名古屋のコンサートで、偶然隣り合わせて、少し話をした男だった。
お互い一人で来ていて、彼の方から話しかけて来た。自分は名古屋に住んでいて、マリコと同い年(つまり僕とも同い年)、デビュー時からのファンで、レコードは全部持っている、などと気さくに話してくれた。僕が冬休み中のコンサートをずっと回っていると話すと、感心して羨ましがっていた。彼もかなりのマリコファンと感じられ、コンサートが終わると、握手をして別れた。
「テレビを見て来たのかい」
「ああ、びっくりしたよ。いつから来てるの」
「3時間くらい前かな」
「え、3時間?」
「さっきまで警察がいて、すごかったんだ」
「君、名古屋じゃなかったっけ」
「うん、ちょっと遊びに来ててね。受験、全部失敗してさ、予備校まだ始まらないから」
親戚の家に来ていて、ニュースを見て飛んで来たらしい。
駆け付けた時はここまで人は多くなく、遺体は運ばれた後だったが、警察が長い間現場検証をしていたという。
「詳しいことはわかっていないの」
「うん、さっきそこでファンらしき人に訊いてみたんだけど、どうやら午前中にも一度自殺未遂をしてたらしい。それでマンションから事務所に連れて来られて、ちょっとの隙に屋上に上がったって」
「いったい何で自殺なんて」
「それなんだけどね、一応遺書があるらしい。内容はまだわからないんだけど、その中に男の俳優の名前が挙がってるって噂なんだ」
「男の俳優?」
とっさに「禁じられた少女」が浮かんだ。あのドラマに出ていた数人の男優たちの顔が思い出された。その中の誰かに違いない。誰なんだろうか。
「それ以上は誰もまだ知らない。まあ、いずれわかっていくさ」
山口は用事があると言って6時頃に帰った。僕はもうしばらく現場に残った。帰れない気持ちだった。
人の数は減ることがなく、むしろ増えていた。7時過ぎ、ロープが外されると、外にいたファンの何人かが、マリコの血のあとに倒れ伏し、泣き始めた。20歳前後の少年・青年たちが、地に顔をすり寄せ、悲痛な声を上げて泣いていた。
自分もそうしたいと思ったが、恥ずかしくて決心がつかなかった。彼らをうらやましいと思い、気持ちが痛いほどわかり、初めて涙がこみ上げてきた。
昨日もレコードを聴いた僕のアイドルが、もうこの世にいないなんて。絶対何かの間違いだと思っていたけれど、どうやら現実のことらしい。
マリコ、本当に死んでしまったのか?
いったい何があった?どうして自殺なんかしたんだ?
アパートに帰ってからはニュース番組を見まくった。どのニュースも、扱いは小さいが必ずマリコの事件は伝えた。
マリコはまず朝方、一人暮らしのマンションで自殺を図った。
手首をナイフで切り、ガス栓を開いた。10時頃、近所の人が臭いに気付き、すぐに救急車で運ばれた。
手首の傷は四針縫ったが、他に異状はなく、ガスも有毒性のない天然ガスだったので、大事に至らなかった。
正午前に、所属するスターミュージックの四ツ谷事務所へ連れて来られた。しばらくは落ち着いた様子だったという。
関係者が電話に出るため、わずかに目を離した隙に、マリコは部屋を出て、そのまま屋上に上ったらしい。
スターミュージックのビルは7階建てで、その屋上からマリコの華奢な体が宙に舞ったのは、午後12時20分。
ビルのすぐ下は弁当屋になっており、昼休みに店に並んでいた客たちがその瞬間を目撃、大騒ぎとなった。
即死であった。
ピンクの封筒に入っていたという、便箋に十数行の遺書には、「勝手なことをしてごめんなさい」とあり、中に男優の名前が挙がっている、と各ニュースは伝えた。
当然のことながら、この夜は眠れなかった。いつまでもマリコのことを考え続けた。
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