第28話

 開会式が繰り広げられていた体育館が、私たちに用意されたステージだ。ダンスであったりバンドであったり、去年はすごいなあなんて事を思いながら眺めていたこの場所に、まさか自分が立つことになるなんて思いもしなかった。

 空き教室から移動し、舞台袖で待つ私たちの耳には、直前のグループが締めのMCをしている声が届いていた。もうあと五分もすれば私たちの出番がやってくることだろう。

 とんとんと鳴る心臓の音がとてつもなく喧しい。大舞台は割と慣れているほうだなんて思っていたが、やはり勝手が違う。

 大きく息を吐いても治まらない震えを止めるため、私は知生に声をかけた。

「あー緊張してきた。知生、背中叩いて……いったぁ!」

 強い衝撃が背中に走る。振り返ると、知生がにんまりと笑みを浮かべて私の背中を叩いていた。

「早っ! 遠慮とかないの?」

 私の言葉に対し、彼女は手に持った小型のホワイトボートを返した。

『?』

「うわっ。それずるいよ。というかやっぱり静かだと可愛いだけだね。連れて帰っていい?」

 知生から再び右手が飛んできて、今度は肩口に衝撃が走る。これはもうただの暴力だ。

「いたいっ!」

 やれやれと知生は首を左右に振る。やれやれと言いたいのはこちらの方だ。

 リアクションが終わる前に、強めの衝撃が背中に走る。私はこの短時間で何回振り返ればいいんだ。振り向いた先には、文香の右手があった。

「小牧うるさい」

「文香まで……。もうなんなの! 背中がボロボロだよ!」

「いい感じでリラックスできたんじゃない?」

 言われてみれば、確かに気が楽になった。計三発パンチを食らっただけだが、緊張感が高揚感に変わった。

 うだうだとくだらないやりとりを交わしているうちに幕が降り、前グループが舞台の下手へとはけていった。舞台に向け足を踏み出し、自らを励ますように私は声を張った。

「せっかくの機会だから、楽しんでいこう!」

 薄明かりの元、各々が配置につく。私はとにかく大声で思いの丈を吐き出せばいい。あとはみんながどうにかしてくれる。時間感覚が麻痺したように、とんとんと時計の針が進んでいく。

 全員の準備が終わったところで、舞台がゆっくりと暗転した。あっという間に幕が上がった。薄く見える客席は、雨もあってかそれなりに埋まりきっていた。

 いよいよ始まる、そんな覚悟を掲げて数十秒。本来であれば幕が上がると同時に私たちを照らすはずの照明が、全く機能していないことに気がついた。

 観客も異変に気がついたようで、雨音がじんわりとざわめきに変わっていく。

 雨粒を落とす濃い雲が後押ししているのか、体育館は非常灯がやんわりと光る程度で真っ暗と言って良いほどの闇が広がっていた。

 機材のトラブルだろうか? いつまで経っても点かない照明が、会場のざわつきを苛立ちに変え始めた。   じっとりと背中に張り付くシャツが、焦燥感を助長させた。脳裏にはここ数日の出来事が浮かんでくる。

 やられた。恨めしく光源を眺めてみても、うんともすんとも動きが見られない。

 落胆の溜息や苛立ちの怒号が私たちを押しつぶすように暗闇から降りかかる。鉛のような空気がじんわりと会場全体を覆っていく。

 どんなトラブルがあろうと、私たちに与えられた時間は十分間。最悪のスタートどころか、このままでは舞台が台無しになってしまう可能性まである。

 マメを作りながら必死に練習もした。知生の邪魔はさせないと心に固く誓った。それなのに棒立ちで終わるなんてありえない。このまま縮こまったままで終われるか。

 わずか数秒の決意の後、私は会場内の不平を全て飲み込むように大きく息を吸う。

「うるさーーい!」

 私は体中の全ての空気を吐き出した。どうやらマイクは生きていたようだ。金属を千切ったようなハウリングと、私の言葉が体育館を飛び跳ねた。ざわめきが晴れ、客席に一瞬で静寂が訪れる。

 我ながら爆弾みたいだった。その爆発に呼応するように、ふんわりと薄明かりが灯った。

 二階で一台だけ光る照明装置が目に映る。光の元には、親指を上げる佳乃ちゃんが見えた。本来使われない照明を無理くり動かしてくれたのだろう。なんて頼もしいんだあの先生は。後で目一杯よしよししてあげよう。

