第26話
翌日以降も練習は続き、あれよあれよという間に学園祭前日を迎えた。
学園祭までのカウントダウンに合わせ、校舎もみんなの気分もパステルカラーに色づいている。
いつも通り空き教室に向かうまでの間も、展示や出し物などの準備で放課後というのに校内は非常に賑やかだった。
各クラス一つは何か催しをしなければいけないという縛りのせいで、私のクラスは適当な飲食店をやることになったが、クラスで腫れ物になっているおかげで、私に与えられた役割はほぼ無いに等しい。
おかげでこの一週間、ギターの練習時間をたっぷり取れた。受注翌日に私が仕上げた歌詞も、多少知生の手直しが入ったものの驚くほど良いものになったし、諸々お世辞にも上手とは言えないが、なんとかなりそう、くらいの気持ちまでは浮かんで来ている。
それなりに順風満帆ではあるが、同時にちらほらと不可解な出来事も起こっていた。
まず、もう前日だというのにまだドラム担当の姿を見ていないこと。知生のことだから、何かしらの策を用意しているだろうし、こちらはそこまで大きな引っかかりではない。
それよりも大きなフックは、今日に至るまでに受けたいくつもの嫌がらせだ。
譜面台がへし折られていたり、楽譜がゴミ箱にすてられていたり、ギターの弦が切られていたり、ホワイトボードに脅迫めいたことが書かれていたり……。ドストレートに脅迫状が靴箱に入っていたこともあったか。
一週間みっちりと詰め込まれた不快要素は、明らかに誰かしらの手が私達を阻もうとしているという事実を見せつけていた。
ド素人である私達の出番が無くなったところで誰に何のメリットがあるのかもよくわからないし、そういう面でもこの嫌がらせはとても気持ちが悪いものだった。
毎度毎度知生があっさりとしたリアクションをするせいで話が流れ、結局犯人も分かっていない。もちろん知生は脅迫などで出演を取りやめる気も無さそうだし、本番で何も起こらないことを願うばかりだ。
とまあ色々ありつつも、今日は最終調整としてスタジオで練習を行うことになっていた。
にも関わらず何故か知生から空き教室への召集が入り、私達はぼんやりといつもの机を囲んでいた。
「ねえ、スタジオに行かないの?」
不思議な間に耐えかねて、私は口を開いた。ふわりとしたワンサイドテールを携えた知生は、退屈そうに奏でていた鼻歌を止める。
「んー? 全員集まったら行きますよ」
「全員……?」
ふんわりとした返事の後、再び静寂が訪れる。
頭にはてなを浮かべながらホワイトボードを眺めていると、満を持して教室の扉が開いた。入口に立つ人影を見て、私は思わず声を上げる。
「な、何しに来たの?」
「いきなり失礼ね。私だって来たくて来たわけじゃないよ」
唖然とする私を無視して、知生が嬉しそうに立ち上がった。
「お待ちしてましたよ。ちゃんと叩けるように仕上げて来ましたか?」
「誰に言ってんの? 私、一応先輩なんだけど」
「まさか待っていたのって……」
「はい。あんふみ先輩です」
「だからあんふみって呼ぶなっての」
そう言って知生は入口に佇む彼女を指差した。指を差されたあんふみ先輩、否、安斎文香は鋭く目を細めた。
私はあの決闘以降、文香と顔すら合わせていない。しかし、今のやりとりを見たところ、知生と文香には交流の跡が見えた。
全員揃ったらという知生の言葉、足りないドラム、現れた文香、今のやりとり、これだけで十分すぎる要素が揃ってしまった。
知生は文香にドラム担当を依頼していたんだろう。
「ドラム……文香が叩くの?」
「ええ。その通りです」
「文香ってドラム出来るの?」
「軽く叩けるくらいよ。素人バンドにはちょうどいいんじゃない?」
「すごっ。知らなかった……」
