第38話
薄暗くなってきた住宅街を、知生は止まることなく歩き続けた。こつこつと鳴る足音の背後から、徐々に夜が近づいてきている。
数分黙ったまま足を進めた知生は、予兆もなくふわりと言葉を投げた。
「相手の考えていることがわかるって言ったら、笑いますか?」
「笑わないけど、びっくりはするよ」
私は足音から彼女の言葉に意識を移した。
「私は昔から相手が自分に求めていることを察するのが得意な子どもでした。親の求めるまま勉学に励み、望まれた通りの結果を出し、周りが欲している私を演じる。世の中には筋書きと台本があって、私はそれに沿って生きているとさえ思っていました」
知生から飛んできたのは、今の彼女からは想像できない過去の話だった。私が彼女に抱いているイメージは、言葉とは正反対なのに。
「中学生になる頃には、自分らしく生きるなんてことを諦めてたんです。先輩の言葉を借りるならば、本当にからっぽだったんです。相手の思う恵比知生が、私の全て。マセた子どもですよね」
「想像できない」
「でしょうね」
嘲るように語られる彼女の言葉を、私はゆっくりと咀嚼していく。
「でも、そんな私にも転機が訪れます」
「転機?」
「祖父の勧めで半ば無理矢理続けていた剣道の試合会場で、私は一人の女の子に目を奪われました。その人は一呼吸一呼吸が全力で、目の前の相手を圧倒していて……。区切られた空間の中を自由に羽ばたく姿が、とにかく格好良かったんです。他者を秤としか思っていなかった私に、綺麗だと思わせるほどに。一目惚れですね。あの美しい振る舞いに比べて、からっぽな私のなんと恥ずかしいことか。そう思ったんです」
ナレーションのように淀みなく、彼女は言葉を並べ続ける。夜の足音とともに、何かが私に近づいてきている気がした。
「そこからその人のことが気になって色々調べました。雑誌とか、インタビューとか、試合もほぼ全部観に行ったと思います。あんな風になるにはどうすれば良いのか、調べれば調べるほど、どこまでも自由に羽ばたこうとするその姿勢と、美しい剣道姿に魅了されてしまいました。競技者としてだけじゃなくて人間として憧れてしまったんです。せめて限りある自由の中くらいは、あの人みたいになりたいって、そう思って行動するようになりました」
知生は足を止めこちらを向いた。見えなかった足音の正体がほぼ確信に変わる。
期待を孕んだ熱い瞳がしっかりと私を見上げた。そうか。そういうことだったのか。
彼女は充分に空気を吸い込み、薄明かりにそれを置いた。
「そんな私が、憧れのその人がいる高校に行きたいと願うことは、自然な流れだとは思いませんか? ねえ、沙夜子先輩」
かしゃんとパーツがハマった音がした。いやもちろん比喩表現ではあるが、間違いなく出来事の全てが一枚の絵になってしまった。
知生は最初から私のことを知って近づいてきていたんだ。素知らぬ顔をして、わからないフリをして、不思議な女の子という仮面をかぶって。
メトロノーム片手に私を追いかけてきたあの時のことでさえ、偶然とは思えなくなった。
「でも、そんな素振り一切見せなかったじゃん」
「だって、私が入学した頃にはもう先輩は『あんな感じ』になっていたじゃないですか。過去を掘り返すことなんてできるわけないです」
あんな感じとは、きっと空虚に身を窶していたあの感じのことだろう。確かにその通りだ。
目の前に霞み切った憧れが現れたら、易々と過去を触ることなんて出来ない。今更ながら申し訳ないことをしてしまった。
「さぞ幻滅させたことでしょうね」
「ふふっ。そんなわけないじゃないですか」
予想に反し、知生は当たり前のことのように笑った。
「もちろん例の決勝も見に行っていましたから。あの時のあなたは本当にボロボロでした。勝ちだけに執着するあの姿、鬼神、とでも言いましょうか。自由とはほど遠い。あなたを支配しているものが変わっていることに、私は前々から気がついていましたよ。そしてあなたが剣道を辞めたことも知った上で、それでもなお、あなたがいる高校を選んだんです」
「なんでわざわざ……」
「知らないんですか? どれだけイメージと違っても、焼きついた憧れはそう簡単には消えないんですよ? 無意識にでも、あなたは私の価値観を変えたんですから。深めのタトゥーみたいなもんです」
「納得しにくい例えをありがとう」
