龍ヲ送ル

瑞崎はる

第1話 旱と姉妹

「どうして…」


 睨みつけるように空を見上げると、朱羽あけはは乾いた唇を噛んだ。朱羽たち、天巫女あまみこは夜明け前に起きる。ここ数月は起きると同時に窓を開け、暁天そらを確かめることが習慣になっていた。


 …期待を込めて。


 しかし、今日も白々と明けていく空の彼方に、消え入りそうに透き通った雲が見えるだけだ。あんな薄っぺらい貧弱な雲では、とても雨など呼べない。

 来たる夏に向けて熱度がさらに上昇する一方で、水不足を解消させる雨が降らない。天巫女の住む山中の社から村人の住む地表に目を移すと強すぎる天日のせいで、本来ならば青々とした田や畑であるはずの場所は白茶けて乾燥し、ひび割れた大地が広がっていた。


朱羽あけは


「お姉ちゃん…」


 声を掛けられたので振り向くと、十八歳になったばかりの姉巫女、明里あかりが沈鬱な面持ちでたたずんでいた。朱羽が「今日も雨、降らないね」と呟くと、姉も「そうね」と、小さく頷いた。


「ミシャクジ様は私たちをお見捨てになったの?」


 朱羽が問うと、明里は細い首をわずかに傾げ、長い睫毛を震わせた。


「…そんなことはないわ。私たちはちゃんとおまつりしているもの」


「でも…」


 天巫女の二人がお仕えしている【ミシャクジ様】は、御釈蛇山みしゃくじやまを御神体とする神だ。


 ―――――御釈蛇山みしゃくじやまには龍が棲む。


 いただきには常に黒い雲が湧き立ち、恐ろしげな雷鳴が轟く。脆い花崗岩の多い崩れやすく険しい山は人を寄せつけぬ聖域。御釈蛇山は古来より、龍の棲む山として人々に崇め奉られてきた。御釈蛇山を下る小依川こよりがわ源流は麓にいくにつれ、四方に枝分かれする。そして、その支流の一つ一つはしばしば龍に例えられる。


 ―――――川の神である龍は水を司る。


 龍神は雨を御す。

 龍仙は川を御す。

 龍は人語を解す。


 明里は川の化身である龍神様をお慰めし、朱羽は神であるミシャクジ様の声を聴く。朱羽たちはミシャクジ様と龍神様を信仰上で厳密に分けてはいない。龍は川に。川は山に。山はミシャクジ様に帰属する。

 先の天巫女である明里あかりの母親が亡くなり、その後は明里が天巫女を継いだ。一方の朱羽あけはは赤子の頃に天巫女の母子に拾われた孤児だ。御釈蛇山ではなく、隣の朱弥山しゅみせんで泣いていた所をたまたま通りかかった明里が気づいたという。素性どころか、親がこの村の者かどうかもわからない。人の子かすら怪しかったが、ミシャクジ様にお伺いを立てたところ、【是非もなくだく】という返事だった。


「うまく言えないけど…ミシャクジ様は前と違うような気がする」


「どう変わったの?」


「濁ってる。狂ってるのかな…」


 どう言えばいいのだろう。はっきり自覚のないまま、少しずつ浸食されるような、内側から腐敗していくような気味の悪い感覚。


 …『ホアアァ』、『ナアァン』、『アァアァ』


 ミシャクジ様は言葉が不明瞭になり、最近では意味をなさない赤子のような喃語が目立つ。今ではもう何を言っているのかわからない。あまりかんばしくない朱羽の言葉を聞き、不安そうな顔をする姉に朱羽は問うた。


「お姉ちゃんは龍と会ってるんでしょう?龍は変わりないの?」


「わ、わからないわ。御役目の時、私は大抵眠っているから龍神様を見たことは…ないのよ…」


 …嘘。


 無言のまま姉を見つめていると、姉の整った青白い顔は曇り、言葉少なになり、口籠くちごもる。それを尻目に朱羽はそっとため息をついた。姉が龍を知らない筈はない。本当に知らなければ、そんなにも恥じ入ったような気まずそうな顔はしない。


 …私には言えないこと? 言いたくないこと?


 どちらにせよ、朱羽はこれ以上姉を苦しませるつもりはなく、姉の御役目についての言及は諦めた。代わりに違うことを告げる。


「私、小依川こよりがわに行ってみようかと思ってる」


「川に…?」


 朱羽は「うん」と、首を縦に振った。山をりた平地の川ならともかく、山を下っている川はあらぶる龍だ。山中の川には近づいてはいけないという決まりがある。天巫女とて例外ではない。ただし、朱羽に限っては、朱弥山側から二つの山の狭間に流れる川に近づくことをゆるされている。ミシャクジ様は捨て子の朱羽を【朱鳥あけどりの仔】として、朱弥山に属する生き物と見做みなしている。同じ天巫女でも明里は【人】というくくりらしい。


「大丈夫?」


「危なくはないと思う。でも、ミシャクジ様が機嫌を損ねそうならすぐ帰るから」


「約束よ。朱羽がいなくなったら、私は独りになってしまう。龍神様より、ミシャクジ様より、村よりも人よりも、私には朱羽の方がずっと大事なの」


「うん。わかってる」


 二人きりの姉妹で身を寄せ合って生きてきた。神であるミシャクジ様はおそれ多く厳しい。一方、人は身勝手な要求と理不尽な搾取を繰り返す。それは先代や先々代と比べて、明里の巫女としての力が弱いせいらしい。朱羽は明里が優しいから舐められているのだ…と思っている。


 …私が明里を守らなくちゃ。


 朱羽もまた、姉のことが誰よりも何よりも大切だった。

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