第37話
信じられないほど長い時間と金銭を消費し、弥影という土地に降り立った私は、しばらくその土地を徘徊した後、駅近くの喫茶店に潜り込み頭を落とした。
見知らぬ土地で、訳の分からないまま彷徨い続けること数時間。歩けば何かわかるだろうなんて考えが愚かだったことに、ようやく気づいてしまう。パンプスから足を解放すると、きしきしと踵が痛んだ。
弥影は思っていたより広い。佳乃ちゃんの情報だけでは、大まかな場所すらもわからない。
住宅一軒一軒の表札を確認し、印刷した地図に×を付けていくという原始的な方法で六時間も粘った私を誰か誉めてくれ。
もちろん有力な情報など一つも発見できておらず、今のところ私は六時間かけて靴裏をすり減らし続けただけの愚か者だ。
それだけ力を入れた結果、全体の四割ほどしかマークがついていない事実も、足の痛みをより深くする。
佳乃ちゃんにあれほど啖呵を切ったのにここまで何もできないとは、本当に情けない。
遠方まで来たせいで、最終電車もべらぼうに早い。弥影に滞在できる時間もそこまで多く残されていない。
もう駄目なのか。諦めに近い気持ちを浮かべながらホットコーヒーに息を吹きかけると、涙がこぼれそうになった。
「苦い……」
「もしかして、小牧さん?」
突然かけられた声に私は驚きカップを置いた。
私の正面の席を陣取ったのは、見覚えのない青年だった。
もう二度と名前を呼ばれることがないと思っていたくらい孤独に苛まれていた私は、誰ともわからずほっとしてしまう。
「そうですけど」
「だよね。ここら辺じゃ見ない制服だからまさかとは思ったけど、こんなところで会えるなんて驚いた」
歳頃は二十代前半といったところだろうか。彼は短髪に白い歯を浮かべ、季節外れの春風が吹いたのかと思わされるほど澄んだ笑顔をこちらに向けた。
何という好青年。何という男前。遠方の地でナンパをされるなんて、私もまだまだ捨てたもんじゃないのかもしれない。
馬鹿なことを考えている場合か。私の個人情報が未踏の地で漏れていることにまず驚かねば。
「えっと。どこかでお会いしたことがありましたか?」
「ごめんごめん。妹が君と同じ学校に通っているからね」
「そ、そうなんですね」
こんなところに同じ高校に通う少女の兄がいるとは。
私はコーヒーを啜り、かすかに視線を彼に向けた。初対面のはずなのに、彼には何かの面影があった。似ている有名人を脳内でソートしても、ぱちりとはまる感じがしない。
「それより、どうしてこんなところに? というか学校は?」
邪気もなくのほほんとそう尋ねてきた彼の目を見る。面影が僅かに輪郭を帯びてくる。
「人を探していまして……。あの、失礼ですけどお名前は?」
「ああ、自己紹介がまだだったね。僕は恵比直生。恵比知生の兄だよ」
「ち、知生のお兄さん!」
私は思わず大声を上げた。店中の視線がこちらに向くが、それどころではなかった。
「そうそう、知生のお兄さん。似てないかもしれないけどね」
彼は知生に似た笑い方で悪戯っぽく笑った。
奇跡が起こった。逆転満塁ホームランだ。こんなところに親族が転がっているなんて。よくぞ私に声をかけてくれた。本当にありがとう男前のお兄さん。
というか、改めて考えるとなぜ名前が割れているんだ。妹と同じ制服だということは、名前と顔を知っている理由にはならない。
「よく顔だけで私が小牧だってわかりましたね」
「いやぁ妹が昔から君の大ファンでね。毎度毎度話は聞かされていたせいで僕までファンになってしまって。まさか実物を拝めるなんてついてるなぁ」
「昔から、ですか?」
「そうそう。昔って言ってもあいつが中学生の頃からだけどね。知生は迷惑をかけてない?」
「はい。迷惑どころか……」
世間話を始めようと思ったところで、電車の音が聞こえてきた。ここで私は当初の目的を思い出す。もっと深く話を聞いてみたいが、こんなところで油を売っている猶予は残されていない。
「あの。知生さんが今どこにいるかわかりますか? 実は知生さんを探しにここまできたんです」
「知生? 多分、この公園にいると思うよ」
彼は私が広げている地図を指差した。公園か。ここからだと歩いて三十分くらいだろう。私はパンプスを履き直し大きく息を吸った。
「会いに行ってきます!」
勢いよく荷物をまとめ始めた私に、彼は穏やかな目を向けた。
「ははっ。漫画みたいな勢い。ああ、お会計は僕が持つから急いで行っておいで。気を付けてね」
「あ、ありがとうございます! このご恩はいずれ!」
勢いよく立ち去る私に愉快そうに手を振った彼は、やはり知生に似ていた。
知生兄が示した高台にある公園は、遊具もなく二人掛けの木製のベンチがいくつか置かれているだけだった。
公園というよりは景色の良い広場くらいにしか見えない。
パッと見渡しただけでも知生どころか人影すら見えないことがすぐにわかった。もう帰ってしまったのだろうか。
いよいよ身体に力が入らなくなり、私はベンチに腰かける。
くそっ、また手詰まりじゃないか。あんなすぐに知生兄を手放すべきではなかった。サンドウィッチも食べ損ねたし、空腹も体力も限界だ。
おそらく残された手段はこの近くをとにかく探すことだけなのだが、磁力が発生したかの如く身体が動かない。
わざわざ学校をサボってこんなところまで来て、私は一体何をやっているんだ。
「そう上手くはいかないか」
重く苦い溜息が漏れる。そんな自嘲の息をかき消すように、じゃりと砂を踏み潰す音が聞こえた。私は急いで音のほうを振り返った。
