第27話
雲、雲、雲。どこを見上げても深い灰色。学園祭初日は、今にも雫をこぼしそうなどんよりとした雲に覆われていた。
お昼からは傘が必要になる、なんていう気象予報士の言葉を思い出す。確か私たちの出番は午後二時。雨にしっかりとぶち当たってしまいそうだ。
大きな欠伸を一つ挟み、退屈な開会式を眺める。昨日のスタジオ練習が長かったせいでしっかりと寝不足だが、身体のだるさに反して気持ちは非常にしゃっきりとしている。
知生も文香もつつが無く各パートをこなしていて、即興バンドにしてはまあ聴けるレベルにはなったんじゃないかなと思う。
何を隠そう、偉そうにこんなことを考えている私が一番の不安材料なのだ。
今日の私の使命は、彼女達の邪魔にならないよう細々とギターを鳴らすくらいだ。ここまで力量差があると、もはや恥ずかしさも無く清々しい。ただ一丁前に緊張だけはしているけれど。
先制パンチと言わんばかりに、ワンカットで撮られたオープニングムービーが流れる。
お調子者が目立って笑いを取り、堅物の先生が珍しくふざけ、流行り物のパロディで大盛り上がりのムービーだった。
こんなものを見たら、来年知生がやりたいだとか言い出すかもしれないな。ワンカットを撮るってものすごく労力がかかりそうだ。
そういえば知生の姿がまだ見えない。強制参加というわけではないが、学園祭を余すことなく味わうと言っていたから、オープニングセレモニーにも当然参加するものだと思っていた。
結局知生が現れないままつつがなく開会式が終わり、私達はいつもの空き教室に向かう。
扉を開けると、仁王立ちでこちらを見つめる知生と目が合った。
「ここにいたの?」
私の言葉に、彼女は片方の口角だけを上げた気持ちの悪い笑みを浮かべた。普段ならここで、大声で挨拶をしてくるところなのに、彼女はただただむふむふと佇んでいる。
私は首を傾げる。
「開会式にも好きそうなものあったのに、もったいない」
私が言葉を並べると、うむうむと頷いた知生が無言のままホワイトボートに向かって行った。
キュルキュルという音が真っ白なホワイトボートに文字を紡いでいく。
『声が出なくなりました』
ぺろりと舌を出した知生が、お茶目に明後日の方へと視線を向けた。学園祭にも関わらずいつもよりも装飾の少ない髪を揺らし、彼女は嘘っぽく照れ笑いを浮かべる。
声が出なくなった。ほう。それは大変だ。
冷静に字面とにらめっこすること五秒。私は思わずカバンを落っことしてしまった。
「えーー!」
学校でここまで声を出したのは初めてかもしれない。最大ボリュームがこんなところで更新されるなんて思わなかったが、それ以上に予想外な文字列がホワイトボードには並んでいる。
「こ、声が出なくなったってどういうこと?」
『昨日練習しすぎ。声枯れた』
異国の人のように片言の表現を、彼女はさらさらとホワイトボードに書いた。長時間練習のしわ寄せがこんなところに来るなんて。
「嘘でしょ……? 超ポンコツじゃん」
『呪』
「怖いわっ!」
漢字一文字と知生の恨めしい視線がこちらに突き刺さる。その視線を向けたいのは私のほうだ。
自分からバンドをやりたいと言い出しておいて前日に全力を出し切るなんて、なんとおまぬけなことか。
「えっ。じゃあボーカルはどうするの?」
『もちろん』
そこまで書いて、知生は私を指差した。
「私っ? 本気なの?」
『出ないありえない。代わりよろしく』
暗号のような文面がホワイトボードに並んでいく。
ライブを取りやめるなんて事はしたくなくて、代わりに歌うならコマキサしかいない。知生は多分こういうことを言いたいのだろう。私が歌う? 馬鹿な。ギターだけでも手一杯なのに。
知生の自信満々な顔を見ていると、自然に熱い息が漏れた。普段は人気のないこの教室にも嬌声が届くほど、学校内は学園祭の空気に汚染されている。