 私達に光が灯っただけで、観客の顔は未だ見えない。笑っているのか、驚いているのか、それ以外なのか。よくわからない。

 その不鮮明さが私の背中を押した。ゆっくりと右拳を観客席に向ける。

「今からすごいの聴かせてあげるから、騒ぐのはそれからにしてね」

 振り向き全員に目配せをする。ニンマリと微笑む知生、呆れたように溜息を吐く文香。よし。みんな大丈夫そうだ。

 意思疎通が終わり、息を吸い込んだ文香がスティックを叩いた。たんたたんと正確なリズムが刻まれ、合わせるようにギターとベースが鳴る。

 再び大きく息を吸い込み、私は思いの丈を歌に乗せた。

 ぽたりと汗が落ちた。音に合わせて声を出す。音程とかリズムとか、私にそういう上手さはきっとないだろう。それでもこの気持ち良さを止めたくなくて、私は喉を震わせ続けた。

 必死すぎて歓声は聞こえないし、暗くてよく見えないが、おそらく会場中の視線が私達に向いていることだろう。

 人から注目されるなんてまっぴらごめんだと思っていたが、この感じはなんだか癖になりそうだ。私は意外と目立ちたがり屋だったのかもしれない。

 そうして私達に与えられた最後のパート、ラストのサビ。全てを出し切ってやろうと声を出すと、隣から可愛らしい歌声が私の声に合わせてハーモニーを奏で始めた。

 このコーラスは誰のものだろうか? 微かに視線を向けると、気持ちよさそうにベースを奏でながらマイクに口を向ける知生が映った。

 歌っている、知生が。声が出ないと言っていたのに、きれいな声でコーラスを奏でている。

 本来であれば会場に響くはずだった声に、一瞬感嘆符が弾けそうになったが、上がり切ったテンションが私を歌の終わりまで導いた。そうして最後の一音が刻まれ、余韻がしんしんと伝っていく。

 今すぐにでも知生に詰め寄って尋問したかったが、私達を覆うように拍手と歓声が体育館に響き渡っており、それどころではなくなってしまった。気が付かなかったが、いつの間にか照明もしっかりとステージを照らしている。

 高揚した観客の顔つきが視界に入り、私は無意識に声を上げていた。

「ありがとう!」

 私の声に呼応するように、歓声が大きくなる。ぐわりと押し寄せる音の波が、じんじんと身体全体に染み渡っていき、ぽかぽかと心地よい感覚が私を支配した。

 もうスタート時のトラブルなど頭によぎらないほど、会場全体が高揚感に包まれている気がする。

「ほら先輩MCですよ! 喋って喋って!」

 完全に復活している知生の声が、私の背中を押した。私は慌ててマイクを握り直し、観客席を見つめる。

 百人以上は入っているだろうか。雨も後押ししたのか、体育館には大勢の人間が押し寄せていた。本当に今更だが、急に緊張してきた。

「えーっと、なんだっけ。ああそうだ。私は二年の小牧です。本当はベースの恵比知生がボーカルをする予定だったんですけど、急遽私が代役をすることになりまして……。その、た、楽しんでもらえましたかー?」

 拙い私の問いかけに、会場から大きな歓声が上がる。私は畳み掛けるように言葉を放り続ける。

「即席のバンドで、至らないところもあっただろうけど、今の歓声を聞いたら全部吹き飛んじゃった! 本当にありがとう!」

 割れんばかりの歓声が弾ける。

「あいにくの雨だけど、みんな学園祭楽しんでねー!」

 締めの言葉に拍手が収まってきた頃合いに、ゆっくりと幕が降りる。私達は示し合わせたように大きく息を吐き、下手の方へと足を進めた。

 体育館を出ると、雨音がざあざあとひどい音を立てていた。私たちの足は無意識に空き教室へと向かう。


「あーもう! 悔しい! 間違えた!」

 雨音をかき消すように、一番最初に声を上げたのは文香だった。テンションが上がりきっていてみんなの演奏がどうだったかろくに聴けなかったが、それでもそこまで大きなミスはなかったように思える。

