第30話

 そそくさと校内に入り露を払いながら、私は文香に目を向ける。

 文香は私と違って潤沢な友人数を誇っているはずだ。わざわざ私なんかと回らなくても、彼女が余るなんてことはありえない。

 何を考えてるんだろうと不思議に思ったが、これは彼女なりの気遣いなのかもしれない。油断しきった心が緩み切った言葉を吐き出した。

「ねえ文香。お腹すいた」

「はあ? さっきフランクフルトあげたでしょ。というかお昼も食べてたじゃない」

「大声出してお腹すいちゃったの」

 雨粒のように冷ややかな視線が文香から返ってきた。へらへらと笑みを返すと、彼女は呆れたように息を吐く。

「じゃああの後輩のところに行きましょ」

「ん? 飲食店なの?」

「たしかメイド服を着てパンケーキ売ってるんじゃなかった?」

「そうなの?」

「なんであんたが知らないの? とりあえず顔出しついでにそこで食べればいいんじゃない?」

 私の脳構造は彼女たちのように効率よく作られていない。なぜかそれを知っている文香とは違い、私は楽器とか諸々のことに精一杯で、知生のクラスが何をするのか把握していないのだ。

 メイド服でパンケーキか。食欲的には物足りない気もするが、これはなかなかに他の欲求が満たせそうな予感がする。

「よし、そうしよう!」

 目的地が決まり、私たちは一年三組の教室の方へ向かう。

 華やかな催し物群を流し見していると、ふと文香が思い出したように声を上げた。

「そういえば、あんた二階堂と揉めてるんだってね」

「知ってたんだ」

「そりゃ耳に入るよ。クラスのボスみたいなもんでしょ? あの子と揉めながら迎える学園祭とか最悪のイベントじゃない?」

 思えばクラス単位で無視されているのだから、他の教室にそのうわさが届いていてもおかしくはない。

 その事実を知って私を誘ってくれたということは、やっぱり気遣ってくれてたんだ。しみじみと感慨深さを覚える私のよそに、文香は言葉を続ける。

「あんなややこしいのを敵に回して良い事なんて一つもないでしょ。あんたも馬鹿ね」

「ああ、でもなんかさっき謝ってきたよ」

「はあ?」

「ほら、私がこんな感じになったから、敵に回すのも厄介だと思ったんじゃない?」

 文香は怪訝そうに目を細め、過ぎ去る看板のほうへと視線を移した。

「ふーん。あの二階堂が簡単に負けを認めるとは思えないけどね。まぁいいわ。……というかクラスが居辛いなら早く言いなさいよ。昼ご飯くらい付き合ったのに」

 文香はさらに視線を外し、どこともつかない方向に言葉を吐いた。

 馬鹿だとかなんだ言いながらも、なんだかんだこの子は世話焼きなのだ。こういうところが好きで、かつての私は彼女を親友だと思っていたのだから。

 学園祭の空気感が、どんどん私達の距離感を修復している気がした。

「ありがと。なんか文香って感じ」

「どういう意味よそれ」

「この感じが懐かしいなって思っただけだよ」

 そわそわと会話を続けているうちに、いつの間にか目的の教室の前まで到着していたらしい。フリル満載のエプロンに手持ち看板を携えた少女が私たちに声をかけた。

「おお! こまちゃん! あんちゃん!」

 少女だと思った人物は立派な成人女性、佳乃ちゃんだった。ハンドメイドっぽいメイド服に身を包み、珍しくポニーテールを携える彼女は、少女と形容しても違和感がない装いをしていた。

 まさか副担任が客引きをしているとは。ここが知生たちの教室じゃなくても私は足を踏み入れてしまっていただろう。

「おっす佳乃ちゃん。メイド服かわいー」

「でしょ! わたしもまだまだいけちゃうと思わないかね?」

「もう最高。かわいい」

 目の前で一回転する彼女の頭を私は思わず撫でた。身長差もあってかすっぽりと私の手中に収まった彼女は、じっとりとした瞳をこちらに向けた。

「私は君より十年くらい歳上かつ先生なんだけれども、それでもそのアプローチは正解かな?」

「佳乃ちゃんだからセーフ?」

「……。お祭りだから許す! 存分に撫でてよし! あんちゃんも撫でてよし!」

 存分に頭を撫でまわす私の横から、文香が口を開いた。

「というかなんで佳乃ちゃんが店番してるの?」

「生徒が頑張っているのに頑張らないのは、私のポリシーに反するんだよ。年甲斐もなくフリフリのメイド服を着ろと言われれば着るし、客引きをしろと言われれば招き猫になっちゃうの」

 空いた右手を丸めた佳乃ちゃんは、ハッとしたように私たちに笑顔を向けた。

「そういえば、二人ともかっこよかったよ!」

「そうだそうだ。さっきは照明ありがとね。すごく助かったよ」

「大したことはしてないよ。でもちょっとテンション上がっちゃった。青春のお裾分けご馳走様。来年は私も出させてよー」

「えーどうしよっかなー」

「あー! こまちゃんの意地悪! というか入って入って! 中に恵比さんもいるから」

 ぴょこぴょこと動く佳乃ちゃんに案内され、私たちは教室の扉をくぐった。

「はいはーいお嬢様二名お帰りですよー! んじゃ楽しんでねぇ」

 そそくさと室内に私達を追いやった佳乃ちゃんは、再び客引きへと戻っていった。バトンを受けたメイドちゃんが、たどたどしい様子で私達を席へと案内する。

 パンケーキの甘い匂いが広がる教室は、ティータイム時ということもあってかほぼ全ての席が埋まっていた。

「思ったよりちゃんとしてるのね」

「そうだね」

「紅茶は……ないのね。小牧、私コーヒー」

「私はメイドさんじゃないよ」

 知生のアルバイト先に比べると幾分チープに見えるが、教室内は賑やかな色合いが浮かんでいた。ちらほらと執事の格好をした男の子の姿も見える。

 ジャンルで言うと何喫茶というべきなのかはわからないが、しっかりと非日常感が醸し出されていた。

 自作なのか微妙にサイズ感が合っていない制服や、冷やかしに来てるであろう友人達。学園祭という空気感でなんとか空間が一つにまとまっている感じだった。

「パンケーキ二つとコーヒー二つで!」

「私は食べないからパンケーキは一個で良いわ」

「私が二個食べるんだよ」

「うわぁ」

 文香のリアクションを契機に、注文を取りに来た後輩が持ち場へと戻っていく。それを目だけで追いながら、文香が声を顰めた。

「それより、さっきの二階堂の話。詳しく聞かせなさいよ」

「詳しくもなにも、謝ってきただけだからなぁ」

「そこを詳しくって言ってるのよ。なんて謝ってきたの?」

「最近の私見てたら邪険にしてるのがバカバカしくなったんだってさ」

「はあ? なによそれ。ただビビってるだけじゃん。都合良すぎでしょ。んで? 許したの?」

「許したよ」

「うわぁ。チョロいわ」

「というか別に私から敵意を向けたわけじゃないし、正直言ってどうでもいいというか……」

「相変わらず変なところであっけらかんとしてるんだから」

「それに昼休みは文香様が一緒にご飯食べてくれるんでしょ? なおさらクラスなんて括りどうでもいい」

「気を使って損したわ」

 文香が溜息を吐いたタイミングで、注文した食べ物が運ばれてくる。甘い香りが目の前に広がった。

 無言で配膳を終えたメイドさんは、至極かわいくない表情でこちらを見下ろしていた。

「誰かと思ったらあんこまコンビじゃないですか」

「恐ろしい呼び方で括るんじゃないわよ」

 パンケーキを置き腕を組むメイドさんは、案の定知生だった。文香の視線にもふんと吐息を返す彼女は、ツンデレ喫茶に変貌してしまったのかと思うほどの塩対応だ。

 本業時の彼女を見てしまっている私からするとやはりチープな姿だったが、それでもスカートからすらりと伸びる生足は目を喜ばせるには十分な破壊力だった。

 私の下品な視線を避けるように、知生が言葉を吐いた。

「何やら面白い話をしていましたね」

「ああ、揉めてた子と和解したって話だよ。面白くはないかもね」

「ほう……なるほど」

 何かを咀嚼するかのように頷いた彼女は、口角と人差し指を上げた。

「ところで、コマキサ先輩は明日何時から当番なんですか?」

「確か十時からだったと思うよ。一時間の拘束は避けられないけど、ちゃんとお腹空かせておくから一緒に回ろうね」

「ふふふ……。そんな平和ボケたことを言えるのは今のうちですからね」

「えっ」

 八重歯を見せ悪魔のように笑う姿に唖然としている間に、次なる冷言が降りかかってくる。

「さっさと食べて、さっさと出て行ってください。それじゃまた後で」

「えー! かわいくなーい!」

 知生は不穏な言葉だけを残して他の席へと注文を取りに行ってしまった。上がる語尾、満天の笑顔。私達には向けられなかった数々が他の生徒たちに向けられていく。

「ふふっ。さっさと食えだってさ」

「うう。求めていたサービスを受けられなかった……」

 不平不満をパンケーキと一緒に流し込む。あとで佳乃ちゃんにクレームをいれてやろう。目の前で優雅にカップを傾け笑う文香に睨みを返しながら、私は大急ぎで皿を空にした。

 その後、文香と学園祭をふらふらと巡った後、結局空き教室に集まった三人でダラダラと過ごして、何事も起こらないまま一日目のお祭りが終了した。

 そして、怒涛の学園祭二日目がやってくる。

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