漏らした溜息を吸い込み、私は担いだギターを下した。
「……仕方ない。わかった。私がやる」
なぜこんなにもあっさりと状況を飲み込めたのか、自分自身でもわからなかった。
単に断る理由がなかったのかもしれないし、祭りの空気にもっと深く混ざりたいと思っていたのかもしれない。
ただ間違いなく、辞退をしたくないという部分において知生と私は同じ気持ちなのだ。そして何より、湧き上がってきているこの熱を収める手段を私は知らない。
知生のためにも、手伝ってくれている文香のためにも、自分自身のためにも、ここで断るなんて事が出来ないだけだ。そうに違いない。
私のあっさりとした返答は知生の動揺を誘ったらしく、彼女はぽかんと口を開け、身体を揺らし始めた。
「出来るかどうかはわからないけど、出たいのは間違いないし、それしかないよね。私のパートが一番負担が少ないし。ただでさえボロボロなギターがさらに崩れるだろうけど」
『驚』
「書かなくても驚いてるのは顔を見ればわかるよ。ほら、練習付き合って」
自分で言い出したくせに心底意外そうな知生は、ゆっくりペンに蓋をした。
大元は私が書いた歌詞であるし、昨日散々聞いたし、なにより声を出すだけなら拙いギターより幾分ましだ。本番までの数時間あれば何とかなるだろう。ありがたいことに今日はクラスの配膳当番もない。
驚く知生を席につかせ、私は歌の練習を始めた。
正午を過ぎた頃、手に香ばしい匂いを携えた文香が合流した。曇天がいよいよ雨を降らせようかという空気を纏っている。
「それで小牧が代わりに歌うと。信じられないわ」
諸々の流れを話すと、文香は持ってきた出店の焼きそばを広げながら唖然とした表情を浮かべた。
ちょうど空腹感が顔を覗かせてきたタイミングにこんな差し入れをしてくれるなんて、彼女は神の使いか何かなのかもしれない。
「というか昨日散々注意したでしょ? ほんと何考えてるかわかんないわ。……ああ、私のカバンの中にのど飴あるわよ。舐めときなさい」
罵声とねぎらいを織り交ぜながら、文香はテキパキと焼きそばを取り分けていく。ふわふわと彼女の毛先が揺れる。普段の文香はここまで髪を巻いていないはずだ。彼女は彼女で学園祭の空気感に浸っているのかもしれない。
取り分けが終わった文香は、我が物顔で空いた席に腰かけた。
「剣道部も校庭で出店出してるんだけど、朝から入れ食いよ。大忙しでもうへとへと。昼から雨が降るかもしれないから、例年より客の入りが早いみたいね」
「そうなんだ。出店って何を出してるの?」
「フランクフルト。というか小牧、あんたも手伝いに来なさいよ。どうせ暇でしょ」
「えー。嫌だよ気まずいし」
「もう、まだそんなこと言ってんの? 別に部活に戻れってわけじゃないんだから、気軽に遊びに来ればいいのに。って私が言っても説得力ないか」
最後まで押し切ることなく、文香は大きく息を吐いた。数日前の説得困難な彼女の様子から考えると、こんな些細なことでも未だに信じられない。
「ふふっ。やけに物分かりがいいね。突っかかってきた時と別人みたい」
「あんたもそんなにオープンに失礼なこと言う奴じゃなかったよ。……でもまあ、そのほうが絡みやすいからいいわ」
文香は呆れたように笑い、ふうと息を吐いた。そのあと取り皿を机に置き、思い返すように宙を眺めた。
「正直ね、自分でもよくわからないの。なんであんなに意固地になってたんだろうって、今思い返しても意味が分からなくて胸糞悪い。なんというか、目が覚めたって感じ? ……ってなに言ってんだろ。ほら、冷める前に食べな」
促されるまま焼きそばを平らげ、私たちは最終調整を始めた。時間はあれよあれよという間に流れていき、あっさりと本番がやってくる。
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