 私は彼女を宥めながら知生の方を向いた。

「というか知生! 声戻ってるじゃん!」

「何がですか?」

 何事もなかったかのような冷ややかな目と言葉が知生から返ってくる。

「うわ普通に喋ってる。なんで惚けられるの? 歌ってたじゃん」

「ああ、なんか戻りました。びっくりですよね」

「まさかわざと……」

「楽しめたから良いじゃないですか。ハッピーハッピー」

 話を無理くり締めくくるように言葉を吐いた知生は、軽快なリズムで足を動かした。そんな中、未だに悔しさが晴れないのか、浮かない顔つきで文香が大きく手を挙げた。

「というか練習期間短すぎ! 来年リベンジするわ!」

「来年?」

「間違えたまんまで終われるかっての。来年またこのメンバーでやるわ。異論は認めない」

 文香らしくない熱血なセリフに、私は思わず笑ってしまった。巻いた髪同様、やはり彼女も祭りの空気に絆されているのだ。それがなにより面白くて、なにより嬉しかった。

「あんふみ先輩。珍しく意見が合いますね。ふふっ。来年はもっと盛大に会場を盛り上げてやりましょう」

「当たり前よ。じゃあ私は剣道部に戻るわ」

 同調する知生にふんと息を返して、文香は剣道部の方へと戻っていった。彼女には忙しい中私たちを手伝ってくれたという恩が出来てしまったな。仕方ないからあとで出店に顔を出してやることにしよう。

 遠くに聞こえる賑やかな放送とさめざめと鳴る雨の音が、非日常感を醸し出している。それでも見慣れた空き教室は学園祭の空気と混じることなく平穏を保っていた。

「どっと疲れた。一日目にして全て出し切った感があるわ」

「想像の何倍も盛り上がりましたね」

 遅れて教室に入ってきた知生がホワイトボードに向かい、大きく花丸を描いた。

 朝の様子とは一転して、彼女は喉を震わせながら身を揺らす。

 今となっては過ぎたことではあるが、どう考えても声が出ないというのは芝居だったのだろう。

「喋り始めたと思ったら絶好調だね。なんで声が出ないだなんて嘘をついたの?」

「嘘かどうかはともかくとして、私にはあんな声量はありませんからね。コマキサ先輩に任せて正解でした」

 あっけらかんと答える知生に、私は溜息を返した。

 あれほどなんでもやりたがる知生が私にわざわざタスキを渡した意味は全く分からないが、正直私としては楽しい思い出が出来たので良かった。

 諸々を考えるほどの余力ももう残っていない。

「思い返すと恥ずかしくなってきた。あんな大勢に向かってうるさいとか、脳がパンクロックすぎたわ。というか照明一つであんなに空気が悪くなる観客も観客だよ。佳乃ちゃんがいてくれて助かった」

 私の頭には始まった直後の体育館のざわめきが浮かぶ。

 照明担当を問い詰めた訳ではないが、私達の次のグループでは元気よく照明が動いていたこともあり、あれが単に機材のトラブルだとはどうしても思えなかった。

 知生の頭にも同じことが浮かんでいるようで、彼女は呆れたように溜息を吐き出した。

「山上先生に手を回しておいて正解でした。端から何か起こることは予想していましたから。音響の方じゃなくて助かりました」

 どうやら佳乃ちゃんをあそこに配置していたのは知生だったようだ。飄々と対抗策を考えているあたり、さすがとしか言いようがない。

「やっぱりあれ、わざとだよね」

「さあどうでしょう。なんにせよ終わったことです。これからの楽しみのことを考えましょう!」

 知生はそう言ってパンフレットを眺め始めた。もう彼女の興味は他のものに移ってしまったらしい。

 確かに今さら犯人を突き止めたとてどうなる訳でもないか。様々な妨害を経てまでも、私達は事を為し終えたのだから。

「それより先輩。もう一つの目標、忘れていませんか?」

 目標。バンドで演奏することと全ての出し物を回るというのが今回のちいリストのテーマだ。

 達成感で浮かれていたが、バンドに並ぶほど重量がある課題がまだ残っているじゃないか。

「全出し物制覇だっけ?」

「その通り! 片っ端から回り始めますよ! ――と言いたいところですが」

 知生は両手を上げて大きく首を振った。

「ん? 何か予定があるの?」

「私はこれから自分のクラスの模擬店を手伝いに行かねばならないのです!」

 文香が剣道部の方へと戻ってしまった今、知生が去ると私は一人になってしまう。

「ええー。もうちょっと余韻に浸りたかったのに」

「そんなもんは家で勝手に浸ってください。今は祭りの真っ只中です。とりあえずここから一時間くらいは自由時間ですから、存分に羽を伸ばしてきてください。まあ、伸ばせれば、の話ですけどね」

「言われなくても伸ばしますよーだ」

「ではではまた後ほど」

 矢継ぎ早に言葉を並べた知生は、最後に意味深な単語を放り出口の方へと歩き始めた。

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