文香がドラムを叩けるなんて知らなかった。というか当たるならもっといただろう他に。なんでわざわざ文香なんだ。あの文香だぞ。知生がなにより被害を受けてたじゃないか。現に私は気まずさで居た堪れない。
私はあからさまに不機嫌な顔で知生を見たが、彼女は意にも介さずふんふんと移動の準備を始めていた。
知生からは何も出てこなさそうだったので、やむなく私は文香の方を向いた。一度過ぎ去ったことだからか、彼女の顔に前ほどの嫌悪感を抱かなくなっていた。
それでもやはり、彼女が私達に協力してくれる意味がわからなかった。
「どうして手伝ってくれる気になったの?」
「小牧に貸しを作るのも、悪くないかなって」
「それだけ?」
「それだけよ。文句ある?」
「ないけど」
ないけど、それだけのことでこんな面倒ごとに協力してくれることは些か気味が悪い。私が苦笑いを浮かべる間も、彼女の気味の悪さは止まらない。
「悪かったわね、この間は。あんたの意見を受け入れず、色々やっちゃったから。この子にも悪いことしたし」
文香は知生を指差した後、少し気まずそうに頭を掻いた。
「今思えばだけど、なんであんなことしたんだろうって。冷静じゃなかったわ。ごめん。あと、辛いときに助けてあげられなくてごめん。忘れてくれだなんて都合がいいとは思うけど、一応本心は伝えておくね。本当にごめんなさい」
文香は淀むことなくそう言って、わかりやすく溜息を吐いた。
ほんの数日前のことなのに、こちらを見る彼女の眼はあの日と別人のように見えた。それだけではなく、どこか以前の文香の香りを感じて懐かしくなってしまった。
そうだ。私がよく知っている彼女は、我が強いし口調も鋭いがすぐに非を認められる物わかりの良い子だったじゃないか。決勝の後の暴言だとか、この間の諸々だとか、今思えばそれらのほうが文香らしくない。
もちろんされたこと全てを無視できるわけじゃ無いけれど、それでも、なんとなく文香とまた昔のような関係に戻れるような気がした。
「……いいよ。私も後輩エースの鼻っ柱折っちゃったし」
「ほんと慰めるの大変だったんだから。ブランクくらい感じさせて欲しいわ。陽子がまた試合してほしいって言ってたよ」
「気分が乗ったらねって伝えておいて」
お互いがほのかに笑みを浮かべたところで、こんこんと机を叩く音が鳴った。
「ほらほら、ぐだぐだ話してる場合じゃないですよ。みんな揃いましたしスタジオに行きましょう」
余韻を切り裂くように歩き出した知生を追い、私達は教室を後にした。
本校舎は相変わらず本格的な学園祭の準備で盛り上がっていた。
異質な組み合わせの三人となった私達は、多少の視線を集めながら廊下を進む。
「この組み合わせは流石に視線を集めるね」
「コマキサ先輩が大きいからそう感じるだけですよ」
重々しいベースケースを背負いながら、知生はまったりと微笑んだ。私がでかいのは今に始まったことじゃない。今更視線を集めるものか。
「絶対知生のせいだよ。なんかやるぞあいつって思われてるんだよ」
少し前を歩いていた文香が、知生のほうに呆れた顔を向けて言葉を吐き出す。
「なに? この子いつもこんなに騒がしいの?」
お察しの通り、この子はいつも騒がしい。慣れている私からすれば、学園祭という巨大な餌が目の前にある状態で彼女が黙っている方が気味が悪い。
ただ、今は学園祭直前なのだ。知生でなくても浮かれて当然だと思う。
「いいじゃん。祭りの前日なんだし」
「超意外だわ。小牧がそんなこと言うなんて」
「そうかな」
そんな会話を聞いていたのか、知生が文香の方に言葉を向けた。
「スタジオに着いたら、まずは全員で合わせましょう。あんふみ先輩のお手並み拝見も兼ねて」
「あんふみって呼ぶなって言ってるでしょ」
