第32話

 どうしてアキがここにいるんだ。そしてどうして私を見て驚いているんだ。

 これじゃまるで、私がいない隙に知生に会いに来たみたいじゃないか。

「戻って来るのが遅いじゃないか助手くん。危ないところだったよ」

「割と急いで帰ってきたよ。……というか何が起こってるの?」

 わけもわからず狼狽る私とは相反して、少し余裕を取り戻したアキが口を開いた。

「当番は?」

「文香が代わりに……」

「なるほど。全部お見通しってわけね」

 彼女は再び知生に視線を戻した。私が来る前にどんな話し合いが行われていたかはわからないが、和やかなんて言葉は全く浮かばないほど鋭い空気が流れていることだけは理解できた。

 視線を躱すように、知生は手に持った虫眼鏡をくるくると回して私の方へと歩みを進める。

「怪しい人物は見つかったかい?」

「えっ、いや見つかってないけど」

 私は頬を掻いて言葉を返した。

 虫眼鏡越しに可愛らしい瞳がこちらを見てくれているが、私が欲していたのはその話ではない。この状況に解を与えてもらえない限り、私の思考が犯人探しに向くことはおそらくないだろう。

 私の返答が予想の範囲内だったのか、知生は笑みを浮かべたあと、スロー映像のように緩やかな動きでアキを指差した。

「そりゃそうだ。だって犯人はここにいるんだから」

 動き同様、言葉がゆっくりと私に染み込んでくる。知生の指先は澱むことなくアキに向けられている。 

「アキが……犯人?」

 言葉にはしたものの、理解が追い付かなかった。というか、物事の優先順位が無茶苦茶になってしまったせいで、もう訳が分からなくなった。

 アキが? 何故だ。私に意地悪を仕掛けてくるのは百歩譲ってわかる。でもこの数日間で主に悪意を向けられていたのは私じゃなかった。というか昨日謝ってきたじゃないか。

「何か根拠があるの?」

「根拠もなにも、階段から私を落とした彼女と目が合いましたから。彼女も私に気付かれていることを知っているはずですよ。だからここに来たんでしょう」

「そんな、でも」

 アキを庇おうという気は全くなかったが、どうしてもすんなりと納得できず、言葉が続かなかった。私の理解を促すように、知生が私のシャツの袖を握った。

「どうやら昨日、今までのことについて謝罪してきたそうじゃないですか。随分と急な話だとは思いませんでしたか?」

「急だとは思ったけど、言ってることは理解できたし」

「階段で私の背中を押したのが彼女だという前提があっても、同じように理解できますか?」

 私を見つめる視線に、続けて否定の言葉が吐けなくなった。もちろん昨日アキからそんな話は聞いていない。

 それを踏まえると、妨害が上手くいかず、最終手段で私に謝罪をしてきたのではないかと思えてきた。全ては妨害したという事実自体を煙に巻くために。

 となると彼女は、私の不在を狙い知生を押したという証拠を隠すつもりでここにやって来たのだろう。今に至るまでの知生の思惑と、アキの最初の言葉が遅まきに理解できてしまった。

 私の沈黙を理解だと判断したのか、知生は溜息を吐いて私の後ろへと回った。彼女の小さな声が私の耳に届く。

「気付いていないフリをして終わらせようと思っていたのに、緩い和解で逃げようとした彼女の根性が許せなくて、一芝居打たせてもらいました。犯人探しなんかじゃなくて、犯人誘いです。今まで心配かけてすみません。あと、きっと先輩に辛い思いをさせる方を選んでしまいました。すみません」

 背後を陣取る彼女の表情はわからないが、珍しく沈んだトーンだった。知生が謝ることなんて一つもない。彼女が全てを黙ったまま、素知らぬ様子で高校生活を送っていたほうがよっぽど許せなかっただろうし。

「なんでこんなことしたの? わけわかんないよ。説明してよ」

 私は視線をアキに向ける。じわじわと届く嬌声とは打って変わり、彼女は涼しげな表情を私に返し続けている。何を澄ましているんだ。お前が犯人なんだろう。もっと焦れ。

 私の念は届かず、アキは落ち着いた様子のまま口を開いた。

「あーあ。ばれちゃったか」

「そんな軽々しく……。私が嫌いなら私に直接来ればいいじゃん! なんで隠れてこそこそしてるの?」

「今日は単純にその子に謝りに来たのよ。証拠を隠滅しようって事実には変わりないけどね」

 彼女はわざとらしい溜息を一つ挟んで言葉を続けた。

「あなた達を邪魔していたのは私。ごめん。これでいい?」

「よくない。理由を教えてよ」

「それを言いたくないからサヤのいないところで話をしたかったのに」

「そんなの知らないよ。言いたくなくても聞かせて欲しい」

 彼女は視線とともに両腕を天井に向ける。鎧が外れたように軽い彼女の動きが、私の視線を奪った。

 恵まれた容姿の彼女は、とてもじゃないが追い詰められた主犯とは思えない様子だった。そんな美しい様相のまま、彼女は吐息交じりで口を開いた。

「入学したての頃からずっと、サヤのことが羨ましかったの」

「羨ましかった? 私のことが?」

 意表を突かれて素っ頓狂な声を返してしまう。

「そう。真っ直ぐ剣道に打ち込んでいる姿が輝いて見えて、かっこいいって思ってた。一つのことに打ち込むって、私には出来ないことだったから。進級で運よく同じクラスになったから、みちるに頼んだの。あの子と友達になりたいって」

