第23話

 どんな競技だって、実質二日の練習で初心者が経験者を打ち破るのは難しいと思う。というか少なくとも剣道で言えばそうだ。

 練習しないと有効部位に打突すら当たらないし、そもそも竹刀をしっかりと振り切るのにも技術がいる。

 ダメ押しで言えば、文香は決して弱くない。この半年間の成長を差し引いても、知生のような素人には負けないだろう。

 しかしこの展望は、あくまで知生が初心者であるという前提のもとに成り立っている。

 というのも、そもそも前提自体が間違っていたのだ。彼女は経験者で、何なら多分それなりに強い。

 ブレない切っ先や足さばき、重心の動きなど、翌朝の僅かな手解きの中で、それらが一朝一夕で身につけられたものではないことが明らかだった。

 知生はなぜかそれを隠しているし、追及するつもりもないが、私としてはただただ好都合だ。

 翌日の放課後に空き教室で知生と合流した後、私は彼女を連れてとある場所へと向かった。

「ほほう。こんなところに道場があるんですね」

「昔通ってた道場だよ」

 私達が訪れたのは、私が小学校の頃通っていた道場だった。あの教室で縮こまった練習をするより、それなりの空間を用意した方がいいと思った私は、微かな伝手を思い出しここを訪れることにしたのだ。

 訪れるのも数年ぶりだが、あの頃とちっとも変わっていない。

「でもなんかぼろぼろじゃないですか……? 人の気配を感じません」

「そりゃそうだよ。数年前に看板を下ろしているもの」

「えっ」

 意外そうな顔を浮かべる知生に笑顔を返し、私は道場横の民家へと向かった。

 インターフォンを押してしばらく待つと、腰が曲がった女性が民家から姿を現した。女性は不思議そうに私達を見つめ、大きく首を傾けた。

「あら、どちら様かしら」

「月子さん久しぶり。沙夜子だよ」

「まあ!」

 私の言葉を聞いた彼女は、薄い目を大きく見開いた。

「まあまあ、さっちゃんだったのね。大人っぽくなったわねぇ。気がつかなかったわ」

 彼女は私の方へとゆっくりと近づき、穏やかな笑みをこちらに向けた。私が大きくなったのもあるが、彼女の背丈も昔より低いと思う。かつてとは大きく目線が違う。それでも、この笑みはひどく懐かしい。

「何年ぶりかしら。活躍は聞いてるわよ」

「いやいやそんな……。ところで先生は?」

「うーん。囲碁でも打ちに行ってるんじゃないかしら」

 彼女はやれやれと溜息を吐いた。師範がいないのは、余計な追求を避けられてむしろ好都合だ。

「そっか。ごめんねいきなり来て」

「いいのよぉ。嬉しいわぁ。どうしたの?」

「実は、道場を借りたくて……」

「道場を?」

 私の言葉に、彼女は目を丸くした。それもそのはず、おそらくあの道場は長年使われていない。師範が腰を悪くして以降、剣道教室を畳んでしまったのだ。新しく教室を開いたという話も聞いていない。歳も歳だし。

「やっぱり急だったよね……」

「いやいや、大丈夫よ。諸々手入れは荒いからボロはあるでしょうけれど、他でもないさっちゃんのお願いだもの。鍵を取ってくるわね」

 彼女が家屋に引っ込んでいった隙に、知生が私の袖を引いた。

「誰ですかあのおばあちゃんは?」

「私がこの道場に通っていた頃、お世話になっていた月子さんだよ。この道場の師範の奥さん」

 当時ここの剣道教室には私以外に女の子がおらず、月子さんは私を孫のように可愛がってくれていた。私も祖母に対する様に彼女に甘え切っていたし。

 道場自体が取り壊されていたらどうしようかと思ったが、なんとか練習場所で困らずに済みそうだ。

 少しの間の後、再び月子さんが姿を現し、私達を道場へと導いてくれた。

 久々に日の目を浴びたであろう道場は、予想に反して綺麗にその姿を保っていた。

「あれ? もしかしてまた教室始めたの?」

 ぽつりと漏れた私の疑問に、月子さんは笑みを返した。

「綺麗なのが気になる? あの人もやる事がなくて退屈なんでしょうね。腰が悪いくせに掃除だけは欠かさずやっているのよ」

「ああ、なるほど」

 一礼して足を踏み入れる。ひんやりとした床が気持ちいい。あの頃と同じ匂いがした。落ちた日が差し込み、床に反射してキラキラとしている。私のルーツとも言える空間。ここで振り下ろされた一刀を見て、私は剣道を始めたんだ。