さっきはリアクション出来なかったけれど、文香のことをあんふみだなんて呼び方をしている奴を初めて見た。不本意そうだけど、コマキサより断然いいじゃないか。ずるい。
「いいねあんふみ、可愛い。私もあんふみって呼ぼうかな」
「だったらあんたのことはコマキサって呼ぶわよ」
「うーん……。それは困るなぁ」
けらけらとくだらない会話を交わしながら、私達は校舎を進む。学園祭に彩られた視界に二人が映って不思議な気持ちになった。
なんて穏やかな時間なんだろう。私が求めていた高校生活は、こういう他愛のない時間だったように思えてくる。
人が多い廊下も、のんびりと下る階段も、何だか優雅なものに見えた。ふんふんと横では知生が肩を揺らしている。ふと初夏の緩い空気を思い出した。
そういえば、確かここは最初の頃知生が小説の模倣をして倒れていた場所だ。
階段から落ちたんだと思って、あの時は本当に焦ったな。知生のこともまだ全然知らなくて、口から出てくる言葉全てが理解できなかった。今も全てを理解できているというわけではないけれど……。
季節を跨いでも、私はまだちいリストを手伝い続けている。彼女と時間を共にしている。そのおかげで文香と再び談笑できているなんて、あの頃の私が聞いたらどんな反応をするんだろうか。
たまたま協力者に選ばれただけだったけれど、今はこの立ち位置が何より愛おしい。
次の階段に差し掛かっても、知生は楽しそうにワンサイドテールを揺らしていた。そんな彼女の様子が、私の心も弾ませた。
受けた恩返しというわけではないが、彼女と一緒にこの祭を謳歌したい。というかさせてあげたい。うーん。秋にぴったりの切ない気持ちだ。あとニ、三曲くらいなら追加で歌詞を書けそうな気がする。書かないけど。
そんな意識を乗っ取るかのように、トンという弾む音が鳴った。
深く思考に潜っていた私は、一瞬にして現実に引き戻された。
知生が下り階段に一歩足を踏み入れようとした瞬間、大きな荷物を担いだ彼女の姿がふわりと浮いた。弾んだ、という表現の方が正しいかも知れない。
毎度毎度猫のように動く知生のことなので、普段であれば大したことない動きだ。
しかし、先に続く長い階段の深さと、後ろから突如大きな力を加えられたように無力に浮いた知生の姿は、一瞬で私の体温を奪った。
模倣で倒れこんでいたかつての知生の姿がフラッシュバックする。だが今回は違う。これは演技なんかじゃない。
「あぶなっ!」
知生が階段から落ちている。その認識が巡ってくると同時に、私はとっさに右手を伸ばした。
なんとか掴んだ襟元に、思いっきり力を込める。急激にかかる引力に必死に抗い、踏ん張って思いっきり知生の身体を引き寄せた。
なんとか私の右手の力が勝り、私は知生を抱えながら尻餅をついた。顎にベースの先が直撃するが、構わず私は知生の身体を包む。
「げほっげほっ」
首に唐突な力を受けた知生は、大きく咳き込んだ。襟元を吊り上げられたのだ。唐突にしても掴む場所を選んでやるべきだった。
私は急いで背後を見渡したが、準備でごちゃごちゃとしている人並みの中では怪しい人物を見つけることができなかった。くそっ。すぐに振り返ればよかった。
じんじんと下半身と顎に痛みが走る。高まる心音がそれを覆っていく。臀部にかかる二人分の圧力も気にならないほど、恐ろしい出来事が起こった。
動体視力と反射が腐っていなくて本当に良かった。あと少しでも遅れていたら、知生は階段下へ転がり落ちていただろうから。
トンという音、今の動き、呆然とする知生。間違いない。彼女は今、後ろから突き飛ばされたんだ。勝手にエモくなっている場合じゃなかった。
「何やってるのよ」
先に階段を降りていた文香が私達の方へと戻ってくる。階段手前で知生を抱き抱え座り込む私は、たいそうおかしくみえたことだろう。呆れた顔を浮かべる文香に苦笑いを返すのがやっとだった。
「知生が後ろから」
誰かに押されたの。そう言葉を続けようとした私の口を、知生の手が覆った。
「いやあ、足を滑らせてしまいました。びっくりびっくり。あんふみ先輩、先に行っててください」
「何やってんだか。明日本番なんだから気をつけなさいよ」
「イエッサーでーす」
文香はやれやれと溜息を吐いて、階段を降りていった。文香の姿が見えなくなったあと、知生はゆっくりと私の口から手を離した。
「大丈夫?」
「はい。おかげさまで。……ありがとうございます」
「足なんて滑らせてないでしょ? なんで隠したの?」
「明日本番なのに、心配させたくないじゃないですか。こんな些細なことで」
そう言う知生の手はわかりやすく震えていた。言葉と体の動きが見事に連動していなかった。
これも例の嫌がらせの一環なのだろうか? 今までは直接的な害などなかったのに、今回はちょっと洒落にならない。
犯人はよっぽど私たちに、というか知生に学園祭のステージを辞退して欲しいらしい。
「些細じゃないじゃん。これはちょっと、流石にヤバくない? ここ最近多かったけど、階段から落とすのはやりすぎだよ。許せない」
「まあでも、気にするほどでもないでしょう」
「知生……」
知生の手は変わらず震えている。怖かったんだろう、恐ろしかったんだろう。そしてその上で強がっているんだろう。
今までの嫌がらせに関してもきっとそうだったんだ。平気な顔をしているから大丈夫だろうなんて、どれほど浅はかだったんだ私は。いくら不思議で自由気ままでも、この子は年下の女の子に変わりない。
「気にすることだよ。やっぱり出るの辞めた方がいいんじゃない?」
「嫌です」
「次は本当に怪我するかもしれないよ?」
「しません。絶対に」
「なんでそこまで……」
知生は言葉を返すことなく階段を降り始めた。何がそこまでの原動力になっているかは分からないが、やはり彼女は諦めるつもりがないらしい。
私はゆっくりと息を吸い、足を進め続ける知生の背中を見つめた。普段は頼もしい彼女の姿も、改めて見るとやっぱり小さい。
めらめらと心の奥底で炎が燃え始める。私の大切な後輩がこんな目に遭ってまでやり切ろうとしているんだ。邪魔なんて、絶対にさせてやるものか。
「オッケーわかった。やってやろうじゃない」
私の言葉を背に受け、知生は振り返り意表を突かれたような顔を浮かべた。
「今、なんて……?」
「明日、絶対に成功させよう。私が絶対に守ってみせるから、やりきろう!」
この決意は、弱い自分への三行半だ。そりゃ今までの私なら、無理やりにでも取り止めの方を薦めていただろう。 事を大きくするぐらいなら、自分の心を封殺するほうが楽だから。
でも私がこの数ヶ月で知生にもらったのは、日和るための感性じゃない。ここで背中を押せないで何が恩返しだ。この子に降りかかる悪意は、私がもれなく喰ってやる。
私は大きく息を吸って、階段で立ち止まる知生に並んだ。彼女は何かを飲み込むようにぐっと拳を握っていた。言葉もなく固まったままの少女の肩をゆっくりと叩く。
「ほら、練習行くよ」
「……はい」
足を進めた私に、知生は慎ましく追随する。私がもっとごねると思っていたのか、知生の勢いはすっかりと影を潜めていた。
階段を抜けた後、窓の先に映った景色を見て彼女は静かに呟きを零す。
「霧は晴れたみたいですね」
きっと届けるつもりもない、ギリギリ届いた言葉。今日は元より快晴、霧なんてかかっていない。
言葉の意味もタイミングもわからなかったので、私は聞こえないふりをして足を進め続けた。
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