彼女は愉快そうに息を漏らした後、遠くの空を眺めた。日がすっかりと落ちた街並みは、気が付かぬ間に見覚えのある景色になっていた。
数時間前の記憶が正しければ、もう駅が近い。それでも彼女の足は進む。
「入学前から決めてたんです。あなたが私を籠から出してくれた時のように、私もあなたを籠から出してあげようって。自らを研鑽していく熱を、全てを楽しむ心を、もう一度思い出させてあげようって。これもそのために作りました」
知生はポケットから一冊の手帳を取り出した。
この半年ほどで飽きるほど見た、表紙に『ちいリスト』と書かれた手帳。
私は哀愁を含んだ目でそれを見つめた。
「ちいリストにそんな意味があったの?」
「これは色んなことに興味を持ってもらうための口実です。私の為だって言えば、きっと先輩はついてきてくれると思ったんですよ」
彼女はくすくす笑いながら手帳をしまった。そして満面の笑みを浮かべる。
「からっぽになってしまったあなたに情熱を思い出させるため。青春は剣道だけじゃないってことを伝えるため。私の人生に指針をくれた事への恩を返すため。……そしてなにより、一緒に青春を味わうため。これがちいリストの全てです」
私の頭には、夏祭りの日の景色が浮かんだ。
何が後悔しない為のリストだ。嘘ばっかり。ほとんど私のためじゃないか。
私を立ち直らせるため、彼女は色々な事に興味を持ち、その都度私を引き摺り回してくれたのだ。あのリストとキャラクターを口実に。
「なんで言ってくれなかったの……?」
思わず足が止まりそうになる。走馬灯のように過去の彼女の振る舞いが流れていく。
偶然の出会いで、色々なものを取り戻したと思っていた。でもその背景で彼女は私の手を引っ張り続けてくれていたのだ。
私を鼓舞し終わった後、静かに思い出から消えようとしていたのだろう。だから何も言わずに姿を消した。
ふと顔を上げると、目の前まで駅が迫っていた。時計の針も容赦なく私に現実を突きつけてくる。
知生は私の言葉に返事をする事なく、新たに口火を切った。
「今話したことが私の隠し事の全てです。本当は墓場まで持っていこうと思っていたんですけどね。さあ、そろそろ最終電車でしょう? 本当に本当のお別れですよ」
「納得なんて、出来ないよ」
「先輩……」
おそらく今の話を聞かなければ、ここまで大きな感情の波に飲まれることは無かっただろう。
私は立ち止まり知生の方を向く。
「ずるいよ。今になって本当のことを言うなんて。諦められなくなっちゃうじゃん!」
「私がずるくなかったことがありましたか? それに、今の先輩ならもう私がいなくても大丈夫です」
いなくても大丈夫とか、そういうことではないのだ。
「私、知生にまだ何も返せてないよ」
「元々は恩返しのつもりですから、言いっこなしです。それに、特等席であなたの青春を見させてもらいましたしね。キャラを作ってたとはいえ、境遇を純粋に楽しんでいたのも事実です。これ以上何ももらえませんよ。バチが当たります」
「でも……」
「そういえば、剣道の試合でのご褒美をまだ使っていませんでしたね。後生です。どうか私の事は忘れてください。じゃないとお互い前に進めませんから」
ご褒美。なんでも一つ言うことを聞くと私は言った。そんな口約束をこの瞬間に履行してやる気なんて全く起きなかったが、見たことがないほど悲痛な知生の顔が、猛った私の心を折った。
きっと、もうどうにもならないんだろう。私が赤子のようにごねようと、結末は変わらないんだろう。
彼女ほど気持ちを読むことに長けていない私でもわかる。
「……わかった」
だから私は大人しく大人になることを決めた。これ以上知生にこんな顔をさせる事を、私は本心から望んでいない。
無言のまま改札にICカードをかざす。知生との間に一線が引かれる。
賢い知生は私の気持ちを全てわかっている。わかっている上で叶えられないから、あんな困った顔を浮かべたんだろう。
私は振り返り斜め下を向き、最後の質問を投げかけた。
「私との高校生活は楽しかった? 幸せだった?」
知生が私に二度ほど投げかけた質問。全てを知った今なら、彼女がこの質問に込めた意図が痛いほどわかる。だから最後に聞いておきたかった。
知生は目を見開いたあと、すとんと頭を落とした。
「馬鹿なことを聞かないでください」
震える声の後、ゆっくりと頭が上がる。仮面が剥がれ落ちたように弾ける笑顔は、涙で溢れていた。