 急激な懐かしさに思わず涙腺が緩みそうだったが、私はグッと息を飲んで差し込む光を眺めた。

「ここにあるものは好きに使っちゃって良いからね。私は夕飯の支度があるから戻るけれど、何かあったらまた呼んでちょうだいね」

「ありがとう月子さん」

 私は月子さんに向けて大きく頭を下げる。それに合わせて知生も頭を下げた。月子さんは微笑んだ後、家屋の方へと戻っていった。

「看板を下ろしたにしては、中は綺麗ですね」

 スタスタと道場を歩きながら、知生が辺りを見渡す。懐かしい道場の景観に知生が混ざっていることが、私の時間軸をぐるぐると狂わせてくる。

「そうだね。私がいた頃とちっとも変わってない」

「ここの師範がコマキサ先輩の師匠なんですか?」

「師匠って大仰な。まあそうね。ここの偏屈ジジイが私に剣道を教えてくれてたよ。腰を悪くして私が中学に入る前に閉めちゃったんだけどね」

 知生が大きく息を吹き出した。

 なんともエレガントさに欠ける返答をしてしまったが、知生が笑っているからいいか。

「酷い言い方。確かにやってない道場を何年も綺麗にし続けるなんて変わり者かもしれませんけど」

「ほんと変わり者だよ。心が大事だ、心が大事だって、毎回そればっかり。今思えばすごいわかりにくい教え方をされていた気がするわ」

「いないのをいいことにめちゃくちゃ言いますね」

 知生はけらけらと笑いながら、道場の隅に荷物を置いた。

「わざわざ道場に来たことですし、軽くお手合わせ願いましょうか」

 彼女は大きく伸びをして、慣れた様子でストレッチを始めた。唐突にお手合わせだなんて、えらく急な提案だ。

「いやいや、流石に初心者とは……」

「ここに連れてきたってことは、私が初心者じゃないってことに気付いてるんですよね。まどろっこしいのはやめにしましょう」

 渋る様に荷物を置いた私を見て、知生はにやりと笑みを向けた。なんだ、気付いていることも織り込み済みなのか。

 というか、先にまどろっこしい隠し事をしてきたのは知生の方じゃん。私はただ思いっきり竹刀が振れる場所に来たかっただけだ。

 あっさりとしたカミングアウトに毒気が抜かれた私は、溜息を吐きながら竹刀を取り出す。

「わかったわ。私サイズの防具あるかな……」

「このままでいいですよ。軽い稽古ですから。本気で打ちやしませんよ」

「えっ。恐ろしいこと言ってない?」

「さあどうでしょうね」

 さらりと言葉を吐いた知生は、持参した竹刀を取り出して道場の中央へと進んでいく。まさか防具なしで試合をやろうとしているのか。

「危ないってば。痛いよ? 竹刀って」

「そのくらい知ってますよ。軽くって言ってるじゃないですか」

「その竹刀だって、ベランダに置いていたんでしょ?」

「手入れはちゃんとしてきました。さくっと動きを見てもらった方が何が足りないかわかりやすいでしょう?」

 確かにその通りではあるが、私の方にも心の準備がある。

 というか私はあの決勝以来、初めてまともに竹刀を握るのだ。どうせなら葛藤とかそういうのもやっておきたいし、もっと感傷的になってもいいじゃないか。

 諸々考えた後、知生相手にそんな感性が無意味だということを思い出した。

 私は大きく溜息を返し、止む無く知生の前へと向かった。

 軽いストレッチを済ませた後、三メートルほどの間隔を開け竹刀を持った二人が相対した。私はゆっくりとしゃがみ込み、大きく息を吐いた。

「久々すぎて緊張するわ」

「再三ですけど、軽くですからね。痛みを感じたらすぐに出るとこ出ますからね」

「こっちの台詞なんだけど……」

 竹刀と竹刀を向け合う。自然と試合開始前の状況が作られる。知生の動きに不自然な箇所は一つもなく、それだけで十分に経験を積んだ人間であることを理解させられた。

 もう隠す気など毛ほどもないらしい。そのせいで、公式戦のようなじっとりとした緊張感がある。

 ふうと一息吐くと、二人の間を漂う空気がぱきりと張り詰めた。目の前には竹刀を握って鋭い目を向ける知生。状況だけで見ると試合開始を待っているのに、防具もつけず、ジャージに素足というトンチキな格好。そしてそれを覆う様に伸びる私の竹刀。