「え? そうだったの?」

「そうよ」

 呆れたようにアキは笑った。プライドが高い彼女がそんな裏回しをしていたなんて事実を、今の今まで私は知らなかった。

 それもそのはず、一年生の頃は彼女とクラスも違っていたし、私のことを認識さえしていないと思っていたのだから。加えて私はみちるの仲介でふらふらと適当なところに属していただけだったし。

 とんと背中に知生の体重がかかる。私は二階堂明那という人間を、大きく見誤っていたのかもしれない。

「でもそれと今回のことに何の関係があるの?」

「せっかく一緒にいられるようになったのに、サヤはずっとつまらなさそうだったよね。一緒に遊んだ時も、些細な話をしているときも、どこか上の空。強かったボスが味方になると弱体化してるみたいな感じ。立ち直らせてあげたい、あの頃の輝きが見たいって、私なりに動いていたのよ。それでもサヤは変わらなかった。それなのにその子とつるみ始めて、あなたは簡単に変わったの。私が羨んでいたあの頃の小牧沙夜子がどんどん戻ってきて、反面私たちの前には顔を出さなくなって……。私はそれが許せなかった。だから全員で無視をしたし、学園祭も台無しにしてやろうと思ったのよ。これが理由。どう? ダサいでしょ?」

 アキは胸の内を吐き出し静かに笑った。その様子が、私の心をぐさりと突き刺した。

 プライドが高いカーストの最上位というカテゴリで判断して、彼女の胸の内など想像すらしていなかった。

 からっぽだのつまらないだのそんなことにうつつを抜かして、目の前の彼女に向き合うことを怠っていたのだ。

 目の前にいるのは、慎ましくていじらしい女の子。その根性を曲げてしまったのは他でもない私だ。

 なんだ、じゃあ全部私のせいじゃないか。知生が危機に瀕したことも、諸々の妨害も、全ての根幹には私がいたんだ。

 私は一度目を伏せ大きく息を吐き出したあと、真っ直ぐ彼女を見つめた。

「やっぱりわからない。なんで知生を狙ったの? なおさら私に直接文句を言えば良かったじゃん」 

 私に腹が立っていたのならば、やはり私に直接手を下すべきだ。そうすればこんな大回りの手順を踏まず、彼女とももっと分かり合えていたと思うし。

 私の脳で理解できていることが彼女に理解できていない訳が無かったのか、アキはなんてこともないように言葉を吐いた。

「その通りよ。だから今日は謝りに来たって言ったでしょ」

 彼女は大きく息を吸い込んで上靴の先を見つめた。

「サヤに対する苛立ちだったはずなのに、いつの間にか私の矛先はその子に対する悔しさに変わっていたのよ。私が出来なかったことを簡単にやってのけたことに腹が立ったんでしょうね。でも階段から落ちたその子を見て我に返った。私はなんて事をしていたんだって。そしたらそれまでのことが全部自分でやったとは思えないくらい愚かで汚く思えてきて、全部なかったことにしたくなったの。こんなことになるなら最初から包み隠さず話せばよかったわ」

 アキは私に背中を預け続けている知生に視線を向けた。空気を読んで私が少し身をずらすと、知生は「うっ」と声を漏らしながらバランスを崩した。

 眉を顰めながら体勢を整えた知生が、一つ息を吐いてアキのほうを向く。

「くだらない感情に絆されて馬鹿みたいなことしてごめんなさい。あなたの言う通り正々堂々サヤにもちゃんと事実を伝えるべきだったわ。恵比さん、巻き込んでしまって本当にごめんなさい。罰を受けろというならなんでもするわ」

 アキが昨日よりも深く頭を下げる。あまりにも潔いその姿は、憑物が取れたような美しさだった。

「言ったでしょう。元々は見て見ぬフリをするつもりだったって。二人が本当の意味で和解できたならば、私の出る幕はありませんよ。お気になさらず」

 知生はそう言っていつも通り悪戯っぽい笑みを浮かべ、右手に顎を置いた。

「ただそうですね。実際私が受けた被害も少なくはありません。罰を与えたほうが収まりがいい気もします。うんうん。罰を与えることにしましょう」

 知生はそう言ってアキの隣へと移動し、背伸びをしながらこそこそと耳打ちを始めた。

 アキの真意とこれまでの不快感が少し晴れたことで、二人の顔面偏差値の高さに目を向けられるほど私は落ち着きを取り戻していた。我ながら私は顔立ちの良い知り合いに恵まれている。

