第2話 村にて

 御釈蛇山みしゃくじやまの中腹、天巫女二人の住処でもある【水主知みづち神社】を出て、朱羽あけはは本当に久しぶりに御釈蛇山を下る。朱弥山しゅみせんは隣接する山ではあるが、山伝いに向かうと途中で小依川こよりがわを横切ることになってしまう。御釈蛇山側を流れる川に近づくことは厳禁だ。一度、御釈蛇山を下りてから朱弥山を登るほかなかった。


 …やっぱり。麓の方が…酷い…


 細く曲がりくねった山道を辿り、山裾の藪を抜けると、そこにあったはずの沼も池も見当たらなかった。水量が減ったとはいえ、山の川にはまだ水が流れていた。水の匂いは消えていなかった。しかし、此処ここは…


 …沼に注ぐ川が完全に干上がってる。でも、いったい、いつから?


 こうしている間にも、遮るもののない大地には容赦なく熱線が突き刺さる。じりじりと照りつける日光は、あらゆる生物を焼き殺そうとしているように思えるくらいだった。思っていたよりもずっと深刻な事態に朱羽は眉をひそめる。常ならば、田植えや野良仕事でねこの手も借りたいほど忙しい時期だというのに、村に人影は見当たらない。村は干涸らびて、為すすべもなく凶悪な日差しにさらされていた。


 …朱弥山を登る前に村の様子も見ておこうかな。


 ふと思いつき、朱羽は村の南を流れる小依川の下流方面に向かうことにした。川は低い方に流れるが、上から下に繋がっている。下流の状況を知ることで、龍の…ミシャクジ様の奇妙な変化の手掛かりが掴めるかもしれない。


 実のところ、見習い天巫女の朱羽が村を訪ねることは滅多になかった。年に一度、秋祭りの時にだけ、明里あかりと共に山を下りて、人とミシャクジ様の橋渡しをする。山や村での収穫と繁栄を喜び、ミシャクジ様へ、言祝ことほぎの口上を述べる。数年前までは幼かったこともあって、賑やかな秋祭りをとても心待ちにしていた。村は活気に溢れ、村人は山の神に敬意を払い、誰もが天巫女に親切だった。しかし、昨年と一昨年は行っていない。明里が朱羽を連れて行くことを拒んだ。「危ないから朱羽は来ない方がいい」、と。何故、危ないのか。駄々をこねたり、ねるだけでなく、ちゃんと聞いておけば良かった。


 …いつから変わっちゃったんだろう。


 天巫女は一年のほとんどを山に籠り、山を護る。人が踏み荒らしてはならない神聖な場所に注連縄しめなわを張り、注意喚起する。山の幸や鳥獣を求め、人が山に立ち入ったために荒らされたり、穢された場所を掃除する。不浄を祓う。清める。山を歩き回り、ミシャクジ様の声を聴く。以前のミシャクジ様は山のこと、天のこと、川のこと、村のこと、獣や人のことなど、朱羽に多くのことを教えてくれた。朱羽はそれを明里に伝える。明里は村に必要なことがあれば、村長の屋敷に出向いて知らせる。二人はそうやって、天巫女の務めを果たしてきた。今もそうだ。朱羽は何も変わっていない。変わったのは…明里とミシャクジ様だ。


 ―――――龍王神なるを尊み敬いて


 以前のミシャクジ様の声は、風が吹き抜けるような静かな囁やきだったけれど、耳に心地良かった。朱羽はミシャクジ様を畏れながらも怖いだけの存在ではないことを確かに感じていた。


 ―――――高天原に坐し坐して


 ―――――天と地に御働きを


 ―――――現し給う龍王は


 今年、龍に雨を乞う祝詞のりとを幾度繰り返したことだろう。この祝詞を覚えたての頃、うまく口が回らず、つっかえながらの拙い口上だったのに、ミシャクジ様の御使い龍は打てば響くように柔らかな慈雨を与えてくれた。朱羽は翠緑の雨にけぶる山々の美しさに目を見張った。


 …私は…今の私には…何が出来るのだろう。


 次第に歪んでいく綻びに気づかなかったことが悔しい。何かが狂っていることを感じながら、手も足も出せないことがもどかしい。朱羽はやるせない思いを抱えながら、独りで人気の無い川沿いの道をトボトボと辿っていった。


 パキ。パキッ。


 不意に小さな破裂音が足下から聞こえた気がして、立ち止まる。



『ホワアアァ』『アアアア』『ウアァァン』



「えっ?」


 空耳のように微かな赤子の泣き声に体が硬直する。近頃のミシャクジ様の声にも似ていたように思えた。そして、何故か、とても嫌な感じがした。恐る恐る足下を見下ろす。


 …何も…無い。


 乾いた白っぽい地面には気になるようなものは何も無かった。そこで、再び歩を進める。


 パキパキ。


『オアァァン』『ホギャァァ』『アァアァ』


 しばらくすると、また足下から妙な音と声が聞こえてくる。今度は気の所為ではないと確信し、草履を上げ、踏んだと思しきものを拾い上げる。それは小指程の長さで、草花の茎程の細い棒のようなものだった。


 …白い。軽い。割れてる…骨?


『オアァ』『フニャャァ』『ホワアァ』


 気づいた途端に声が増えた。あちらこちらから頼り無げな甘えるような呼ぶような泣き声が幾つも幾つも湧き起こる。それは一つ二つではなく、数え切れないくらいに大勢の赤子の泣き声だった。

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