がらんとした公園の景色に、少女の姿が浮かぶ。私の姿を凝視した彼女は、ぽつりと言葉を零した。
「な、なんでここに……」
私の口から安堵の息が漏れる。長かった。本当に長かった。
学園祭からだからそこまで期間は空いていないけれど、ここまでの道中のことが一気にあふれ出して、幼少期から会っていなかった親友に出会ったような歓喜が私の心を満たした。
私の後ろには知生が立っていた。見慣れないワンピースにカーディガンを羽織って。
彼女は大きく目を見開いたあと、ゆっくり息を吐いた。
「先輩……どうして……?」
「お兄さんに会って教えてもらったの。男前だね」
「そうじゃなくて、なんで来ちゃったんですか?」
「なんでって……。聞かないといけないことがあるからだよ」
「そう、ですよね。先輩を侮っていたようです。観念しましょう。隣、座ってもいいですか?」
頷きを返すと知生は私の隣に腰かけた。洋菓子のように甘い匂いが心をくすぐる。幾度となく体験したことなのに、思わず顔が綻んだ。
しかし今はこの浮つきの時間すらも惜しい。早々に決着を付けなければならないのだ。私は伝えたい思いを胸いっぱいに思い浮かべる。
「連れ戻されたっていうのは本当? 転校もするって聞いたけど」
「ここまで来ておいてそれを聞くなんて酷いです」
「ご、ごめん。でもなんで?」
「夏祭りの日に話したでしょう? 自由は高校三年間だけだって。私の卒業後の進路はもう全部決まってるんです。それが早まっただけですよ」
当たり前のことを唱えるように、知生は淡々と言葉を吐いた。
「私は元々超がつくほど箱入り娘なんです。監視が面倒で親元を離れていたんですが、好き勝手やりすぎましたね。バレちゃいました」
こうなる可能性を危惧していたのか、確かに問題行動だけは起こさないようにしていた気がする。だからこそ今回のことは私としては納得がいかないのだ。
「悪いことなんてしてないじゃん」
「両親が私に求めているのは、大衆の敷いたレールに乗った真っ当な人格です。毎日キャラと髪型を変える不思議ちゃんなんかじゃありません」
「だからって急に連れ戻すなんてひどいよ」
「連れ戻された私に言ってどうするんですか?」
その通り過ぎる正論を返されてしまった。これに関しては知生に訴えかけてどうなるものでもない。
いや違うそこじゃない。連れ戻されたにしても、事前に一言あっても良かったんじゃないかということを言いたいんだ私は。
「何も言わずにいなくなったのはどうして?」
「言ってどうなるわけでもありませんし。波風立てず静かに思い出から消えたかったんです」
知生は遠くの景色を見つめながらそう言った。あれだけ私に影響を与えたくせに、静かに思い出から消えようだなんて無茶なことを言ってくれる。
言われていたって騒いでいただろうし、言われなくたって騒いでいるし。私は大きく息を吸って、知生の全身を瞳で捉える。
「私はまだまだ知生としたいことがたくさんあるよ。知生には後悔がないの?」
「ないです」
「本当に?」
「ないですってば」
「ほんとにほんと?」
「しつこいですね」
「だって……」
「だってもなにも、ここが私の終着点なんですよ」
前髪を弄り諦めたように言葉を吐いた知生を見て、こんな未踏の地まではるばるやって来た自身の想いの根幹に辿り着いてしまった。
私はもっと彼女に足掻いて欲しかったのだ。まだまだやり残したことがあって、悔しくて悔しくてたまらないと喚き散らしてくれていれば、この別れに向き合えていたと思う。
黙っていなくなったこともそうだし、今のこの様子もそうだし、自分がいなくなることをなんてことない事象だと思っている彼女に納得がいっていなかったんだ。
「もうどうにもならないの?」
「どうにもなりません。こんなところまで来てくれた人に言うのは酷かもしれませんが、何も変わりませんよ。もう聞きたいことはありませんか?」
ここまではっきりと言われてしまうと、もう何も言えなくなってしまう。刻々と時間が進む。
私は遠い空を眺め、もう一度自分の心を透かしてみた。
どうにもならないなら、せめて彼女が何を考えていたかを知りたい。どんな気持ちで私と一緒に過ごして、どんなことを思ったのかを。
それを聞くことが出来れば、きっと私は無理にでも納得できるだろう。
「ねえ、昔から私のファンだったって本当?」
先ほどまで冷静だった彼女の顔がわずかに揺れる。
「……どこから仕入れたんですか?」
「さっきお兄さんが」
「あのお馬鹿。余計なことを」
徐々に知生の冷静さが崩れていく。軽い気持ちで放ってみたが、意外とここが彼女のウィークポイントだったのかもしれない。
彼女の動揺のおかげで、私は今までの時系列のぐらつきに気が付いた。そもそも、知生兄から話を聞いた瞬間にこれに気が付くべきだった。
「もしかして、最初に会う前から、私のことを知ってたの? だから剣道のことも隠してたんじゃ――」
「あーあ。台無しです。せっかく格好つけてお別れできると思ってたのに」
私の言葉を遮り、知生は立ち上がった。
アキやみちるの時のように、私にはまだ知っておかないといけないことがあるような予感がした。
「知生。何か隠してる? もしそうなら本当のことを聞かせてほしい。最後ならなおさらね」
私の言葉に彼女は弱く息を吐き出した。
「少し歩きませんか? 昔話がしたいです」
「うん。聞きたい」
私は立ち上がり、歩き始めた彼女の後を追った。
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