 ああ懐かしい。こんな光景見たことないはずなのに、取り囲む空気全てが懐かしく思える。

「じゃあ行きますよ。始めっ!」

 唐突の開始宣言の後、知生ゆらりと立ち上がり足を後ろに動かした。私との間合いを測るように、じりじりと剣先が揺れる。それに合わせて鳴る心音が、身体に熱を運んでくる。

 半年ぶりの距離感が、ゆっくりと私をあの頃の私に引き戻した。頭から爪先まで、全ての細胞に神経を尖らせる。ゆらゆらと炎のように心が揺れる。

 知生の呼吸も、足の動きも、なんなら筋繊維の一本一本まで見える気がした。まあ気のせいだけれど、そのくらい今日の私は冴えている。

 ほんの数秒前は防具なしの状況に怯えていたのに、何故だか湧き上がってきた無敵感が私の口を動かした。

「私からは打たないから、好きに打ちなよ。多分、全部止められるから」

「なんですかその強キャラみたいな台詞。後悔しても知りませんよ!」

 ニヤリと笑みを浮かべた知生は、すっと両腕を上に構えた。そのまま一呼吸置いたかと思うと、彼女の竹刀が私の額に向けて大きく振り下ろされる。

 この状況で上段からの面とか、殺す気か。急いで竹刀を動かそうとしたところで、知生の重心が動いたのが見え、私は手を返した。

 パァンと竹刀が弾ける音が道場に響いた。手の痺れと共に、私は知生から距離を取り再び正位置で竹刀を構える。

 知生が繰り出したのは、面をフェイントにした綺麗な逆胴だった。動体視力が鈍っていなくてよかった。でなければ私の胴は今頃真っ二つだっただろう。

「ちょっとちょっと! 危ないでしょ!」

「好きに打ちなよって言ったじゃないですか」

「たしかにテンションが上がって言っちゃったけど……! 本気で打つ? 死ぬかと思ったわ!」

「殺す気では打ってませんよ」

「嘘だね! だってめっちゃ痺れてるもん手。あー怖かった」

「そっちこそ嘘でしょ。そんなにやけた顔で」

 知生の言葉で私はようやく自分の表情に気がついた。口角が上がっている。にやけている。確かにそうだ。私の心は言葉とは裏腹に踊っている。私はじんじんと震える両手を見つめた。

 綺麗な逆胴、ギリギリの駆け引き、あの身を焦がすような一瞬の緊張を、私はにやけるほど楽しんでいたのだ。

 その事実を認識してしまったことで、色々な想いが急激にフラッシュバックしてくる。

「ど、どうしたんですか? 当たってないですよね?」

「え? なにが?」

 なにやら心配そうに私に駆け寄ってきた知生が、私の身体を確認するように目を動かした。にやけ面で逆胴を放った少女とは思えない様子に、私はその場でうろたえた。

「どうしたのよ急に」

「どうしたはこっちの台詞ですよ。それ」

 知生の指が私の顔に向けられる。促されるまま頬を撫でると、じっとりと暖かい滴が指を伝った。なんだこれは。瞳から溢れるこの感触を涙以外に知らない。私は泣いているのか。