「当然じゃないですか。こんな幸福、人生やり直したって味わえないかもしれません。すごくすごく楽しかったです。星みたいにキラキラしていて、夢みたいに楽しい日々でしたよ。私のわがままをいっぱい聞いてくれて、籠の鳥に夢を見させてくれて、本当にありがとうございました。沙夜子先輩、大好きでした!」
知生は穏やかな笑みを浮かべた後、大きく頭を下げた。その動きで、胸ポケットからするりと写真がこぼれ落ちる。とんと胸が弾んだ。
ここが私と彼女の物語の終着点。本当に本当のおしまい。
私は彼女を忘れ自分の生活に戻り、彼女は彼女の人生を歩み始める。今のこの状況でさえ、たくさんの奇跡が織り合わさって出来ているに違いない。
少しの切なさはあるが、きっとそれが佳乃ちゃんが言っていた大人になるという事で、みちるが言っていた終わりの美しさ。
だから今から私がすることは間違っていると思う。美的センスもない、変なところで諦めの悪い、子どもな私の足掻きに過ぎない。
でも仕方がないのだ。彼女のポケットからこぼれ落ちたいつぞやのプリクラを見て、折れた心に再び火が灯ってしまったのだから。
間違っていようが、綺麗じゃなかろうが、もう私は止まれない。
「駄目だ。やっぱり諦められない」
諦めよう。諦められるか。
知生のためだよ、納得して帰ろう。誰が決めたんだ、私は納得してやらない。
無茶言っちゃいけないよ。無茶を言わないで無理を通せるか!
内から湧き上がる大人沙夜子の正論を続け様に殴り続ける。
プリクラを拾い顔を上げた知生は、ただただ唖然としている。余裕を見せ続けた彼女に、一矢報いた気分だ。
でも私はまだまだ彼女の色んな表情を見続けたいんだ。これからもずっと。
「無理だろうがなんだろうが、そんなこと知ったこっちゃない! 私は知生と高校生活を謳歌したいの!」
「いや、だからそれは……。そこは納得してもらえたと思ったんですが」
「しない事にした。私って最高にわがままだったみたい。なんとかしなさい。出来るでしょ知生なら」
「えー……」
仕事終わりのサラリーマンが私達を横目に見ながら通り過ぎていく。
今の私に人様の目など取るに足らない。
「待ってるから。憧れの先輩からの命令だよ。戻って来ない限り、私はいつまで経っても諦めないからね。全部説得して、ちゃんと戻ってきなさい!」
言ってやった。言い切ってやった。何食わぬ顔で諦めたと思っていた彼女の本心が、私のスタンスを一瞬で書き換えたのだ。
わざわざあんな不細工なプリクラを大事に持っていた事実もそうだし、急な再会なのにすぐにちいリストを取り出したこともそうだし、彼女もきっとどこかで諦めきれない気持ちを抱えている。
私は知生に戻ってきて欲しい。正解なんて馬鹿な私にはわからないが、これを伝えないで何をしにここまで来たんだという話だ。
どうにもならなくてもどうにかする、それが恵比知生。簡単に諦める知生なんて、やっぱり知生らしくない。
ぱくぱくと口を動かしていた知生は、少しの間の後大きく息を吹き出した。
「あははっ。先輩の馬鹿。せっかくの湿っぽい別れが台無しです。いい感じで終われそうだったのに。ほんと、どうでもいい時だけ空気を読むくせに――」
知生は身を返し、夜の方へと歩き始める。どんどんと遠ざかる背中が柔らかく言葉を残した。
「でも、そんなところが大好きですよ。コマキサ先輩」
知生はそのまま薄い闇の中へと消えて行った。それと同時に電車がホームの方へ近づいて来る音が聞こえた。
伝わっただろうか。伝えきれただろうか。ここから先は私にはどうすることもできない領域だ。
結果としてこれが彼女との最後の邂逅になってしまったとしたら、それを受け入れなければならないだろう。
いや、いっそ両親のところに殴り込みにでも行くべきだったか。流石にそれはやりすぎだな。
急いでホームへ向かい、流れてきた電車に乗り込む。知生兄にもお礼をしていないし、一泊くらいしてしまえばよかった。
空いた席に座り息を一つ吐くと、思い出したように睡魔が襲ってきた。
歩き続けたせいで足も痛いし、携帯の充電は残り数パーセントだし、空腹も限界を二度ほど超えたし、もうこれ以上何も考えられない。
抜け殻のように閉じていく私の瞳には薄らと、青い夜が映った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます