第29話

 熱がぽわんと残ったまま一人になってしまった。

 余韻のままアクティブに過ごすなんて気概は今のところ湧いてきていない。しかし、多少の空腹感はある。

 早速文香のところに顔を出してやるか。私は立ち上がり、フラフラと校舎を歩き始めた。

 人目を避けるように移動する私は、気がつかぬ間に自分の教室の前にたどり着いていた。

「おやぁ。さやちんじゃん。おっすー」

「おっすー」

 教室前で私を捕らえたのはみちるだった。

 彼女はいつも通りの制服に、猫の着ぐるみの頭だけを脇に抱えるという非常に愉快な様相をしていた。

 客引きにでも使うのだろうか。学園祭らしくていいじゃないか。隣にアキを装備しているということを除けば。

 私は折れた背筋をまっすぐ伸ばした。

「いやぁやばかったねライブ。超盛り上がってたよぉ! めっちゃアガったわぁ」

「えっ、見てたの?」

「そりゃぁさやちんウォッチャーとしては見逃せないしぃ」

「いつからあなたは私のお目付役になったの? というかそれ何?」

 私はみちるの腕に収まった猫の頭を指差した。

「ああこれぇ? かわいいっしょ? 校内のゴシップを集めるための変装用だよぉ」

 彼女は猫の頭を被り、むふむふと微笑んだ。斜め下を向いたリアル志向な猫の顔に、女子高校生の身体が付随するという絵面は、想像を超えた気持ち悪さだった。

「逆に目立ちそうだけど……」

「私だとバレなければなんでもいいんだよぉ」

 けたけたと曇った声を発しながら、みちるは被り物を外した。目線を動かしたことでうっかりアキと目が合ってしまい、私は急いでみちるに視線を戻した。

 立ち去ってくれた方がありがたいのに、アキは斜め下を向いてその場に居座り続けている。彼女の処遇に困っていると、みちるから声が上がった。

「んで? アキは? どうするのぉ?」

 彼女は猫の頭でぐいっとアキの横腹を小突いた。それでもアキは微動だにせず沈黙を貫く。

「焦ったいなぁ」

 しばらくの後、虚無に飽きた様子のみちるがアキの背中を押した。私の目の前にアキが差し出される。彼女は依然として斜め下を向いたままだった。

 訳もわからず微動だにできない私に向かって、アキはようやく口を開いた。

「ごめんなさい」

「えっ?」

 思いもよらぬ言葉に私は思わず目を丸くする。アキはそんな私を見上げて堂々と言葉を続けた。

「長いこと意地悪して悪かったわね。最近のあんたを見てたら、なんだか自分のやってることが馬鹿らしくなってきた」

「アキ……」

「ごめん。仲直りしてほしい」

 謝った。あのアキが。ストレートに、素直に。驚天動地とはまさにこのことだ。

 大方ライブやらの私の振る舞いで、今関係を元に戻しておかないとクラスでの立場が危うくなると踏んだのだろう。そのぐらいの想像は容易い。

 それでもプライドの塊のような彼女が頭を下げてくるとは思わなかった。

「謝らないでよ。ここで身を引くとかずるいじゃん」

 とりあえず不平を述べてみたものの、それ以上の言葉が思いつかなかった。夏前から今に至るまで、アキの手口によって私が受けた傷は浅くはないが深くもない。

 後半は吹っ切れて多少居心地が良かったくらいだ。クラスメイトとの距離感という部分に脳容量を割かずに済んでいたのだから。よくよく考えれば、ここで和解をしようがしまいが私にメリットもデメリットもない。

「頭を上げて。仲直りも何も、私から険悪ムードを出した覚えはないんだけど」

 だから正直なところどうでもよかった。どう思われていようが、無視されようが、私が高校生活に充実感を覚えるための要素はもうすでに揃っている。こんなものはただのボーナスステージだ。

 アキの顔が上がる。整った顔立ちが歪むことなく私の方を見据えた。こちらに物言わせぬような独特な雰囲気は健在だが、相手がアキであろうと、今の私は自分を曲げるつもりはない。

「ただね、前と同じってわけにはいかないよ。私はアキのやり方が好きじゃなかったみたいだから。でも、邪険にするほど嫌いじゃない。好きにしたらいいんじゃない?」

 私は彼女の前に右手を差し出した。彼女が手打ちを望むのであれば、それを拒むほどの嫌悪感もない。彼女は驚いた顔で私の手を握った。

「サヤ、変わったわね」

「変わってないよ」

「変わった。空気とか顔色を窺ってばかりで、やりたいことが見えなかったもの」

「うっ。それは間違い無いかも」

「とりあえず、つまらないことはもう辞めるわ。仲違いはここで終わり。明日は十時から当番でしょ? せいぜい売り上げに貢献してちょうだいね」

「観光名所として活躍してみせるよ」

 アキは静かに微笑みを返しながら、教室の中へと消えていった。なんだか非常にあっけない流れで遺恨が晴れてしまった。拍子抜けこの上ない。

 それらを全て見ていたみちるは、被り物をくるくると回しながら溜息を吐いた。

「ほんと素直じゃないんだからぁ。アキね、ずっと仲直りしたがってたんだよ」

「そうなの? なんか意外」

「好きと嫌いは表裏一体だからねぇ」

 教室の方を眺めながら、みちるは再び被り物を小脇に抱えた。

「んじゃ私もゴシップ集めが忙しいから行くねぇ。どうやら三年のマドンナの恋愛事情が動きそうなんだよねぇ」

「面白そう。また聞かせてね」

「おけまるー」

 しっかりと猫の面を被り、みちるは小走りで私の横をすり抜けて行った。忙しなく動く下半身と猫の後頭部を見送った後、私は窓の外を眺めた。

 幾重にも重なった雲は光を遮り、数分前よりも大きな雨粒を落としていた。さっきまでの高揚感が、アキの謝罪でなんだかしっとりとしてしまったな。

 今一度一人になった私は、感情を持て余したまま歩き始める。

 剣道部の模擬店が校庭にあるせいで、私はわざわざ傘をさしながら濡れたグラウンドを踏みしめた。

「あー! 小牧先輩じゃないっすか!」

 目的地に着くや否や、声をかけてきたのは長谷川陽子だった。

 透明な傘から透けて見える彼女は、この間コテンパンにしてしまった割に、こちらにきらきらとした目を向けてきていた。

「おっす」

「もちろん買っていきますよね? 何本いりますか?」

「あー、えっと」

 大きすぎる彼女の声で、テント内の全ての視線が私に向けられ始める。毅然と振舞っているつもりだが、やはりこの場所はまだ居心地がいいとは思えない。

「なんだ。結局来たんだ」

 出方を伺っている部員たちの間から文香が現れる。頭に三角巾をつけて腕を組む彼女は、何だかいつもより母性があって面白かった。私はほっとして言葉を吐いた。

「行くところなくってさ」

「後輩は?」

「当番だってさ」

「ふーん」

 文香が陽子を遮るようにフランクフルトを私の前に差し出した。湿気を遮って届く匂いで、私は空腹感を思い出してしまう。

「え? 食べていいの?」

「サービスよ。こんな天気だし、もう今日は閉めようと思ってさ。さっそくリース代の元も取れたし」

「そうなんだ」

 受け取ったフランクフルトをありがたく頬張り、私は空を仰いだ。ビニール越しに見える空は未だに深い灰色を帯びており、ぽつりぽつりとやかましい雨音を鳴らしている。

 そそくさとフランクフルトを食べ終えた私に、少し考えた様子の文香が声を向けた。

「どうせこれから暇なんでしょ? 学祭回るの付き合ってよ」

「私?」

「あんた以外に誰がいるの?」

「いいよ。というか文香はいいの?」

「質問下手ね。いいから誘っているに決まってるでしょ」

 文香は三角巾を外し、何人かに声をかけた後、私の傘を掴んで歩き始めた。ずいずいと進む傘に引っ張られるように私は足を動かす。

 背後から陽子が何かを言っていたが、彼女の声は雨音に遮られ流れていった。

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