 内緒話が終わったのか、顔を離した知生に向け、アキは驚き目を見開いた。

「ええ? 私がそれを言うの? というかそんなことでいいの?」

「当然です。元はと言えばそこをちゃんとしなかったせいでこうなったんですから」

「そうね。仕方ない。罰ですもの。言うわ」

 その言葉にむふむふと満足そうな笑みを浮かべながら、知生は再び私の後ろに戻ってきた。

 両手の汗をスカートで拭う仕草を挟んだアキが、大きく息を吸う。

「サヤ、改めて言うわ。私と友達になって」

 波の小さな言葉と共に、アキが私に右手を向けた。知生め。なかなか粋な計らいじゃないか。

 目線を外して顔を真っ赤にして、こんなアキの姿を私は今まで見たことがなかった。こんな一面も、私が彼女に向き合ってこなかったせいで見逃していたものなのだろう。だとしたら惜しいことをしていたな。

 私は浮き上がった気持ちを右手に込め、アキの手をしっかりと掴んだ。

「私こそ、友達になりたい。アキのこともっと知りたい」

「やめてよ恥ずかしい」

 さらに顔を赤らめながら、アキは手を払ってぷいとそっぽを向いた。ただの犯人探しだと思っていたのに、物事はどう転ぶか終わってみないとわからないと改めて思わされる。

 私はアキの横っ腹を肘でつつき、知生の如くにやついた顔を向けた。

「照れんなよー」

「あなたは何でそんなに清々しい顔をしているの?」

「嬉しいからに決まってるじゃん。というか今まで気がつかなくてごめん。ありがとう。これから仲良くできたら嬉しいな。あ、でも知生を落としたことは本当に怒ってるからね。知生が怖い思いをしたことは事実なんだから。お詫びとして知生とも仲良くすること!」

「おっ。良いこと言うじゃないですか。敵対視されていた人と肩を並べるなんて、激熱展開です。ということで私とも仲良くすることも罰に加えましょうか」

「馬鹿じゃないのあんた達」

 ずいずいと身を寄せる私たちを躱し、アキは扉のほうへと歩き始めた。

「とにかく今回はごめん。何でこんなことになったのか自分でもわからないけど、完全に目が覚めた。もう変な迷惑をかけることはないと思うわ」

 改めていつも通り最高にクールな顔つきを作り直したアキが、こちらを振り向いて堂々とそう言った。

 彼女が教室を出ようと扉に手をかけたタイミングで、知生が声を上げる。

「最後に一つだけ気になったんで聞いてもいいですか?」

「なにかしら?」

「階段から落とした後に我に返ったって言いましたよね? なぜステージ照明をいじったんですか?」

 知生の言葉で、私の中の時系列が整備された。確かに階段の一件の後も妨害は続いていたじゃないか。我に返ったという言葉と合致しない。

 アキは再び振り返り、怪訝そうな顔を浮かべた。

「照明? 何のこと?」

「いやいやこんなところで惚けなくてもいいじゃん。私たちの演奏の時のやつだよ」

「私がこんなところで惚けるように見える? 本当に何も知らないわ」

「えっ。じゃあ誰が?」

「知らないわ。たまたまじゃないの?」

 アキは謎を残したまま教室を出ていった。からからという音の後、教室は一層静けさを増す。

 なんだか釈然としない気持ちを浮かべて知生を見ると、こちらはさらに難しい顔を浮かべていた。

「アキじゃないんだったら、誰なんだろうね? 本当にただのトラブルだったのかな?」

「はい」

 言葉を向けても、返ってくるのは心の入っていない返事だけだった。

 しばらくの後、彼女は何かを思いついたように顔を上げて言葉を並べ始めた。徐々に表情が曇っていく。

「照明は別、我に返った……。だったらまだ他に……」

「ど、どうしたの? 怖い顔――」

 おかしな様子にツッコミを入れている途中、視界からふわりと知生の姿が落ちる。彼女はそのまま地面に突っ伏した。

「ちょっと! 大丈夫?」

 躓いたわけでもない、しゃがみ込んだわけでもない。彼女はただただその場に倒れこんだのだ。

 急いで近づくと、彼女の肩から手に伝わる熱にぎょっとしてしまう。身を起こすと、赤みを帯び汗ばんだ顔がゆっくりとこちらを向いた。私は彼女の額に手を伸ばす。

「熱っ。熱あるんじゃないこれ?」

「ここまできて立てなくなるとか、我ながら可憐な身体ですね」

 熱い息を吐き出しながら、彼女は細く笑った。こんな状態がいきなりやってくるなんて思えない。きっと彼女はぎりぎりの状態で今日を迎えていたのかもしれない。

「もしかして朝からずっと調子悪かったの? なんで言わないの!」

「いけると思ったんですよ」

「もう、ほんとに……」

 そこまで言葉を吐いて、朝一の彼女の様子を思い浮かべる。お洒落なんてしてくる柄でもないだろうに、そう思っていたが、嫌なことに大正解だったらしい。

 朝から真っ赤な顔だったじゃないか。なぜあそこでもっと問い詰めなかったんだ。

「とりあえず保健室に行こう!」

 私は彼女を担ぎ上げ、急いで保健室へと向かった。

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