 私は訳もわからず両目を覆った。

「えっ。あれ? なんで?」

「まさか、どこか痛めたんですか? 怪我明けだってわかってたのに、私なんてことを……。び、病院! 病院に行きましょう!」

「違う、違うよ。どこも痛めてない」

 私はたどたどしく言葉を吐いた。身体なんてどこも痛くはない。怪我明けの足も絶好調だ。

 ただ気付いてしまった。懐かしさや緊張が合わさり、忘れていた感情を目の前に連れてきていたことに。その事を自身の涙で理解してしまった。痛いのは心だ。

「私はやっぱり剣道が好きだったんだなって、思い出しちゃった」

 私は剣道を嫌いになったんじゃない。そんな簡単なことを理解するのに、どうしてこんなに時間がかかってしまったんだろう。

 あの環境が嫌になっただけで、私は今でも剣道が大好きじゃないか。剣道から離れることなんてなかった。まとめて目を背ける必要なんてなかった。これはきっとその悔し涙だ。

 私はジャージの袖で涙を拭い顔を上げる。知生の相変わらず心配そうな顔が映った。

「ひょっとして先輩は……。部活に戻りたいんですか? 私に遠慮して言えないだけですか? 私、余計なことをしてますか?」

「ううん。それはないよ。私がいたい場所は、あそこじゃない」

 私は大きく息を吸い、言葉を吐き出した。

「今はっきりと分かったよ。こんなに楽しい剣道に負けないくらい楽しいことを、この半年であなたがたくさん教えてくれたんだって。だから私は知生と一緒がいい」

 私は退部届と一緒に、何かに熱を注ぐ力まで捨ててしまっていたらしい。物事に本気になれなかったんじゃない。無意識に本気にならないようにしていたんだ。

 好きな事に熱を注ぐ事は、自分自身を傷つける事だと勝手に思い込んで、傷つかない道を選んでいたのだろう。

 しかし、周りの目を気にせず天真爛漫に動く知生と出会って、私はきっと物事に熱を注ぐ力を取り戻している。好きなことを好きと言える自分を取り戻しつつある。

 ようやく具体的に言語化できた。完璧だ。この気持ちに間違いはない。

「お願い。文香に勝って」

 支離滅裂で無茶苦茶で、多分訳がわからないことを言っている。その自覚はある。でもきっと知生なら大丈夫。私の足りない言葉を勝手に補足してくれるはずだから。

 知生は下がった眉をキリッと上げ、不敵に微笑んだ。

「……今更何を言ってるんですか。私から喧嘩を売ったんですから、当然勝ちますよ。ほら、構えてください。 彼女たちの決闘が終われば、きっと私はあの過去を完全に払拭できる。そうに違いない。私は笑みを浮かべ、竹刀を構える。

 私達は日がしっかりと落ちるまで刀を交え続けた。


 稽古が終わり道場を出ると、見覚えのある人影が私たちを出迎えた。白髪混じりのその姿に、私は思わず声を上げる。

「げっ」

「久々に顔を見せたかと思えば、随分なリアクションじゃないか」

「あはは……。ご無沙汰してます」

 目の前に現れたのは、私の記憶より少し老いた師範だった。くそっ。会わずに帰るつもりだったのに。

 未だ私より背が高い彼は、つかつかと私に近寄り肩を持った。かつてほどの威圧感は無いが、それでも無意識に身が引き締まった。

「辞めたんだってな」

「……知ってるんですね」

「当然。俺は剣道大好きおじいさんだからな」

 がはがはと大きな声で笑う彼は、大きく私の肩を揺らした。こういうデリカシーの無いところはちっとも変わっていない。あと肩を持つな。セクハラだからな。

 私はパシリと手を払い、頭を下げた。

「勝手に道場をお借りしてすいませんでした」

「構わん。月子さんが良いと言ったんだろう」

「……明日も借りていいですか?」

「ああ。好きに使うと良い」

「ありがとうございます。それじゃ」

 私は逃げるように足を動かした。久々で距離感も測りかねているし、何より細かい追及をされるのは厄介だ。

 急いで横をすり抜けようとした私の肩を、彼はもう一度がしりと掴んだ。二枚目のイエローカードだぞ。警察に突き出してやろうかしら。

「なんですか?」

「お前は昔から自分の心を大切にすることが苦手だからな。新しい道を探すこともまた剣道。大切なのは心だ」

 お決まりのような台詞が彼の口から飛んできた。懐かしい文句だ。私は幾度となくこの言葉をぶつけられ、幾度となく首を傾げていた。今だって例外では無い。

「ありがとうございます。ほら、知生、行こう」

 とりあえずの返事を返し、退屈そうに身を揺らしていた知生を呼びつける。彼女は小さく微笑みながら、私の後ろに並んで頭を下げた。

 今度は私たちを引き止めることなく、彼はこちらに視線だけを向けた。

「気をつけて帰れよ。あ、近々道場を再開しようと思っているんだ。誰か手の空いた暇そうな指導員を知っていたら教えてくれ。例えば剣道を辞めた女子高校生、とかな」

 私は言葉を背に受けながら、足を止めずに進める。振り返らずとも、どうせ師範の顔がにやけていることがわかっているからだ。

 相変わらず面倒くさいおじいさん。彼の言葉に含まれているであろう意味合いを少し理解できたのは、私があの頃より大人になったからだろうか。

 月明かりに導かれるように、私たちは帰路を進んだ。

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